5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
一、平和をつくり出す人
きょう学ぶ、さいわいは「平和をつくり出す人」の祝福です。イエスは、弟子たちに「平和をつり出す人」になれと言われまたが、じつは、イエスご自身が「平和をつくり出す人」なのです。
神はこの世界を平和と祝福に満ちたものとして造られましたが、人は罪を犯し、神から離れました。そのため、この世界は争いとわざわいの満ちたところとなってしまいました。人類の歴史は、まさに戦争の歴史でしたし、それは今も変わりません。各国のリーダーが年に何度も集まり、話し合いを繰り返し、「世界に平和を!」と叫んでも、戦争は絶えませんし、紛争の火種が消えることもありません。世界の恒久的な平和は、人々の願いですが、人間にはそれを達成する力がないのです。
神は、人が平和を求めている以上に、この世界に平和を望まれ、この世界に平和をもたらすために救い主イエス・キリストを遣わしてくださいました。イエスのお生まれを預言したイザヤ9:6には「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ9:6)とあって、イエスは「平和の君」と呼ばれています。イザヤ書のこの箇所はクリスマスに成就しました。それで、イエスのお生まれのとき、天使たちは、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(ルカ2:14)と賛美したのです。救い主イエスによって「平和」がもたらされたからです。
救い主によってもたらされる平和はイザヤ11:6-9に、このように描かれています。「おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。」(イザヤ11:6-9)ここには、誰も、何によっても傷つけられることのない平和な世界が描かれています。これは夢物語のように聞こえるかもしれませんが、救い主によって与えられる平和が完全に達成されるとき、世界の秩序がまったく新しいものになり、弱肉強食の動物の世界にも、このような変化が起こることでしょう。
イザヤ2:4に「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」とあります。ところが、今、世界の国々はこれとは逆のことをしています。「すき」や「かま」を「つるぎ」や「やり」にかえています。民衆が食べ物がなくやせおとろえていても、ミサイルの開発にお金をつぎ込んでいる国もあるのです。しかし、イエスを信じる者たちは、決して世界の平和をあきらめません。「平和をつくり出す人」は、新約聖書が書かれたギリシャ語で ειρηνεποιος、英語では peacemaker と、ひとつの単語だけで表わされいます。それは、おひとりのお方、イエス・キリストこそ、ほんとうの peacemaker であることを指しています。わたしたち、信仰者は、まことの peacemaker であるイエス・キリストが、約束してくださった「平和」を完成してくださると信じ、イエスがすでに与えてくださった「平和」を受け取り、その「平和」に生きることによって、置かれた場所で peacemaker となる幸いを受けたいと願っているのです。
二、神との平和
では、わたしたちが、今、イエスから受け取り、それによって生きている「平和」とはどんな「平和」でしょうか。それは、「神との平和」です。「神との平和」は、聖書のいたるところに書かれていて、それは「あがない」、「罪のゆるし」、「和解」という言葉でも表現されています。平和の君、peacemaker として世に来られたイエス・キリストは、十字架の苦しみと復活の勝利によって、わたしたちのために、「神との平和」を勝ち取ってくださいました。
ローマ5:1,11には「神との平和」について、このように書かれています。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。…そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させてくださったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。」「神との平和」は、たんなる神学の理論ではありません。それは、信じる者に「平安」や「喜び」となって与えられるものです。信仰者もまた、人生でさまざまな困難に出会います。日常の中で問題にぶつかります。しかし、そうした中でも、「神との平和」によって、不安が平安に、不平が満足に、恐れが喜びに変えられるのを体験するのです。
