7:6 聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります。
それが聖書の言葉とは知らないで使っている言葉が沢山あります。たとえば、「目から鱗」。これは、パウロがイエスの栄光に撃たれ目が見えなくなったとき、アナニアが祈ると、パウロの「目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった」(使徒9:18)とある箇所から生まれた言葉です。じつは、「グッド・バイ」も、もとは、“God be with you!” で、ルツ2:4 から来ています。写真を撮るとき、若い人たちが「ピース」と言って指で「Vサイン」を作りますが、これは、復活されたイエスが弟子たちに「平安あれ」と言われたことから来ています(ヨハネ20:19, 21, 26)。
山上の説教からの言葉も、一般によく使われます。「世の光」、「地の塩」、「目には目を」、そして、きょうの箇所の「豚に真珠」などです。これらの言葉は一般では、聖書と違った意味で使われますが、イエスはどのような意味で、「豚に真珠」という言葉を使われたのでしょうか。ご一緒に考えてみましょう。
一、ユダヤ人の解釈
ユダヤの人々やムスリムの人たちは決して豚を食べません。それは、豚が聖書では「汚れた動物」とされていたからです。イエスは「放蕩息子」の譬えでこう言われました。「それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。」(ルカ15:15-16)ここで「彼」とあるのは、父親が生きているうちから、自分の相続分をもらって、遠い国に行った「放蕩息子」のことです。そこではユダヤでは決して飼われることのない豚が飼われていましたから、放蕩息子がユダヤを離れ外国に行ったことが分かります。また、放蕩息子が豚の餌さえ食べたいと思ったのは、彼が動物以下の状態にまで落ちぶれ、ユダヤの人が「汚れた動物」としていた豚よりも汚れたものになったことを意味しています。
放蕩息子の譬えは、直接的にはパリサイ人や律法学者に語られたものでしたから(ルカ15:2)、彼らは譬えの中に豚が登場したとき、顔をしかめたことでしょう。けれども、豚が意味するところは良く分かったと思います。ユダヤの人々の理解によれば、「犬」も「豚」も、まことの神を知らない異邦人のことで、汚れた人々を指すものでした。とくにパリサイ人や律法学者は「異邦人の汚れ」をとても気にしていて、その汚れを落とす儀式までしていました。
二、イエスの言葉
では、イエスが弟子たちに「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません」と言われたとき、「犬」や「豚」を「異邦人」という意味で使われたのでしょうか。いいえ、そうではありません。
箴言3:15に「知恵は真珠よりも尊く、/あなたが喜ぶどんなものも、それと比べられない」とあるように、「豚に真珠」の「真珠」には、「知恵」という意味があります。また、マタイ13:45では「天の御国」は「真珠」にたとえられています。黙示録にある「新しいエルサレム」の12の門は、それぞれ一つの巨大な真珠でできています(黙示録21:21)。イエスが「聖なるもの」、また「真珠」と言われたのは、救いに至る知恵を与える神の言葉、つまり、福音のことであり、福音の真理を信じて与えられる神の国を指しています。イエスは、この福音がユダヤ人にも異邦人にも全世界のすべての人に届けられ、誰であっても信じる者は救われると言われました。
イエスの地上での働きは、わずか3年でしたので、イエスの働きはユダヤに集中していました。けれどもユダヤ人以外の人々を無視し、退けられたのではありません。イエスは、異邦人であったローマの百人隊長の信仰について、「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません」と言って称賛されました(マタイ8:10)。それに続いて、「あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます」(マタイ8:11)と言われ、異邦人も神の民に加えられると言われました。
イエスはまた、豚が飼われていたガラダ人の地に足を踏み入れ、その墓場に住む人から悪霊を追い出しておられます(マタイ8:28-34)。
ツロとシドンの地方に行かれたとき、ひとりのカナン人の母親が、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と叫んでイエスにつきまといました(マタイ15:22)。そのときイエスはこう言われました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。……子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」(マタイ15:24, 26)ここだけ読むと、イエスも、他のユダヤ人と同じように、異邦人を「犬」と呼んで蔑んでいるように見えます。しかし、この言葉はこの母親から信仰を引き出すための言葉でした。この母親は、イエスが言われた「小犬」という言葉を使ってこう言いました。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」(マタイ15:27)彼女はイエスが娘を癒やしてくださると信じたのです。イエスは彼女の信仰に答え、娘を即座に癒やされました。イエスはこのことによって、ユダヤ人であろうが、なかろうが、誰であっても、御名を呼び求める者に答えてくださることを教えておられるのです。
ですから、イエスがマタイ7:6で言っておられる「犬」や「豚」は、決して異邦人のことではないことが分かります。もし、それが異邦人のことであったら、ユダヤ人でない私たちは誰一人福音を聞き、イエス・キリストを信じ、神の国に入ることはできなかったでしょう。
三、使徒たちの教え
では、イエスは「犬」や「豚」という言葉によって、どんな人々を意味しておられたのでしょうか。イエスご自身は、ここでそれを説明しておられませんが、使徒たちが、イエスに代わって、イエスの言葉の意味を教えています。
