6:31 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
6:32 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
今年は「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3)を標語に掲げ、神をより深く知ることを求めてきました。先週は、神が私たちと私たちの住む世界に対して「主権」を持っておられることを学びましたが、今朝は、神がその主権を働かせて、私たちとこの世界を導いておられるということを学びたいと思います。
一、摂理の神
神が、私たちとこの世界に主権を持っておられ、私たちとこの世界を導いておられるということは、神を信じる者たちには、とても心強いことなのですが、そうでない人々には、大変迷惑なことと思われているようです。この世界では人間が主人であり、自分の人生の主は自分でありたいと思っている人々には、神が、この世界の主であり、私たちの人生の主であるというのは、どうしても都合の悪いことだからです。それで、ほんとうは神を否定したいのかもしれませんが、神が存在されることは否定できない事実であり、神が存在されなければ、この世界も自分も存在しないということになりますので、神の主権を認めたく人々は、神をある領域に押し込めることを思いつきました。そして、こう言うのです。「神は、世界を造ったが、ご自分が造った世界を、その法則に任せて、その後はいっさい世界に干渉なさらない。」こういう説を「理神論」と言います。「理神論」は、しばしば、人が目覚まし時計を合わせるようなものであると説明されます。目覚まし時計はいったんセットしておけば、その後はいちいち調整する必要はなく、ほうっておけば、時が来るとベルが鳴ります。そのように神は、創造の時に、この世界の一切をプログラムしておいて、その後は、この世界からまったく手を引いておられるというのです。
理神論は神の存在は認めますが、その神はこの世界に、私たちの人生に干渉することのない神ですから、人間が世界の主になることができるのです。こうした考え方は「神の存在を認める。」とは言うものの、結局は、人間をこの世の神とし、自分を主にしてしまうことであり、聖書の教えとはかけ離れたものです。神が、世界に干渉なさらないのなら、神が自然の法則に干渉して奇蹟をおこさせることはありません。奇蹟がなければキリストの復活もなく、キリストの復活がなければ、私たちには救いがないのです。人はすべて死ぬべきものであり、形あるものは塵となり、秩序が混沌になるというのが、この世界の法則です。しかし、キリストの復活において、キリストのからだは朽ちゆくものから朽ちない栄光のからだに変えられ、死から命が生まれました。キリストの復活は自然の法則にまったく反することです。理神論では自然の法則に反することは一切起こりませんから、キリストはどんな奇蹟も行なうことなく、またよみがえりもしなかったということになります。しかし、そうなら、キリストは、歴史上まれに見るすぐれた人物であったとしても、ただの人であり、救い主ではないということになります。理神論に救いはないのです。
また、世界が創造のはじめからすべてプログラムされ、神がこの世界に干渉なさらないとしたら、私たちが神に祈り求めたり、自ら努力することなどはすべて空しいということになります。最近、遺伝子の研究が進むにつれて、あらゆるものが、遺伝子のせいにされるきらいがあります。人がどう生きるかということまで、遺伝子が決定するという極端な説まであります。犯罪もまた遺伝子のせいであるとさえ言う人がいますが、もし、そうなら、人間はもはや自由な存在、責任ある存在でなくなってしまいます。理神論を唱える人々は、それによって神の主権から自由になろうとしましたが、その結果、本当の自由を失い、運命の奴隷になってしまったのです。
理神論は、神はこの世界を造ったが、その後、神はこの世界に無関心で、世界を手放されたと言いますが、聖書は、神が、ご自分のお造りになった世界をいつくしみ、この世界を導き続けておられると教えています。神がこの世界に主権をお持ちになり、それを導いておられることを「摂理」と言いますが、聖書の教える神は「摂理の神」です。日本語で「摂理」というと難しく聞こえますが、英語では "providence" と言います。"provide" という動詞からできた名詞ですが、"provide" という英語も、もとはラテン語から来ています。"pro" は「前もって」という意味で、"vide" は "video" という言葉があるように「見る」という意味です。「摂理」とは、神が、私たちの将来を前もって見ていてくださり、そのために必要なものを用意しておいてくださるという意味になります。
