神の国と神の義

マタイ6:31-34

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6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

 赤ちゃんは何でも口に入れます。飲み込むと喉につまってしまうものや、ボタン電池のように胃の中で放電して、胃の壁を傷つけてしまうもの、またガラスのかけらのように手に触っただけでも怪我をしてしまうものは赤ちゃんの手の届くところに置かないようにしなければいけません。しかし、もし、赤ちゃんがそうしたものを手にしたらどうしたらいいでしょうか。「あぶない!」といって大声を出すと、かえって悪い結果になることがあります。そんなときは、赤ちゃんの喜ぶ食べ物やおもちゃを見せて、危ないものを捨てさせるようにするとよいのです。良い物に心を向けることによって、悪いものを捨てさせるのです。それは、赤ちゃんばかりでなく、こどもやおとなでも同じです。こどもの悪い習慣をやめさせるには、それに代わる良い習慣を身につけさせてやると良いのです。こどもは良い習慣をひとつ身に着けることによって悪い習慣をひとつやめることができるのです。おとなも、何か悪いものを捨てるためには、それに代わるより良いものを求めることが必要です。

 イエスも「思いわずらいを捨てなさい」と言うだけでなく、「神の国と神の義とを求めなさい」と、求めるべきものを示されました。いくら思いわずらわないようにしようと決心しても、神の国と神の義を求めることがなかったら、いったんやめたはずの思いわずらいが再び息を吹き返してきます。思いわずらいを捨てるには、神の国と神の義を求めることが必要なのです。

 「まず神の国と神の義とを求めなさい。」よく知られた言葉ですが、この言葉にはどんな意味があるのでしょうか。「神の国」や「神の義」が何を意味するのか分からなければ、それを求めることもできませんので、「神の国」や「神の義」とは何なのか、それを求めるとはどうすることなのかをご一緒に考えてみましょう。

 一、神の国

 イスラエルの人々にとって「神の国」とは、神のご支配のことでした。実際、「国」という言葉には「支配」という意味があります。イスラエルの先祖は、神の大きな力によって、エジプトの奴隷から救われ、「神の民」とされました。神ご自身が、生まれたばかりのイスラエルの国を治め、守り、育てられました。やがて、イスラエルは王を持つようになりましたが、王は本来は神のしもべであって、イスラエルは神ご自身によって治められる「神の国」でした。

 ところが、イスラエルは神のご支配を嫌い、それを退けました。王たちは神に信頼するよりも、みずからの政治手腕や軍事力に頼るようになりました。人は権力や財産を手に入れたり、才能や機会に恵まれたりすると、それに頼り、神に頼らなくも自分の力でやっていけると思い込んでしまうものです。神を信じていても、地位やコネ、ツテがなければ駄目なんだと考え、そうしたものをやっきになって求めることもあります。見えない神に頼るよりも、目に見えるものに心惹かれ、それに頼ってしまうのです。イスラエルも、そのようにして神の言葉に耳を傾けなくなり、自分たちの欲望の象徴でしかない偶像礼拝にふけるようになりました。社会から正義や公平が消えました。そのためイスラエルは独立を失い、イエスの時代にはローマ帝国の属国になっていました。イスラエルの神の国としての栄光は消え去り、人々は神の民としての自覚を失っていました。しかし、その中にも「救い主」(メシヤ、キリスト)が来て、神の国が打ち立てられることを待ち望む人たちがいました。

 その救い主として来られたのが、イエス・キリストです。イエスは宣教を始められた時、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)と宣言されました。神の国を待ち望んでいた人々に、メシア(キリスト)が来たのだから、神の国はすでに来ている。神の国は、神の言葉を聞いて、神に立ち帰る人々の中にすでに始まっていると言われたのです。

 マタイ5:1-3にこう書かれています。

イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」
「座につかれる」というのは、イエスが神の国の王として王座に着かれたことを意味します。この光景は人の目には、ガリラヤの宗教教師が貧しい人々を前にして、野外で説教しているものにしか映らなかったでしょう。しかし、実際は、これは神の国の光景そのものでした。神の国の王がそこにいて、その言葉が語られ聞かれている。人々が神に立ち帰り、互いに愛し合って、王なるお方に従っている。そこに神の国が来ているのです。

