6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
「母の日」には「母なる教会」についてお話ししましたので、きょう「父の日」には「父なる神」についてお話したいと思います。
聖書で神は「父なる神」と呼ばれています。イエスは、常に、神を「父」と呼ばれました。「主の祈り」は、イエスが「このように祈りなさい」と言って私たちに与えてくださった祈りですが、イエスは、「天にまします我らの父よ」と神に呼びかけるよう教えてくださいました。もとの言葉では「父よ、私たちの、天におられる」と言う順になりますので、イエスは祈るときは、「父よ」という言葉で始めるよう教えてくださったのです。
では、神が「父」と呼ばれるのには、どんな意味があるのでしょうか。今朝は、ふたつのことを学びましょう。
一、造られた物の父
神が「父」と呼ばれるのは、第一に、神がすべてのものの創造者だからです。ヒポクラテス(460-370 BC)は「医学の父」、ニュートン(1643-1727)は「近代科学の父」、バッハ(1685-1750)は「音楽の父」、アダム・スミス(1723-1790)は「経済学の父」と呼ばれています。フランス王シャルル五世(1338-1380)は、金持ちへの税金を高くし、富裕層の反対にあいました。それで彼は「税金の父」というちょっと変わった称号をつけられました。日本でも、さまざまな「父」がいます。たとえば、嘉納治五郎は「柔道の父」と言われています。アメリカでは「建国の父」はひとりではなく、独立宣言や合衆国憲法に署名した多くの人々を指します。この人たちは、ドル紙幣にその肖像が刻まれています。1ドル札のジョージ・ワシントン、2ドル札のトマス・ジェファーソン、10ドル札のアレキサンダー・ハミルトン、100ドル札のベンジャミン・フランクリンたちです。これらの人々は新しいものを生み出し、それが長く続いたので「父」と呼ばれています。
それでも、これらの人々は、ある時代の、ある分野で働いたにすぎません。全世界の、見えるものも見えないものも、すべてをお造りになったのは神です。ですから、神は、聖書が言うように「天上にあり地上にあって『父』と呼ばれているあらゆるものの源なる父」(エペソ3:15)なのです。
哲学者たちは「神」を定義して、「あらゆるものの第一原因」、「すべてのものを動かしているが、何ものによっても動かされない者」などと言いました。しかし、この定義では世界と人間を創造し、あらゆる人々を生かし、養い、顧みてくださる神の「父」としての愛情や温かさを感じることができません。イエスは哲学者たちのように神を定義しませんでした。むしろ、神を生き生きと描き、示してくださいました。イエスは長々とした説明ではなく、たったひとつの言葉、「父」という言葉で、神の偉大な力や栄光とともに、神の温かい慈しみや恵みを表現されました。
マタイ6:25-30に有名な言葉があります。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。…また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。造り主である神は、空の鳥や野の花さえ養い、美しく装わせてくださっている。そうであるなら、どうしてわたしたち人間を父親のように守り、支えて、導いてくださらないわけがあろうかというのです。
この聖書の言葉から「ごらんよ空の鳥」というかわいい歌が生まれました。キリスト教の幼稚園や学校でよく歌われています。こんな歌詞です。
ごらんよ空の鳥 野のしらゆりをこの歌のように、造り主である父なる神の愛を感じながら日々を歩むことができたら、どんなに幸いでしょうか。
蒔きもせず紡ぎもせずに 安らかに生きる
こんなに小さな いのちにでさえ
心をかける 父がいる
友よきょうも 讃えて歌おう
すべてのものにしみとおる 天の父のいつしみを
二、生まれた者の父
神が「父」と呼ばれるのは、第二に、神がほんとうに子どもを持っておられるからです。神はこの世界をお造りになってはじめて「父」となられたのではありません。神は、天地を創造される前、永遠の先から「父」でした。「御子」をお持ちになっていたからです。神の御子が人となられ、「イエス」と名付けられ、「キリスト」、つまり「救い主」としておいでになったのは、今から二千年前のことでした。しかし、御子は、母マリヤから生まれる前に、父なる神とともに、永遠の先から存在しておられました。ヨハネ1:1に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった」とある通りです。御子は決して、造られた物のひとつではありません。むしろ、御子は父とともにこの世界を創造されたお方です。ヨハネ1:3は「すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と言っています。
初代教会は、この聖書の真理を次のような言葉で言い表わしました。
わたしは信じます。唯一の主イエス・キリストを。「ニケア信条」(325/381年)の一節です。神は「父のような」お方というだけではなく、御子を持つ、本物の「父」なのです。
主は神のひとり子、
すべてに先立って父より生まれ、
