知っておられる神

マタイ6:7-8

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6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。

 さまざまな製品には「使用説明書」というものがついてきます。そして、たいていの場合、最初に「警告」の欄があって、「してはいけないこと」が書かれています。たとえば、電気製品では水に濡らしてはいけない、重い家具の場合は一人で持ち上げてはいけない、洗剤や薬なら子どもの手の届くところに置いてはいけないなどです。分かりきったことであっても、間違いをしないようにとの注意がまずあって、それから正しい使い方が説明されています。

 イエスは、マタイ6:5からの部分で、祈りを教えるとき、このパターン使われました。最初に、避けるべき祈りについて教え、それから見習うべき祈りを教えられました。「避けるべき祈り」にはふたつあって、ひとつは5-6節にある「偽善者の祈り」、もうひとつは、7-8節にある「異邦人の祈り」です。「偽善者の祈り」については先週学びましたので、今週は「異邦人の祈り」について学びましょう。

 一、異邦人の祈り

 旧約聖書に典型的な「異邦人の祈り」の例があります。預言者エリヤがバアルの預言者たちと対決した時のことです。「バアル」というのは、イスラエルの回りの民族が当時礼拝していた農耕の神のことです。「バアル」という名には「主」という意味があります。イスラエルの人々は、ほんとうの「主」である、まことの神を捨てて、回りの民族の神を「主」と呼んで礼拝するようになっていたのです。そんなイスラエルの人々にエリヤは呼びかけました。「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい。」エリヤは、カルメル山にバアルの預言者たち450人を集めさせ、そこにバアルのための祭壇を作らせました。祭壇に薪が積み重ねられ、その上に犠牲が載せられました。エリヤは言いました。「わたしも祭壇を作り、薪を積み、犠牲を置く。だが、お互いに薪に火をつけないでおこう。あなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼ぶ。そして火をもって答える神を神としよう。」人々は、それでよしとしました。

 バアルの預言者は、なにせ450人もいますから、またたくまに祭壇が出来上がりました。エリヤは、バアルの預言者たちに、先にバアルの名を呼ぶように言いました。バアルの預言者たちは、みんなで祭壇のまわりを取り囲み、踊りながら「バアルよ、答えてください」と祈り出しました。しかし、何も起こりません。朝から昼まで、熱心に祈りました。しかし、何の答えもありません。それで、バアルの預言者たちは、自分たちの体を刀や槍で傷つけて、血まみれになり、さらに熱狂的に祈りました。しかし、なんの声もなく、答える者もなく、祭壇に火は降りませんでした。

 バアルの預言者たちは、朝も昼もひっきりなしに、それは熱心に祈りました。熱心であることは、どんな場合でも素晴らしいことです。日本では「クリスチャンになりました」などというと、まわりから「あんまり凝らないほうがいいよ。ほどほどにね」と言われたりします。狂信的になるのを恐れてのことなのでしょうが、本来、信仰とは神への愛なのですから、神への愛が「ほどほどに」、「適当に」というのはおかしなことです。「信仰」と「熱心」はサイド・バイ・サイドで連れ添って行くものです。熱心でない信仰は信仰の名に値しないかもしれません。しかし、その熱心が真理から離れてしまうとき、誠実さを欠いたり、良識を踏みにじったりしかねません。そうやって、人を傷つけても平気になってしまうとき、それはもう狂信的なものななっているかもしれません。どんなに熱心でも、真理に基づかないものは、的はずれなものになります。祈りも同じです。ただひとり、わたしたちの祈りを聞いてくださるまことの神に向かわないとき、たとえそれがどんなに熱心なものであっても、その祈りはむなしいものになってしまいます。

 さて、夕方近くになってエリヤの作った祭壇が完成しました。エリヤは祭壇のまわりに溝を堀りました。それから、大きな四つのかめに水をいっぱい入れ、それを犠牲と薪のうえに注がせました。三度、同じことを繰り返しました。犠牲も薪も水浸しになり、祭壇から溢れ出た水は、祭壇の回りに掘った溝にいっぱいになりました。こうしてから、エリヤは、短い祈りを捧げました。

アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください。(列王紀上18:36-37)
すると天から火が下り、祭壇の犠牲や薪ばかりでなく、石やちりさえも焼きつくし、溝の水をなめつくしました。これを見た人々は、ひれ伏して「主が神である。主が神である」と叫びました。神は、このとき、このような特別なしかたでエリヤの祈りに答え、ご自分が、ただひとり人々の祈りに答えることのできるまことの神であることを示されたのです。

