6:22 からだの明かりは目です。ですから、あなたの目が健やかなら全身が明るくなりますが、
6:23 目が悪ければ全身が暗くなります。ですから、もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか。
一、目とからだ
イエスは「からだの明かりは目です」と言われました。これは目が良ければ、からだの他の部分も正常に働き、目が悪ければ、からだの他の部分が十分に働くことができないことを言っています。たとえば、中学生くらいになって、急に成績が落ちる子どもがいます。近視のため、黒板の文字が読めないで、きちんとノートをとることができないためです。私もそうで、メガネをかけるようになるまで、机を前のほうに移してもらったことがありました。目が悪いと学習に影響を与えます。
目は大切なものです。聖書に、「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた」(申命記32:10)や、「あなたがたに触れる者は、わたしの瞳に触れる者。見よ、わたしは彼らに手を振り上げる」(ゼカリヤ2:8-9)といった言葉があり、神がご自分のものを、目を守るように、大切に守ってくださることを言っています。
眼球の表面にあるのが角膜です。角膜の後に虹彩(こうさい)があります。これは、伸びたり縮んだりして、目に入る光の量を調整します。人が亡くなると光を当てても瞳孔は開いたままになります。それは、虹彩(アイリス)が動かなくなるからで、それによって人の生死を確認できます。「青い目」や「茶色い目」など、「目の色」というのは虹彩の色のことです。その色は大きく分けて24種類あるそうです。同じ種類でも、個人、個人によってその色合いが違います。ですから、虹彩の色が個人を識別するのに、役立つのです。
虹彩の中央は穴になっていて、瞳孔と呼びます。「黒目」と呼ばれますが、実際は透明です。黒く見えるのは、外から目の内部を見ているからです。目そのものは光を持ちません。光が入る前の目は、真っ暗なのです。このことは、あとで、霊的な目について考えるときのヒントになります。
虹彩のうしろにあるのが水晶体(レンズ)です。カメラのレンズと同じ働きをして、網膜に画像を届けます。水晶体は、近くのものを見るときは厚くなり、遠くのものを見るときは薄くなって、焦点を合わせてくれます。カメラの場合は、何枚もの大きなレンズを組み合わせて、やっと綺麗な画像を撮ることができますが、人の目の場合は、たった一枚の、直径9ミリ、厚さ4ミリの小さなレンズで、すべてのものを見ることができるのです。神の創造はじつに偉大で素晴らしいものです。
水晶体は、水とタンパク質からできているのですが、年齢とともに、タンパク質が酸化して柔軟性を失い、40歳ころから近くのものが見えにくくなります。これが「老眼」です。
目の一番奥にある網膜は、光を受けて、それを視神経を通して脳に送る働きをします。網膜には、片目だけで1億以上の神経細胞があります。4Kテレビはとてもきれいな画像を映しますが、それでもそのピクセル数は3840×2160、約820万にすぎません。高級なカメラでも2,420万ピクセル、プロフェッショナルが使う5000万、あるいは6000万ピクセルといったカメラもあるそうですが、それでも1億には及びません。人間の目がいかに精度の高いものかが分かります。しかもそれが、小さな眼球の中にすべて仕組まれているのです。
また、網膜の神経細胞には6種類あって、実に巧みに連携して、目に入ってくるものを分析します。明るいときには形も色も識別しますが、暗いときには、色の識別を犠牲にして、わずかな光でも形を認識できるように働きます。
目と脳も見事に連携しています。水晶体を通ってきた画像は網膜には逆さまに移るのですが、脳はそれを正しい向きに置き換えます。また、脳は二つの目から送られてきた信号を、うまく調整し、それによって遠近感を得ます。
このように、目から入ってくるものがレンズを通って網膜に写され、視神経を通して脳に送られ、脳がからだの各部に司令を送り、全身のバランスを保ちます。目が良ければ、からだの健康は保たれますが、目が悪くなれば、それが損なわれます。健康な生活のためには健全な目が必要なことは、皆さんは十分にお分かりでしょう。
二、霊の目
ここでイエスが仰っしゃりたかったのは、目の健康のことではありません。実際の目のことではなく、「霊の目」のことを教えようとされたのです。
イエスは、しばしば、霊的な盲目について話されました。マタイ15:14で、パリサイ人について、「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます」と言われました。また、ヨハネ9:41ではこう言われました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」これは、パリサイ人たちが、実際はそうでないのに、自分たちは真理を持っていると言っていたことを責めておられる言葉です。かつて、パリサイ人だったパウロは、イエスの栄光の光に打たれ、3日の間、目が見えなくなりました。博学で、聖書の知識に長けていたパウロでしたが、実は、聖書の中で一番大切なこと、キリストを知ることにおいて、彼は全く盲目だったのです。そんな彼も、イエスを信じたとき、目からうろこが落ち、見える者となりました。私たちも自らが霊的には盲目なのだと認め、「主よ、目を開いてください」と求めるとき、主は、私たちの霊の目を開いてくださいます。そして、開かれた霊の目を通して天の光が私たちのたましいに注がれます。身も心も明るくなり、健全なものとなることができるのです。
