6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
イエスは祈りについて数多くのことを教えてくださいました。このように祈りなさいという教えもあれば、あんなふうに祈ってはいけないという戒めもあります。今朝の箇所は、「また祈る時には、偽善者たちのようにするな」とあるように、「見せかけの祈り」を避けるようにとの戒めの教えです。
主が「偽善者」と呼ばれたのは、律法学者やパリサイ人といったユダヤの宗教の指導者たちのことでした。5節に「彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む」とありますように、この人たちは、祈りの時間になるとわざわざ人通りの多いところに出て来て、大きな声で長々と祈り出したのです。それは真心からの祈りではなく、人に見せるためのものでした。自分の「立派な」祈りを人に聞かせて、人から誉められようとしたのです。
一、祈りの場所
それで、イエスは、わたしたちの祈りが「見せかけの祈り」にならないため、祈るときには「自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」と言われました。「ひとり」で、「隠れたところ」で祈るようにとありますが、学校の寮などで生活していて自分だけの部屋がない人、家族がクリスチャンでないので、自分の家でも祈りの場所を見つけられない人もあるでしょう。以前、そんな時どうしますかと、何人かに尋ねたことがあります。「外に出て歩きながら祈ります」「祈りの言葉をジャーナルに書いて祈ります」「少し早く職場に出かけ、だれも来ないうちに祈ります」「車の中で祈ります」などいう答えが返ってきました。工夫すれば、どんな環境の中でも、イエスが教えられたように祈ることができるように思います。
しかし、「隠れたところ」とは自分の部屋のクローゼットの中とかベッドの下など、具体的な場所だけを指しているのでしょうか。いいえ、それは、わたしたちの心の「隠れたところ」をも意味していると思います。
わたしたちの心には四つの部分があります。「わたしも他の人も知っている部分」、「わたしが知っていて他の人が知らない部分」、「わたしが知らなくて他の人が知っている部分」、「わたしも他の人も知らない部分」の四つです。「わたしも他の人も知っている部分」は扱い易い部分です。しかし、「わたしが知っていて他の人が知らない部分」というのは、扱うのに難しい部分です。わたしたちは「自分のことは自分がいちばんよく知っている」と思いがちです。しかし実際は、「はだかの王様」のお話ではありませんが、自分の姿がいちばん見えていないのかもしれません。「わたしが知っている部分」よりも「わたしが知らなくて他の人が知っている部分」のほうが案外多いのかもしれません。ですから、わたしたちは他の人からのアドバイスに謙虚になる必要があります。「わたしも他の人も知らない部分」は、まさにわたしたちの心の「隠れたところ」です。たとえ「わたしが知っている」、「他の人が知っている」といっても、「わたし」も「他の人」も、「わたし」の真実な姿を知っているとはかぎりません。もしかしたら、「わたしが知っている」、「他の人が知っている」と思っている部分もまた「隠れたところ」なのかもしれません。
しかし、神にとっては「隠れたところ」などどこもありません。神は、「わたし」のすべてを知っておられます。しかも、愛をもって知っていてくださいます。「隠れたところ」で祈るとは、自分が「隠している」部分だけでなく、自分でも知らないでいる「隠れた」部分さえも、神の前に差し出して祈るということなのです。
ダビデは詩篇139篇でこう祈りました。
主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。神は「全知全能の神」です。ダビデは神の「全知」を思い、それを驚きをもって描いているのに、この祈りをこう言って結んでいます。
あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。神はすでにすべてを知っておられるのなら、なぜ、改めて、「知ってください」と祈る必要があるのでしょう。そう考える人も多いと思いますが、「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください」という祈りがあってはじめて、人は神との生きた関係を持つのです。神が「全知全能」であることを知っているだけでは、それはたんなる「知識」であって、「信仰」ではありません。すべてを知っておられる神に、「わたしの心を、わたしの思いを知ってください」と、自分を明け渡していくとき、「知識」が「信仰」に変わるのです。そのとき、わたしたちは、「あなた」と「わたし」という神との人格の関係、一対一の関係の中に生きることができるようになります。神とわたしたちの間に何も置かないで神と深く交わる、それが「隠れたところ」で祈るということなのです。
わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。
イエスは「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」と仰って、神を「あなたの父」と呼ばれました。「神は父である」というのは「知識」です。しかし、「神は<わたしの>父である」と告白するのは「信仰」です。イエス・キリストはわたしたちに、神の父としての大きな慈愛を「知識」として知るだけでなく、父なる神のふところに、子どものように飛び込んで、神を「わたしの父」と呼ぶ「信仰」を持つようにと励ましてくださっているのです。神との人格と人格の関係に入ること、それが信仰です。「隠れたところ」で祈るとは、そのように神との関わりを持って祈るということなのです。イエスはわたしたちに神とのまじわりの祈りを教えてくださったのです。
二、祈りの訓練
