祈るときには

マタイ6:5-6

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6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 今朝の箇所で、主イエスは私たちに祈りの大切さ、祈りの動機、また、祈りの方法を教えておられます。

 一、祈りの大切さ

 主は、まず、祈りは、神が喜んでくださる善い行いのひとつとして、とても大切なものだと教えてくださいました。今朝の箇所はマタイ5-7章の「山上の教え」の中の一部分です。この部分は、その前後の文脈を見ると、神を信じる者がどのように善い行いに励むべきかを教えるために書かれていることが分かります。マタイ6:1の「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」というのがその原則で、その具体例として、2-4節で「施し」が、5-15節で「祈り」が、16-18節で「断食」がとりあげられています。イエスは「施し」と「祈り」と「断食」の三つを善い行いのトップ・スリーにあげておられます。「施し」、「祈り」、「断食」という順になっているのは、重要性の順序というよりも、説明上の順序だろうと思われます。この部分でイエスは祈りに最も多くの言葉を費やしていますから、「祈り」を一番大切なものと考えておられたことでしょう。なぜなら「施し」は祈りから生まれ、「断食」は祈りに集中するための手段だからです。

 ちょっとわき道にそれますが、ここですこし断食のことに触れておきましょう。「施し」、「祈り」、「断食」の中で、「断食」は現代のアメリカではあまり守られていませんし、教会の説教でも勧められることまれです。病気の人、妊娠している人、授乳中の人、高齢の人、また感情的・精神的に混乱している人には断食が危険な場合もあるので、すべての人に勧めるというわけにはいかないからでしょう。しかし、断食は健康な人が指導を受けて行えば霊的にも肉体的もとても有益なものです。初代のクリスチャンは頻繁に断食をしましたし、真剣に神を求める人々は定期的に断食を守ってきました。宗教改革者たちやジョン・ウェスレーも、断食を守り、人々にそれを勧めました。先日、総動員伝道の姫井雅夫先生から、今年も1月に東京で超教派の「断食祈祷聖会」があるという連絡を受けました。この断食聖会は、ワールド・ビジョンの創設者ボブ・ピアスから勧められて始まったもので、9年目になるそうです。断食は、イエスの時代には大切なものだったが、今は、行われなくなった、いらなくなったものではありません。むしろ、祈りに集中するのが難しいこの時代、食べ過ぎて体を壊したり、食べ物を無駄にしたり、欲しいものを欲しいだけ食べたりしている現代にこそ必要なものかもしれません。断食によって私たちは「自制」を学ぶことができ、十分な食べ物もない世界の人々と連帯することができるのです。

 施し、祈り、断食の三つは、今も変わらず神に喜ばれる善い行いです。神を信じる者は、こうした善い行いに励むことが期待されています。聖書はエペソ2:10で「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」と教えています。コロサイ1:10には「また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。」という祈りがあり、ヘブル10:24には「また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。」と書かれています。祈りは、私たちが励むべき善行の中の第一のものです。祈りは、神を喜び、神に喜ばれ、実りある人生を過ごすために無くてならないものです。また、「施し」や「断食」といった善行が神に喜んでいただけるものであるばかりでなく、それを行う者に祝福となり、益となって帰ってくるように、祈りも、祈る者に神からの祝福が帰ってくるのです。祈った祈りはかならず報われると、主は約束しておられます。真実な祈りは決してむなしく消えては行きませんから、そのことを信じてもっと祈りに励んでいきましょう。

 二、祈りの動機

 第二に、主は、祈りの動機について教えました。祈りは、神をあがめるためになされるもので、決して、自分がほめられるためのものではあってはならないと、主は言われました。イエスの時代には、自分の気前の良さやを示すために施しをする人、自分の信仰深さを見せるために祈る人、また、自分の熱心さをみせびらかして人々からほめられようとして断食する人たちがいました。ユダヤの国では一日のうちに何度か決まった祈りの時間があったのですが、ある人たちはその時間になると、わざわざ人の集まるところに出てきて、これ見よがしに長々と祈り始めたのです。イエスはそういう人々を「偽善者」と呼んで、こう言われました。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。」(マタイ6:5)イエスはそのような人々について、「まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」と言われました。ここで「自分の報い」というのは人々からほめられるという、人間的、一時的な報いのことです。神は私たちの祈りに永遠のもので報いようとしておられるのに、すぐに消えてなくなるものしか受け取れないのは、残念なことです。イエスが「自分の報い」と言われたとき、それは、人々から受ける冷笑のことをも意味されました。一部の人は偽善的な祈りであってもほめそやすかもしれませんが、大部分の人は、そうした偽善を見破って、それに対して冷たい目を向けるものです。イエスはここで、「偽善は偽善の報いを受ける」と言っておられるのです。

 聖書は、このように善い行いを「見せびらかす」ことに警告を与えていますが、同時に、善い行いを全く隠してしまうことにも警告を与えています。マタイ5:14-16でイエスは「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と言われました。私たちが善い行いに励んでいるなら、それはいつまでも隠れてはいません。いつかは人の目に触れるようになるでしょう。そしてそれを見た人たちが、その善い行いのゆえに神をほめたたえるようになるでしょう。それが偽善になるのではないかと恐れるあまり、善い行いを隠そうとすることもありますが、それは隠していてもいけないのです。見せびらかしてはいけないが、隠してもいけないというのは、じつに難しいことです。しかし、イエスが「人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」と言われたことばを守るとき、そのことが可能になります。礼拝で神をあがめるという正しい動機と確かな目的を養われて、日々の歩みに進み出ていくなら、そのことができるようになるのです。神は、私たちの祈りの動機をご覧になります。どんなにつたない祈りであっても、神をあがめて祈る祈りは神からの報いを受け、どんなに流暢な祈りでも、自分を見せびらかすためにする祈りは偽善の報いを受けるのです。私たちは祈るとき、つねに、心の動機がきよめられ、神をあがめてそのことができるように願い、努めたいと思います。