神が「前もって見ていてくださる。」「備えていてくださる。」ということばが、創世記22章にそのまま出てきます。そこは、神がアブラハムに、彼の息子イサクをいけにえにしてささげるようにお命じになったところです。イサクは、神が奇蹟によってアブラハムに与えた子どもでした。アブラハムの子孫が、彼らの寄留していた土地を受け継ぐという約束は、イサクに引き継がれ、それはイサクを通して成就するはずでした。そのため、アブラハムは、イサクに特別な期待をかけたのですが、アブラハムがイサクにではなく、神の約束に頼るように、たといイサクを失ったとしても神の約束は失われることはないとの信仰に立つようにと、神は望まれたのです。この時アブラハムは、神がいったい何を求めておられるのか、完全には理解できませんでしたが、彼は神に従うことを選びとりました。アブラハムが神の示された山に、イサクと共に登った時、イサクはアブラハムに「火とたきぎとはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」と聞きました。アブラハムはそれに答えて「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と言いましたが、これは返答に困っての答えではなく、アブラハムは、神が備えてくださるということを本当に信じて、そう言ったのです。アブラハムが実際にイサクをささげようとした時、主の使いがアブラハムをさえぎりました。そして、イサクのかわりにささげるべき一匹の雄羊をその山に備えていてくださいました。アブラハムは、このことによって、神に従う者には神がすべてを備えてくださるということを体験として知り、その場所を「アドナイ・イルエ」(創世記22:14)と呼びました。「アドナイ・イルエ」とは「主は見ていてくださる」という意味です。主は、アブラハムとアブラハムの子孫の将来とその必要を「見て、知って、備えて」いてくださったのです。
聖書には、他にも、私たちの人生を見ていてくださる神の備えをいたるところに見ることができます。ヨセフはエジプトに奴隷として売られましたが、神は彼がエジプトの宰相となるように備えておられました。イスラエルは、エジプトを出て荒野をさまよわなければなりませんでしたが、彼らのために水と食べ物と外敵からの守りを備えていてくださいました。ルツは夫を失い、姑といっしょにモアブからイスラエルにやってきましたが、神は彼女にボアズという夫になるべき人物を備えてくださっていました。エステルの物語には「神」ということばが出てきませんが、そこには、ペルシャにいたイスラエルの人々が救われるための神の備えを見ることができます。神は、摂理の神です。私たちひとりびとりを愛の目で見ていてくださり、知っていてくださり、いっさいのことを備えてくださるお方です。
二、神への信仰
主イエスは、私たちに、この摂理の神への信仰を教えてくださいました。神が私たちの必要を備えてくださるのだから、そのための心配を神にゆだねるようにと教えておられます。主イエスは「空の鳥を見なさい。」「野の花を見なさい。」と言って、神が空の鳥、野の花でさえ、心に掛けて養っておられるのなら、私たちに必要なものを与え、養ってくださらないわけがないと、教えておられます。「空の鳥を見なさい。」「野の花を見なさい。」ということばは、最近、夜の祈り会で学んだ詩篇104篇を思いおこさせます。そこには、神が、森や林の木々や小さな動物にいたるまで、深い愛情を込めてそれらを養っておられることが書かれています。すこし抜粋して読んでみましょう。
主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、多くの人は、ハリケーンや日照り、地震などの災害がおこると「なぜ神はこんなひどいこをするのか。」と神を非難します。ふだん神の支配を信じていないのに、災害の時だけはそれを神のせいにするのは、不公平だと思いませんか。実際は、神が自然を災害から守り、そこに住むものを、いつくしみ養ってくださっているのです。神が野ろばやこうのとり、野やぎ、岩だぬきさえ養っていてくださる深い愛を、私たちはもっと感謝したいと思います。そして、神がこうした動物たちを養ってくださるのなら、私たちをも守り養ってくださらないわけがないのです。「ましてあなたがたによくしてくださらないわけがありましょうか。」(マタイ6:30)と主イエスが教えてくださったことを心に刻みましょう。
野のすべての獣に飲ませられます。野ろばも渇きをいやします。
そのかたわらには空の鳥が住み、枝の間でさえずっています。
主はその高殿から山々に水を注ぎ、地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。主は家畜のために草を、また、人に役立つ植物を生えさせられます。(10-14節)
主の木々は満ち足りています。主の植えたレバノンの杉の木も。
そこに、鳥は巣をかけ、こうのとりは、もみの木をその宿としています。