主が「隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい」と言われたのは、もちろん、他の人と祈ることやおおやけの祈りをしてはいけないということではありません。聖書は、共に祈り合うことを勧めています。ヘブル10:25に「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」とあります。この箇所での「集会」とは「教会」のことで、礼拝や祈りの集まりを指しています。ですから、この言葉は「共に祈ることをやめてはいけない」という意味でもあるのです。「主の祈り」は、もとは、みんなが声を揃えて一緒に祈る「共同体」の祈りとして与えられたものです。おおやけの祈りが無ければ礼拝は成り立ちません。他の人と一緒に祈ることは、ひとりで祈ることと同じように大切です。他の人と一緒に祈っていないと、祈りがひとりよがりになり、「ひとりごと」になってしまうことがあるからです。けれども、やはり「ひとりで祈ること」がわたしたちには求められています。「共に祈ること」は「ひとりで祈ること」の代わりにはなりませんし、「ひとりで祈ること」は「共に祈ること」の代わりにはなりません。私たちには両方が必要なのです。
しかし、教会に来て、人といっしょにいるときは元気なのに、家に帰ってひとりになるとしょんぼりしてしまう人、誰かにくっついていなければ、不安で、ひとりで祈ることができない人が案外多いのではないかと思います。そういう人は、神とのまじわりができていない分を、他の人とのおしゃべりで埋め合わせしょうとしているのかもしれません。しかし、そんなことをしても何の解決にもなりません。たしかに、自分の罪も、過ちも、内面の問題も隠さないで、ひとりで神の前に立つというのは難しいことです。ある意味では恐ろしいことです。しかし、それを避けずに、神の愛を信じて神の前に自分を差し出しましょう。そのとき、わたしたちは、はじめて真実な祈りをささげることができ、神との一対一の祈りのまじわりがどんなに平安に満ちたもの、喜びにあふれたものであるかを体験することができるのです。
わたしは、ひとりで神の前に出て祈るということを、最初に神学校で学びました。日本の神学校の素晴らしいところは、祈りの訓練があることだと思います。わたしの卒業した神学校では毎朝、朝食前に祈り会があり、月に一度は昼食抜きの「祈りの日」がありました。10年以上も前ですが、日本に行ったとき、母校を訪ねました。学校は東京の中心部から郊外に移り、立派な建物になっていましたが、畳敷きの祈祷室はそのまま残っていました。神学生時代、全学生が正座して共に祈ったことを思い出し、その伝統が続いていることをうれしく思いました。わたしは、そうした祈りの訓練の中で、神の前に出て祈ることを教えていただいたのです。神学校ばかりでなく、教会もまた「祈りの学校」です。教会にはおおやけの祈りがあり、互いの祈りがあります。教会で共に祈り合うことによって、わたしたちは「共に祈ること」だけでなく、「ひとりで祈ること」を学び、神とのまじわりの祈りを深めていくのです。わたしたちの教会が主イエスの「祈りの学校」であり続けるようにと願っています。
三、祈りの報い
わたしたちがそのように「隠れたところ」で、「隠れたところ」においでになる神に祈ることができるようになったら、どんな報いがあるでしょう。その第一は、人と共に祈る時やおおやけで祈る時であっても、また、人の目があっても無くても、わたしたちは変わりなく真実に祈ることができるようになります。「隠れたところで祈れ」と仰った主は、マタイ5:14-16では、「あなたがたは、世の光である。…そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」と言っておられます。一方では「隠れていなさい」と言い、一方では「隠れていてはいけない」と言われるのです。これは矛盾しているように聞こえますが、実際にはそうではありません。主イエスは自分を「見せびらかす」ことを戒められましたが、神から与えれた恵みや力まで隠してはいけない、それを人々に「見てもらう」ように勧めておられるのです。「見せる」ことと「見てもらう」ことは、しばしば区別のつきにくい場合があります。しかし、自分を見せようとしているのか、それとも神を見てもらうためにしているのか、どちらの動機で物事をしょうとしているのかを、問いかけてみるなら、その区別ができるようになります。
ある教会の修養会に講師として招かれた時のことです。紹介していただいて講壇に立ちました。ふとそこを見ると、マイクロフォンの下に "Sir, we would like to see Jesus." というプラークが貼ってありました。わたしはこれを、「わたしたちはあなたではなく、イエス・キリストにお会いするためにここに集まっているのです。あなたが知識をひけらかしたり、体験を披露したりするのを聞きたいとは思いません。あなたが語ることによってわたしたちにイエス・キリストを示してください」という聴衆からのメッセージとして受け留めました。そして、そのように語ることができるようにと、祈って、その日の奉仕をしました。神があがめられることを願い求めて事を行う。この動機があれば、わたしたちは「隠れた事を見ておられる」父のみこころにかなった行いができるようになることでしょう。そして、わたしたちの祈りも、みこころにかなった真実な祈りとなるのです。
「隠れた事を見ておられる」神は、わたしたちに報いてくださるお方です。真実な祈りに対する報いとは、その祈りが聞かれることだけでなく、その祈りによって神の栄光が表わされることです。神がご自身の栄光を表わしてくださり、わたしたちにその栄光を見せてくださるのです。神の栄光を仰ぎ見て喜ぶ。これに勝る報いはありません。「見せかけの祈り」から「真実な祈り」へ、自分の「栄誉」を求める祈りから神の「栄光」を求める祈りへと変えられ、成長していく、そんな喜びを共に味わいたいと、心から願います。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちひとりひとりが、あなたとの一対一の人格の関係に導かれ、あなたとの生きたまじわりの中に祈ることができるよう、助け導いてください。教会がそのような祈りを学ぶ場所となることができますように。主イエスのお名前で祈ります。
2/1/2015