 二、神を持たない祈り

 聖書のこの出来事から、「異邦人の祈り」には、祈りを聞いてくださる神がおられないことが分かります。まことの神を知らない人々にとって、自分が祈っている神がほんとうに存在するのかどうかさえ、確かではありません。その神がほんとうに人間の祈りを聞いてくれるかどうかもわからず、どのようにして祈りに答えてくれるかについては何も知らないのです。ですから、人々は不安にかられて、懸命になって祈るのです。イエスが「くどくどと祈るな」と仰ったのは、繰り返し祈ってはいけないというということではありません。聖書は忍耐深く、祈りを積み重ねることを勧めています。「くどくどと祈る」というのは、呪文の言葉を、大声で、何百回、何千回と唱えることを意味しています。バアルの預言者たちはバアルの神をふりむかせるため喉から血が出るほどに、ひっきりなしに祈りの言葉を唱えたことでしょう。人々は神々に祈りを聞いてもらうため、あの手、この手を使わなければならなかったのです。その中には、人間を犠牲にして捧げるなどの恐ろしいこともありました。実際、バアル礼拝では、子どもをバアルに焼いて捧げるということが行われていました。日本のある村では、「縛り地蔵」といって、地蔵像を縄でしばり、馬で引張りまわし、「自分たちの願いを聞いてくれないと、もっとひどい目にあわせるぞ」と言って、人間が神仏を脅迫する風習があるそうです。

 しかし、まことの神は、人間が説明したり、説得したり、脅したり、すかしたりしなければ祈りを聞いてくださらない神ではありません。イエスは「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(8節)と教えてくださいました。父親は子どもが何を必要としているか、何を欲しがっているかちゃんと知っています。神はわたしたちに必要なものをすでに準備しておられ、わたしたちが祈り求めるのを待っておられるのです。

 「そうだったら、祈らなくても与えてくれたらいいのに」と言う人があるかもしれません。もちろん、わたしたちが祈り求めなくても、与えられているものは数多くあります。水や空気は生き物が生きていくのになくてならないものですが、ほとんどの人はそのためにわざわざ祈りません。けれども神は毎日それを与えてくださっています。ふだん元気な人は健康のためにあまり祈らないかもしれません。でも、毎日元気ですごせるのは、神が、日々に健康を与えてくださっているからです。才能豊かな人は、何をしても上手にできるものですから、知恵や力を願い求めることが少ないかもしれません。けれども、その才能も神があらかじめ備え、与えてくださったものなのです。祈り求めて与えられたものでない場合、わたしたちは、それがあたかも自分の力で得たかのように考え、それを誇り、与え主である神への感謝を忘れるばかりか、神さえも忘れてしまうことがあります。それで神は、神からの賜物が「求めて与えられ、探して見つけ出し、叩いて開かれる」ように定めてくださったのです。父親が子どものために贈り物を用意していても、子どもがそれを求めるまで与えないように、神もまた、わたしたちが求めるまで、与えるのを待っておられることがあります。それは、神に求め、神から受け取ることによって、わたしたちが神への信頼によって生きているのだということを理解するためです。

 あらゆる宗教に祈りがあります。無宗教の人、無神論の人も祈ります。ふだんから「自分は無神論者だ」と言っていた人が、生きるか死ぬかの大変なとき「神さま、助けてください」と祈ったという話は、よく聞く話です。人は神に祈るように造られているのです。けれども、多くの人は自分が誰に祈っているのかわからずに祈っています。祈りを聞いてくださる神に向かわない祈りはひとりごとでしかありません。わたしたちの祈りもかつてはそんな祈りでした。祈りを聞いてくださる神を持たなかったからです。しかし、イエス・キリストを信じることによって、わたしたちは祈りを聞いてくださる方を知りました。わたしたちの父なる神に確信をもって呼びかけ、平安のうちに祈りの答えを待つことができる、そんな幸いをいただきました。そのことをこころから感謝したいと思います。