 三、祈りの方法

 では、どのように祈ればよいのでしょうか。主は、第三に、祈りの方法について教え、祈るときは「自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)と言われました。

 これは、人前で祈ってはいけないと言っているのでしょうか。そうではありませんね。もし、そうなら、教会で礼拝を守ることができなくなってしまいます。礼拝は祈りで成り立っているからです。聖書には礼拝以外でも、クリスチャンが祈るために共に集まったこと、また、互いに祈り合ったことが記録されています。人前で祈ってはいけないのだったら、そのようなこともしなかったはずです。イエスがここで言われているのは、プライベートな祈りの場合のことです。そのときは、ひとりになって、神だけを意識するようにしなさいと、教えておられるのです。

 大勢の人が熱心に祈っているところに行くと、神がそこにおられるということを感じますし、誰か他の人と共に祈ると、それによって励ましを受けます。クリスチャン家庭の祝福の秘訣は、ことあるごとに共に祈りあうことにあります。夫や父親が自分の家庭の霊的リーダであることを自覚して、それを導いて欲しいと思います。父親がまだクリスチャンでない家庭では、母親がその役割を果たして、どんなときでも子どもに手をおいて祈ってあげてください。大勢で祈ること、共に祈ることは素晴らしいことです。しかし、その前に、主は、私たちに「ひとりになって」祈ることを身につけるようにと教えられました。「ひとりになること」、それは、霊的な訓練の中で、とても大切なものです。イエスはしばしばひとりで寂しいところに行き、父なる神に祈っておられました。神の働きのために用いられた人はみな神の前に「ひとりになって」立っています。モーセがそうでしたし、エリヤもそうでした。使徒パウロもイエスに出会ったあと、アラビヤの荒野に向かいました。神とのさらに深いまじわりを求めた初代のクリスチャンたちは荒野に退いて、祈りのときを持ちました。韓国の教会には「祈りの山」というのがあって、そこには洞穴がいくつも掘ってあり、人々はひとりでその中に入って祈るのだそうです。「アシュラム」という修養会では、まず、参加者のひとりびとりがひとりで聖書を読み、神のことばを聞き、神に祈る時間を持ち、それからみんなで集まります。「ひとりになること」の訓練を受けるのです。

 「ひとりになる」のは、誰からも邪魔されず、神と私との間に、何も置かないで、神と深くまじわるためです。ですから、「ひとりになる」というのは、部屋にひとりでいるという、物理的なものだけではなく、神の前にひとりで立つという、内面的、霊的なものでもあるのです。ひとりで祈っていても、もし、神の前に自分をよく見せようとしたり、弁解をしたり、そのときの一時的な感情に振り回されていたりすると、そうしたものが神と私との間に立ちはだかって、ほんとうの意味での神とのまじわりができなくなります。ときとして、私たちは、神の前でも正直になれないときがあります。自分の罪も、過ちも、内面の問題も隠さないで、ひとりで神の前に立つというのは難しいことであり、ある意味では恐ろしいことです。しかし、それを避けていると、私たちは、神を知ることがなく、自分を知ることがなく、神とのまじわりのないままの人生で終わってしまいます。それでは、信仰の確信も喜びを持つことができず、終わりの日の審判を恐れるだけの毎日になってしまいます。それは本来のクリスチャンの生活ではありません。「ひとりになること」の訓練を避けることなく、隠れた所におられ、隠れた所で見ておられる神に、私たちの隠れた部分も見ていただきましょう。「ひとりになる」ことは、決して「孤独を味わう」ことではありません。それによって、かえって、神が共におられる、主イエスが傍にいてくださる、聖霊が内におられることを体験することができます。世界中の信仰者たちとのつながりを覚えることができます。信仰の歩みを終えて天にいる聖徒たちが、聖書にあるように雲のような証人となって、私たちを励ましてくれていることを感じることができるようになります。ですから恐れないで、正直に、大胆に、神に近づこうではありませんか。

 神と深くまじわる祈りは、信仰を持ったそのときからすぐにできるのではありません。それには時間がかかるでしょう。しかし、最初からその方向に向かっていないと、いくら時間をかけてもそれは実現しません。もし私たちが「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」と、謙虚な心で願うなら、神は私たちの祈りを正しい方向に向けてくださいます。祈りを導いてくださる神に信頼し、さらに主から祈りを学び、祈りを深めていこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスは「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。」とおっしいました。それは厳しいことばですが、同時に、私たちが、あなたからの素晴らしい報いから見失うことのないためでした。私たちの祈りをあなたの報いを受けるのにふさわしいものとしてください。あなたがあがめられることを目指して祈ることができるようにしてください。また、あなたとのさらに深いまじわりの中で祈ることができるように導いてください。私たちに祈りを教えてくださる、主イエスのお名前で祈ります。

1/24/2010