霊的に健全な目を持つようにとの戒めは、パリサイ人に対してだけではなく、キリストを信じる者にも与えられています。イエスは、ラオデキアの教会に、こう言われました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買い、あなたの裸の恥をあらわにしないために着る白い衣を買い、目が見えるようになるために目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3:17-18)じつは、ラオデキアの町は、よく効く目薬の生産地として有名でした。けれども、霊的な目を癒やす目薬は、ラオデキアでは作ることができません。その目薬はイエスだけが持っておられます。それで、イエスは「わたしから買いなさい」と言われたのです。イエスがここで「買いなさい」と言われたのは、それが、犠牲を払ってでも手にいれる価値があるものであることを意味しています。「買う」といっても、イエスが私たちに高い代金を求められるのではありません。イエスが私たちに求められるのは「信仰」です。イエスがそうしてくださると信じてイスに求めるとき、私たちの霊の目は開かれ、また、癒やされるのです。イエスは、エリコの町の盲人が「主よ、見えるようになることです」と言って、信仰をもって願ったとき、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました」と言われ、彼の目を開いてくださいました(ルカ8:41-42)。私たちも、信仰をもって、「見えるようになることです」とイエスに願い求めるとき、イエスの愛と力が込められた癒やしの言葉が私たちにも届くのです。
三、内なる光
では、私たちは、開かれ、癒やされた霊の目で何を見るのでしょうか。その目に入る光とは、どのような光でしょうか。
第一に、それは「御言葉の光」です。詩篇119:130に「みことばの戸が開くと 光が差し/浅はかな者に悟りを与えます」とあります。今まで、気にもとめていなかった御言葉から、ほんとうに大切なことを教えられた。今まで意味が分からず、理解できなかった箇所が分かるようになった。分かってはいても実行できなかったことを実行することができ、大きな祝福を受けた。そんな体験を皆さんも持っているでしょう。それが「みことばの戸が開く」ということ、聖書の光に照らされるということです。ある人たちは、「みことばの戸」が開くのは、宝くじに当たるようなもので、突然、思ってもみないときに起こることだと考えていますが、そうではありません。それは、規則正しく聖書を読み、それを静かに思い見る。また、教会で聖書の解き明かしを聞き、他の人の証しに耳を傾ける。自分でも御言葉から教えられたことを誰かに話す。それができないときは、ジャーナルに書き表す。そうした積み重ねがあってはじめて、みことばの戸は開くのです。聖書を開くことなしに、みことばの戸が開かれることなどありません。イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)と言っておられます。みことばの戸も、信仰をもって祈り、求め、たたいて、開かれるのです。
第二は「御顔の光」です。詩篇4:6にこうあります。「多くの者は言っています。/『だれがわれわれに/良い目を見させてくれるのか』と。/主よ どうか あなたの御顔の光を/私たちの上に照らしてください。」「だれがわれわれに/良い目を見させてくれるのか」とは、神を知らない人々の多くが幸運を求めて言っている言葉です。あてにならない幸運や、この世で見る「良い目」は、私たちの魂を照らす光にはなりません。まことの神を信じる者は、この世界を造り、すべての物を支配し、あわれみといつくしみをもって私たちを導いておられるお方に目を向けます。「神の顔」、それは、神が人格を持っておられるお方であり、私たちとの人格と人格との交わりを求めておられることを示す言葉です。私たちが神に顔を向けるとき、神もまた御顔の光によって、それに答え、私たちのたましいに深い満足を与えてくださるのです。
第三に「内なる光」です。これは、聖霊が照らしてくださる知恵と啓示の光のことです。パウロは、エペソ1:17-19で、こう祈っています。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。」人がどんなに順序正しく、言葉を尽くして語ったとしても、神と神のお心を完全に他の人に伝えることはできません。神と神のお心を説き明かすことができるのは、人となられたイエス・キリストであり、そのイエス・キリストを私たちに示してくださるのは、聖霊だけです。
イエスは「もしあなたのうちにある光が闇なら、その闇はどれほどでしょうか」と言われましたが、これは、聖霊を心に迎えていない状態のことを指しています。イエスを信じるまでは、誰も、光を持っていません。目は光を見ることはできますが、自ら光を放つことはできません。私たちは、キリストを信じるまでは、心に闇しかありませんでした。しかも、その闇は深く、人の力では追い出すことができないないものでした。それを追い出すただ一つの方法は、聖霊をお迎えすることです。すでに聖霊を受け、「内なる光」を持っている者は、その光に照らされることを祈り求めましょう。聖書を開くとき、説教を聞くとき、パウロが祈ったように、聖霊が私たちを照らしてくださることを祈り求めましょう。天の栄光が見えるように、神が今、ここで、働いてくださるそのお力を知ることができるように祈りながら、御言葉に向かいましょう。イエスは約束されました。「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:8)この約束を信じ、「御言葉の光」、「御顔の光」、そして、聖霊の「内なる光」が、健全な霊の目を通して、私たちの全身全霊に及ぶよう、願い求めましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは「光の父」です。イエス・キリストは「世の光」です。そして聖霊は、私たちの「内なる光」です。私たちを真理の光、愛の光、そして、知恵と啓示の光で照らしてください。健全な信仰の目で、光であるあなたを仰ぐことができますように。イエス・キリスのお名前で祈ります。
9/10/2023