高い山は野やぎのため、岩は岩だぬきの隠れ場。(16-18節)
主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。(24節)
彼らはみな、あなたを待ち望んでいます。あなたが時にしたがって食物をお与えになることを。
あなたがお与えになると、彼らは集め、あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。(27-28節)
冷蔵庫を開けるとたくさん食べ物があり、クローゼットを開けると着物がずらっと並んでいるような、豊かな生活の中では、「何を食べようか。」というのは、あまりにたくさんあって、今日はどれをたべようかということ、「何を着ようか。」とは明日はどの服を着ていこうかという贅沢な悩みになってしまいました。では、現代のアメリカでは「何を食べようか。」「何を飲もうか。」「何を着ようか。」という心配ごとは全くなくなってしまったのでしょうか。そうではありませんね。人間は、食べるもの、着るもの、そして眠る場所を手に入れても、それで満足せず、もっと豊かな生活を追い求めるものです。そしてある一定の生活基準に達すると、生活を慎ましくすることができなくなり、収入が落ちてもその生活をキープしようとして、無理をして働いたり、借金をしたり、貯金を食いつぶしたりするようになるのです。そして、その生活がいつかは破綻するのではないかという不安に追い詰められるようになります。立派な家、綺麗な家具に囲まれ、一見豊かな生活をしているように見えて、実際は、明日に対して不安だらけの生活をしている人が思う以上に多いのです。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(31節)との教えは、現代の私たちにも必要な教えです。
では、どうしたら、思い煩いや心配、恐れから解放されるのでしょうか。神が摂理の神であり、私たちの必要を知ってそれを備えてくださるお方であることを信じること、そして、地上の必要を神に任せて、より天のもの、神のことを追い求めることによってです。多くの人が、思い煩いや心配、恐れから解放されないでいるのは、「必要」以上のものまでも追い求めるからです。「必要」ではなく、「願望」を満たそうとするからです。「必要」("need")と「願望」("want")とは違います。神は、私たちの必要は満たしてくださいますが、不必要なものはお与えになりません。私たちの多くは、不必要なものまで、強く求め、その願望が満たされないからといって、神につぶやくのです。主は、「こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(32節)と言って、そのような不信仰を戒めておられます。神が、私たちの生活の必要を満たしてくださるのなら、私たちは、地上のものを必要以上に求めるべきではありません。私たちの願望はむしろ、霊的なことに向けられるべきです。主は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(33節)と教えてくださいました。このことばは、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」という今年の標語につながって行きます。私たちは、日常の必要のためだけに心を使い果たすのではなく、神を知り、神を愛し、神のために生きることに思いと心と力を使うのですが、それは、摂理の神を信じることによって、はじめて出来ることなのです。私たちの人生の目的が、地上の生活をキープするためだけのもの、一般に言うように「食うために働く」というだけのものなら、それはなんとむなしいことでしょうか。神が与えてくださった人生の五つの目的を学んだ私たちは、生活の思い煩いを、私たちの生活の必要を見て、知って、満たしてくださる神に任せ、神から与えられた人生の目的を追い求め、神の国と神の義とを求めて歩んでいこうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたを知らない時、私たちはただ自分の願望を満たすためだけに生きてきました。しかし、あなたが、私たちの必要なものをすべて備えていてくださることを知るにつれ、徐々に、それらのものをあなたにお任せできるようになりました。私たちは、今、経済の心配、健康の課題、その他地上での生活のさまざまなことがらをあなたにお任せします。地上の一時的なことにとらわれて生きるのでなく、天にある永遠のもの、あなたご自身をさらに深く知ることを求める私たちとしてください。あなたを、摂理の神、私たちの愛の父として知ることによって、地上のものから来る思い煩いや不安、恐れから、ほんとうの意味で解放されるものとしてください。私たちをあなたに愛される子とし、あなたを私たちの愛の父としてくださった主イエスのお名前で祈ります。
10/2/2005