 イエスは「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」と言われました。実際に貧しく神の他頼るもののない人たち、また財産はあってもそれに頼らず、謙虚な心を持った人々を「神の国の民」、つまり「神の民」とされたのです。このことは、イスラエルに縁もゆかりもないわたしたちのためでした。神はかつてイスラエルを神の民として選ばれましたが、それはイスラエルだけを神の民とし、他をしりぞけるためではありません。むしろ、イスラエルがお手本となって、全世界の人々がそれにならって神の民となるためでした。イスラエルはそのお手本になることに失敗しましたが、神の約束は反故にはならず、どこの国のどんな人であっても「こころの貧しい人」に神の国がやってくる、その人は神の民になることができるのです。

 ローマ帝国に苦しめられたイスラエルのように、わたしたちもまた、人生の様々な重荷、問題に悩まされます。世の中の矛盾に苦しめられています。それ以上に、利己的な思い、自己憐憫や虚栄、恐れや疑いなど、自分自身の内にあるものが自分を苦しめています。「神さま、わたしをこの苦しみから解放してください」「神さま、あなたがこの世を正しく治めてください」「神さま、わたしを造り変えてください」との祈りが生まれるのは当然です。わたしたちのたましいは、神のご支配を、神の国を求めています。「神の国」、それは、童話に出てくる夢の国でも、目の前にある苦しみから逃れるための方便でもありません。それは、それを求めるものに与えられる、今、ここに働く神の恵み深い愛のご支配です。

 「神の国を求める」とは、自分の力で神の国をたぐり寄せるということではありません。神の国は、人間の力でたぐり寄せることができるものではありませんし、その必要もありません。神の国は、それ自体の力をもってわたしたちのところにすでに押し寄せてきているのです。神の国に入るのに必要なのは、神の国を謙虚に受け入れることだけです。「神さまとか、信仰とか言っても、それは余裕のある人がすることで、現実はもっと厳しいのだ」と言われるのをよく耳にします。教会は余裕のある人たちが楽しみのために来ているクラブ・ハウスではありませんし、信仰は趣味のようなものではありません。確かに現実は厳しいのです。だからこそ、その厳しい現実の中で、さらに確かな神の国の現実に目を留めるために、わたしたちは教会で礼拝と集まりを持っているのです。どんな苦しみの中でも神は世を治めておられるということを信じる。自分自身との格闘の中で、人生を導いてくださる神に自分を明け渡していく。それが「神の国を求める」ということです。

 二、神の義

 では「神の義」とは何なのでしょうか。それを「求める」とはどうすることでしょうか。「義」とは、神の前での正しさのことです。神の国は「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14:16)の支配するところです。正しくない人は、神の国に入ることが出来ません。では、人はどうしたら神の前に正しくあることができるのでしょうか。

 ユダヤの宗教家たちは、人は宗教の規則を守ることによって神の前に正しくなることができると教えました。彼らは一つの規則にいくつもの細則や例外を付け加え、膨大な規則集を作りあげました。そして、それを守っていると自負していました。自分たちは正しく神の国にふさわしいとうぬぼれていたのです。確かに彼らは規則は守っていたかもしれませんが、それは形式的なものにすぎませんでした。神と人とを愛するという一番大切なことを忘れていたのです。それで、イエスは「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない」と言われたのです(マタイ5:20)。うわべだけを取り繕ったもの、つじつま合わせだけをしたものは、どこまでもきよく、どこまでも正しい神に通用しません。そんなことは誰でもわかるはずなのですが、彼らは、そのことに気付いていませんでした。気付いても、それを認め、改めようとはしませんでした。

 聖書に「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)とあるように、この世には、神の国にふさわしい義を持つ人はだれもいません。だったら、このわたしも義人ではなく、罪人であるはずなのですが、人はそのことを認めようとはしません。自分が神の義に足らないどころか、神に喜ばれない思いを持ち、それを態度で、言葉で、行動で示しているのに、「どうせみんな罪人なんだ」と一般化したり、「あの人よりはましだ」と他の人とくらべたりして言い訳をしているのです。そんなわたしたちも、神の目には「律法学者やパリサイ人」です。私たちが求めるべき義は、「律法学者やパリサイ人の義にまさる」ものでなければなりません。