使徒パウロは、ピリピ3:2-3にこう書いています。「犬どもに気をつけなさい。悪い働き人たちに気をつけなさい。肉体だけの割礼の者に気をつけなさい。神の御霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇り、肉に頼らない私たちこそ、割礼の者なのです。」当時、イエスを信じるだけではなく、割礼も受けなければ救われないと教える人々がありました。彼らは、パウロの伝道によって生まれた異邦人クリスチャンに割礼を強要しました。しかし、それは、救われるためには「割礼」という旧約律法を守らなければならないことになり、律法の行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという福音の真理を否定することでした。パウロはこのような教えに反対し、それを教える人々を「悪い働き人」、「人を欺く働き人」、「偽使徒」(コリント第二11:13)と呼び、ここでは「犬」と呼びました。
使徒ペテロも、偽教師についてこう教えています。「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」(ペテロ第二2:1)正しい生活は、正しい教え、真理から生まれます。間違った教え、偽りからは、不道徳しか生まれません。ペテロは、「これこそキリストの教えだ」と言いながら、じつはイエス・キリストを否定する教え、つまり「異端」を持ち込む「偽教師」とそれに従う人々についてこう言っています。「主であり、救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れから逃れたのに、再びそれに巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる戒めから再び離れるよりは、義の道を知らなかったほうがよかったのです。『犬は自分が吐いた物に戻る』、『豚は身を洗って、また泥の中を転がる』という、ことわざどおりのことが、彼らに起こっているのです。」(ペテロ第二2:20-22)
こうした聖書の言葉から、「犬」や「豚」が「異端」の教えの指導者やそれに従う人たちのことであることが分かります。この人たちも、最初は「聖なるもの」や真理を垣間見たのです。しかし、それによって、真実にイエス・キリストを受け入れ、真理に留まり、キリストに従い続けることをしませんでした。自分たちの偽善や不道徳な生活を正当化するために、自分勝手な教えを作り上げるようになったのです。誤った教えから不道徳が生まれますが、不道徳な生活から間違った教えが生まれるのです。
信仰のことを語り、聖書の真理を分かち合おうとすると、それに反対して、かみついてくる人がいます。心を込めてイエス・キリストのことを話しても、真剣に受けとめることなく、救いを求めようとしない人もいます。そんなとき、ふと「豚に真珠」だったのか…と失望することもあるでしょう。しかし、信仰に反対してくる人の中には、過去に教会で嫌な思いをしたとか、「クリスチャン」と呼ばれる人に裏切られたなどの経験があって、キリストを求めていても、それを素直に表せない人もあるのです。ですから、人を簡単に「犬」や「豚」だと考え、伝道を止めてしまってはならないと思います。
きょうの箇所で言われている人々には、信仰に反対したり、信仰を求めようとしないノン・クリスチャンも含まれているでしょうが、使徒たちが警戒するように教えたのは、「クリスチャン」だと自称しながら、実は、ほんとうにはキリストを信じていない人々、キリストに従っていない人々のことでした。使徒たちは、「真理」と「異端」とをしっかり見分け、そこに一線を引いて、真理に堅く立つようにと教えています。
きょうの言葉は、また、一人ひとりの心と生活から、聖なるものに逆らい、真理の教えを軽んじる「犬」や「豚」のような思いを追い出すことを教えていると思います。私たちは、イエスに救われ、犯した罪のすべてを赦されました。そして、日々、それらの罪から聖められ、罪の結果受けた傷から癒やされています。「日々」と申し上げたように、聖めや癒やしは一足飛びになされるのでなく、私たちは、さまざな試練を通して聖められ、時間の中で癒やされていくのです。しかし、それは、人間の努力によるものではなく、地上での聖めや癒やしは天の完全な聖めと癒やしに結びついており、それによってなされるのです。けれども、罪が支配するこの世では、私たちの思いの中に犬や豚のようなものが顔を出し、私たちが天を見上げるのを妨げ、天に向かって進んでいく邪魔をしたりします。そうしたことがないように、私たちは常に自らを点検していきたいと思います。
ペテロの第二の手紙は、偽りの教えと偽りの生活に浸っている人々を警戒し、そうしたことから離れるよう教えるものですが、同時に、聖めを求める人々を励ましています。ペテロの手紙第二の最後にある言葉を読みましょう。「ですから、愛する者たち。あなたがたは前もって分かっているのですから、不道徳な者たちの惑わしに誘い込まれて、自分自身の堅実さを失わないよう、よく気をつけなさい。私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。イエス・キリストに栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。」(ペテロ第二3:17-18)この週、この勧めの言葉を心に留め、主を呼び求めながら、歩み続けましょう。
(祈り)
父なる神さま、私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によってあなたの民とされましたが、まだ、真理と偽り、善と悪、聖なるものと俗なるものとが闘う、この世に生きています。とりわけ、今は、偽りが真理を食い尽くし、俗なるものが聖なるものを葬り去ろうとしている時代となりました。だからこそ、私たちが、偽りと悪と、俗なるものを退け、真理と善に立ち、聖なるものを喜び、それによって満たされるため、あなたの恵みと力が必要です。この週もそれらを受けて力強く歩む私たちとしてください。イエス・キリスのお名前によって祈ります。
10/8/2023