神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神、
造られることなく生まれ、父と一体。
すべては主によって造られました。
神は創造者で人間は被造物ですが、そればかりでなく、神は聖なるお方であり、人間には罪があります。さきほど、「父なる神の愛を感じながら歩むことができたら、どんなに幸いでしょうか」と話しました。それは、多くの人々が、神を自分の造り主とは信じていないからです。まるで自分が最初から存在していて、世界の中心にいるかのように考えています。人は神によって「生かされている存在」なのに、まるで自分の力で「生きている」かのように思い、そのように行動しています。そのため、その生き方が的外れのものとなり、家庭が愛とやすらぎの場所でなくなり、社会に不正がはびこるようになりました。人々は、父なる神の愛を受けているのに、それに感謝することを忘れ、自分の願望を達成するためにあくせくし、神に信頼することをせず、さまざまなことで思い煩うようになりました。
父なる神はそんな世の人々をあわれんで、御子をこの世に送ってくださったのです。神は御子イエス・キリストによって創造者である神と被造物である人とを再び正しい関係に導き入れようとされました。そればかりでなく、神は、イエス・キリストを信じる者を、神から生まれた者とし、文字通り、その父になってくださるのです。ヨハネ20:17に「わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く」というイエスの言葉があります。イエスはここで、弟子たちに、「わたしの父」が「あなたがたの父」になってくださった。本来はご自分の父であるお方が、ご自分を信じる者の父となってくださったと言っておられるのです。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである」(ヨハネ1:12)との言葉どおり、イエス・キリストを信じる者には神の子どもの身分が与えられるのです。
イエス・キリストは父から「生まれた」お方ですが、私たちは神によって「造られた」ものです。イエス・キリストだけが、ただひとり、「父の御子」です。 聖書はイエス・キリストを「息子」(Son)と呼びますが、人間には「子ども」(Children)という言葉を使って区別しています。「父」と「御子」との間にある愛ほど大きく、深いものはありません。ところが、神は、その愛で、わたしたちをも愛してくださるというのです。造られた者にすぎない者、いや、造り主に背を向けて歩んできた者さえも、「父と子」という、父が御子イエスとだけ持っておられた関係の中に導き入れてくださるのです。これほどの愛がどこにあるでしょうか。わたしたちも神から生まれ、神を「父よ」と呼ぶことができる。この恵みに勝る幸いはこの世のどこにもありません。
人は、神より生まれることにより、神の子どもとなってはじめて、神がわたしたちの造り主であって、わたしたちの人生を導き、生活のすべてを守り支えてくださることが分かるようになるのです。父なる神への信頼のうちに人生を歩み、父なる神の大きな愛によって育ち、変えられ、より神の子どもらしくなっていくのです。生まれつきのわたしたちは、たとえ、良いこと、正しいことに励むことができたとしても、そこにはどこか利己的なものや的外れなものがあります。聖書にあるように、「自分に敵対する人を愛し、自分を苦しめる者のために祈る」などということは、普通はできません。そうしたことは、神の子どもとして生まれ、神の子どもとして成長してはじめて出来るようになることなのです。
誰しも、両親から生まれ、ここに生きています。しかし、一度生まれるだけでは不十分なのです。イエス・キリストを信じてもう一度、神の子どもとして生まれる。父なる神に生んでもらう。そこから、神を「父」と呼ぶことのできる新しい人生が始まります。父親も、母親も、息子も、娘も、皆、神の子どもとなり、ともに「天の父」を仰ぐとき、家庭に光が差し込んできます。それによって若い人も年配の者も生きる意味と目的を見出します。自分の人生の価値を知ってそれを尊ぶことができるようになります。人生が喜びと平安に満たされるのです。
父なる神は、今朝、あなたがイエス・キリストを信じ神の子どもなるのを待っておられます。信じてバプテスマを受けた者たちには、父なる神に信頼して歩み出すことを望んでおられます。この礼拝を、神の子どもとしての誕生、また、父への信頼の旅の第一歩としようではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたは本来は御子イエス・キリストの父であられるのに、わたしたちをご自分の子どもとして生み、わたしたちの父となってくださいました。あなたの創造のみわざによってだけでなく、新生の恵みによってあなたを「父」と呼ぶことができる、この大きな恵み、深い愛を感謝します。きょうの父の日、父親たちもまた、あなたの子どもとなってあなたの父としての愛を知り、そのことによってただひとりの天の父であるあなたを子どもたちに示すことができますように。また、この社会においても、あとに続く世代に、あなたの愛を証しし、あなたへの信頼を教えることができますように。御子イエスのお名前で祈ります。
6/15/2014