 そんな義があるのでしょうか。あるのです。それはイエス・キリストの義です。イエスは人として完全に生きられ、神を愛してそのみこころに完全に従われました。みずからを犠牲にしてまで、その愛を貫かれました。そんなイエスに人々は罪を着せ、イエスを十字架に追いやりました。しかし、その時、じつは、父なる神は御子イエスに全人類の罪を背負わせられたのです。神はご自分のひとり子を罪人として死なせることによって、御子イエスを信じる者にイエスの持っておられた義を与えてくださるのです。わたしたちの罪がキリストのところに行き、キリストの義がわたしたちのところに来るのです。神はイエス・キリストを信じる者が罪を赦され、神の前に正しい者として立つことができるようにしてくださったのです。わたしたちが求めるべき「神の義」とは、この義、神が与えてくださる「イエス・キリストの義」なのです。

 神の国が信仰によって受け取るものであるように、神の義も信仰によって受け取るものです。イエスは「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)と言われました。罪あるわたしたちは神の国から遠く離れていました。しかし、神の国が罪の赦しと神の義を伴って、罪あるわたしたちのところやってきました。自分の罪に悩み、赦しを求め、神の義を求める「こころの貧しい人」のところに神の国がやってきたのです。この義を、みなさんは求め、素直な、へりくだった心で受け取っているでしょうか。

 三、人生の優先順位

 神の愛と恵みのご支配が、今、ここにあることを信じる。イエス・キリストによって罪の赦しをいただき、神の義を受け、神の愛と恵みの中に生きる、それが「神の国と神の義とを求める」ということです。

 イエスは、このことを、「まず、第一に」しなさいと教えてくださいました。神の国と神の義を最優先しなさいということです。神の国と神の義を最優先するということは、他のことは何もしなくて良いということではありません。学生なら勉強に専念しなければなりませんし、仕事を持っている人ならしっかり働かなければなりません。英語に "bring home the bacon" というイデオムがあります。しっかり働いて家族を支えるという意味です。イエスが「まず、第一に」と言われたのは、第二、第三にも、果たすべき義務があることを示しています。ある修道院の記録映画を観ましたが、山奥でくらす修道士たちでさえ、祈りの生活の他に労働の時間があって、それで日々の糧を得ていました。また、スポーツや趣味を楽しむ時間も持っていました。神の国と神の義を求めるということは、神がお与えくださったこの世での義務や、わたしたちのこころやからだに必要なものを無視するということではありません。それは、神の民として生き、神に仕えることを第一にする、神の義という、わたしたちにとって一番必要なものをまず第一にすることです。そして、神のことを第一にするとき、その後に続くさまざまな義務は、感謝と喜びをもって果たすことができるようになります。その他の必要もおのずと満たされていくのです。

 日本でのことですが、クリスチャンのクリーニング業の人がいました。彼が自分のお店を持つとき、教会の近くがいい、そうしたら、祈り会などに参加できるからと考え、教会の近く、川の土手沿いの物件を手に入れました。そこは町から遠く、「そんなところで店を開いても、お客さんは来ないよ」と回りの人から言われたそうです。ところが、しばらくたって、川の土手が整備されて、自転車や歩行者のための道路になりました。大勢の人がその道を利用して、通勤、通学をするようになりました。それで、彼の店に立ち寄るお客さんが増えました。彼の丁寧な仕事が評判になり、さらに多くの固定客を得るようになりました。この人の、もっと神に近づきたい、神のことを第一にしたいという思いが報われ、目に見える形でも祝福が与えられたのです。神の国と神の義を第一にする人には、この世においても大きな祝福があたえられるのです。

 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」第一のことが第一になるなら、第二、第三のことは、かならず備えられていきます。それはほんとうのことです。イエスはわたしたちを、この祝福の人生へと招いていてくださっています。バプテスマを通して、祝福された人生への一歩を踏み出そうではありませんか。すでにバプテスマを受けた者は、主の晩餐ごとに、神の国と神の義への飢え渇きをもって主の食卓に近づきましょう。そして、神の国の恵みに満たされて日毎に歩んでいきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは思いわずらいの中で、第一にすべきものを後回しにしていました。お赦しください。主イエスが教えてくださったように、神の国と神の義を、まず第一に求めます。わたしたちの思いと心、態度と言葉、行いと生活を導いてください。一歩一歩、順序を追ってあなたに従わせてください。わたしたちを神の国の「義と平和と聖霊による喜び」で満たしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

11/16/2014