聖書は、わたしたちに、他の人と平和に暮らすにはどうしたら良いか、また、世界の平和のためにどのように貢献することができるかについて、具体的な方法を示しています。聖書は、じつに、日々の生活の知恵に満ちています。しかし、そうした知恵や知識をどんなに蓄えたとしても、それで、「平和をつくり出す人」(peacemaker)になれるわけではありません。イエス・キリストの十字架によって罪を赦され、罪からあがなわれ、「神との平和」を得る道を知らなければ、人の心には、ほんとうの平安、満足、また喜びは、生まれてきません。ほんとうの平和とは、物事を丸く収め、波風を立てないという外面的なものではないからです。自分の内面に、平安、満足、また喜びを持たない人は、上手に世の中を渡り歩き、争いを避けることができたとしても、ほんとうには、「平和をつくり出す」ことができないのです。神との平和を知らない心には、恐れや不満、ねたみや憎しみなどが宿ります。そして、恐れや不満、ねたみや憎しみなどから争いが生じるのです。
しかし、「神との平和」を持つ人は、自分が神に愛され、罪を赦され、和解の恵みを受けていることを知っています。ですから、そのことに基づいて他の人々を大切にし、自分から進んで平和をつくり出すことができるようになるのです。それはちいさなことかもしれませんが、そうしたことが知らず知らずのうちに、人々の心を温め、最終的には「世界の平和」につながっていくのです。「神との平和」に生きる人は、他の人々に祝福をもたらすだけでなく、その祝福は、その人のところに帰ってきて、その人自身が大きな祝福を受けるのです。
三、キリストの平和
「平和をつくり出す人」に与えられる祝福、それは「神の子と呼ばれる」という祝福です。イエスは「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」と言われました。では、「神の子と呼ばれる」というのは、わたしたちが「平和をつくり出す人」となることができたら、神の子どもにしていただけるということなのでしょうか。そうではありません。「八つの祝福」ではじまる「山上の説教」の中で、イエスは人々に、「天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ6:8)などと言われ、神を「あなたがたの父」と呼ばれました。「天にましますわれらの父よ」と祈れとも言っておられます。イエスはすでに神の子どもとされ、神を「父」としている人々に向かって、「平和をつくり出す人」になれと言っておられるのです。「平和をつくり出す」ことによって、はじめて神の子どもになるのではなく、「神の子どもとされたのだから、平和をつくり出す人になれるのだ」と教えておられるのです。このことは、言い換えれば、「平和をつくり出す人」になるには、まず、イエスを信じ、神の子どもとされる必要があるということになります。
「彼らは神の子と呼ばれるであろう」というのは、神の子どもとされた人が、神の子どもとして成長し、平和をつくり出す者となるということです。そして、そのことによって、その人が神の子どもとされていることが証しされるという意味です。その人が神の子どもとされていることが、より明らかになっていくということなのです。「神の子と呼ばれる」というのは、「平和をつくり出す人」がほめられ、あがめられるということではありません。むしろ、その人を「平和をつくり出す人」としてくださった神がほめられ、あがめられるということです。家族や学校、職場で trouble maker だった人が、イエス・キリストを信じ、救われて、peacemaker へと変えられるとしたら、どんなに神がほめられ、あがめられることでしょうか。
そして、神の子どもが神の子どもらしくなっていくとは、神の御子であるイエスのようになっていくということです。神の子どもとして成長することと、キリストのようになることとは、同じことを意味しています。そして、人がキリストの姿に近づくなら、キリストがまことの peacemaker であるように、その人もまた peacemaker へと変えられていくのです。コロサイ3:15に「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」とあります。そのように、イエス・キリストを、平和の君として心に迎え、キリストがくださる神との平和に自分を委ねていくとき、わたしたちは、神の子どもとして成長し、キリストにならって「平和をつくり出す人」となることができるようになるのです。
神との平和を得、キリストの平和に心が支配されること、これは、世界平和実現のためには、ずいぶん遠回りな道に見えます。しかし、これほど確実な道はありません。歴史で、平和ために働いた人たちは、「皆」といってよいほど、キリストの平和を心に宿していました。わたしたちも、主イエスが教えた道を歩み、主イエスが再び来られるときに実現する恒久の平和を待ち望みたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、御子イエスが「平和をつくり出す人」であることを学びました。この御子によってあなたの子どもとなり、御子の姿を目指して成長するとき、わたしたちも「平和をつくり出す者」になれることを知りました。あなたは、わたしたちが神の子どもとして成長することを忍耐をもって待っていてくださいます。わたしたちもあなたの子どもとして成長すること、キリストにならう者となることを、忍耐をもって求め続けるものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。
9/11/2016