 三、手段としての祈り

 「異邦人の祈り」では、祈りは人間の願望を叶える手段でしかありません。願いが叶えられれば、あとは神も祈りも必要ではないということなのです。しかし、先に見たように、祈りとは、ほんらいは、神とのまじわりです。神に求め、神が与えてくださる。そして、神に感謝する。これを繰り返しながら、わたしたちは、神の恵みを知り、神の力を知り、神ご自身を知っていきます。神に愛され、神を愛するという神とのまじわりが祈りによって生まれます。祈り自体が神とのまじわりであると言ってもよいでしょう。祈りは、神から何かをいただくためだけのものではありません。祈りそのものに意味があり、目的があるのです。けれども、「異邦人の祈り」では、祈りはたんなる願望達成の手段でしかありません。いや、神さえも、願望達成の手段にしてしまっているのです。

 イザヤ44:14-17にこんな言葉があります。

彼は香柏を切り倒し、あるいはかしの木、あるいはかしわの木を選んで、それを林の木の中で強く育てる。あるいは香柏を植え、雨にそれを育てさせる。こうして人はその一部をとって、たきぎとし、これをもって身を暖め、またこれを燃やしてパンを焼き、また他の一部を神に造って拝み、刻んだ像に造ってその前にひれ伏す。その半ばは火に燃やし、その半ばで肉を煮て食べ、あるいは肉をあぶって食べ飽き、また身を暖めて言う、「ああ、暖まった、熱くなった」と。そしてその余りをもって神を造って偶像とし、その前にひれ伏して拝み、これに祈って、「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言う。
これは、こういうことです。ある人がいて、この人は山から切り倒してきた木で家を建て、家具を作ったあと、残りを薪にしました。この人はその薪の一部を暖炉で燃やして体を暖め、パンを焼き、肉を煮たり、あぶったりして食べたあと、薪の余り木をナイフで刻んで像をつくりました。そして、それに向かって「あなたはわが神だ、わたしを救え」と言ったというのです。本人は大真面目ですが、なんとも滑稽な姿です。

 これは、古代の人々の偶像礼拝の愚かさを言い表しているのですが、現代人も、古代人と変わらず、同じことをしています。人には、自分の必要を満たし、胃袋を満たしても、なお、まだ手に入れたいものがあります。それはもっと大きな財産であったり、長寿であったり、名誉であったり、権力であったりします。若い人なら、魅力的な容姿、注目をあびる才能、ボーイフレンドやガールフレンド、あこがれのスターであったりします。実際、人々はムービー・スターや歌手、モデルたちを「アイドル」(偶像)と呼んで、それを「偶像」のようにしています。

 たとえ、形あるものを作らなくても、人は心の中に偶像を刻んでいます。コロサイ3:5に「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」とあるとおり、欲望そのものが偶像なのです。「欲望」というとドギツく聞こえますが、たとえそれが罪深いものでなくても、「願望達成」や「自己実現」が偶像になることがあります。「願望達成」や「自己実現」が神を求めることや、神に従うことよりも大切なものになり、神にとってかわるときです。心の中にであれ、外であれ、人が刻む偶像とは、人間の願望の化身です。偶像に祈るというのは、自分の願望をふくらませているだけのことです。ですから、そのような祈りから喜びや希望、感謝や平安がやってくることがないのです。

 しかし、まことの神への祈りは違います。そこには祈りが聞かれるという喜びがあります。神が祈りに答えてくださることへの希望や期待があります。祈りへの答えが自分が願った通りでなかったとしても、神はわたしに最も必要なもの、一番善いものを与えてくださるという感謝や平安が、そこから生まれてきます。祈りは、自分の願望を達成するための手段ではありません。わたしの必要を知っておられる神に願い、神によって必要を満たしていただく。そのようにして、神の知恵と力、また、愛と真実を体験していくことです。イエスが「異邦人のように祈るな」と言われたとき、主は、わたしたちを神に向かう祈り、神とまじわる祈りへと導こうとされたのです。

 祈りはじめたばかりの人には、そのような祈りはハードルが高いように感じるかもしれません。しかし、「主よ、わたしたちにも祈ることを教えてください」と願いながら、祈り続けていくとき、祈りの喜びを知ることができます。讃美歌に「静けき祈りの時はいと楽し」とあることが、ほんとうにそうだと分かるようになります。そのことを思って、さらに祈りに励み、また互いに祈りあっていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたがわたしたちの祈りを聞いてくださるお方であることを感謝します。わたしたちがイエス・キリストを信じる前に持っていた祈りについての間違った考え方からわたしたちを解放してください。わたしたちの祈りがまっすぐにあなたに向かうものとなり、あなたとのまじわりの祈りとなりますように。主イエスのお名前で祈ります。

2/8/2015