5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
国際連合が毎年発表している World Happiness Report の2023年版が3月に発表されました。これは、2020年から2022年の3年間の「幸福度」の平均です。パンデミックの年と重なるので、興味があってレポートを読んでみましたが、パンデミックの影響はあまりなく、フィンランド、デンマーク、アイスランド、オランダ、スェーデン、ノルウェー、スイス、ルクセンブルグなど、ヨーロッパの国々が何年も上位を占めています。アメリカは15位でした。意外だったのはイスラエルが4位で、メキシコが36位、日本がメキシコより低く47位だったことでした。この順位は、経済や治安、教育や福祉などの要素に基づいて、幸福を定義した結果です。
しかし、イエスの幸福の定義は、これとは違っています。イエスは「山上の説教」で八つ「幸い」を告げておられます。「貧しい者」と「悲しむ者」の幸いについては、すでにお話ししましたので、きょうは、三番目の「柔和な者」の幸いから始めましょう。
一、柔和な人の幸い
「柔和な者は幸い」とある「柔和な」のもともとの意味は「卑しめられている」です。家柄や職業、教育や財産などによって差別され、低められ、卑しめられている人たちを指します。それを「幸いだ」ということは、理不尽な差別やハラスメントを受けても諦めなさいと教えること、また、人を人とも思わない者たちをのさばらせることになりはしないでしょうか。もちろん、イエスは、諦めを教え、差別を許しておられません。イエスが幸いだと言われたのは、神が、低くされている人たちを顧みて、必ず高くしてくださるからなのです。
それに、私たちは低くされることを通して人格を形造ることができるからです。私たちの心の中にはどこかに高慢な思いが棲みついて、へりくだるのが難しいことがあります。自分からへりくだることができないとき、他から、いやでもへりだらなければならなくされることがあります。何かのことで失敗して、人前で恥ずかしい思いをし、へりくだらされることがあります。私は、英語を間違えて、相手に通じず、随分恥ずかしい思いをしたことがあります。けれども、その失敗のおかげで、間違えたその言葉は忘れることがなくなりました。失敗したとき、それを背負い込むと、それに押しつぶされます。けれども、失敗を通して自分を低くする、つまり、へりくだるなら、失敗を足がかり、ステップにして先に進むことができます。「柔和な人」には「卑しめられている人」という意味があると言いましたが、卑しめられて卑屈になるのでなく、「謙虚な人」という意味での「柔和な人」へと変えられていくなら、それは、本当に「幸い」なことです。
二、義に飢え渇く人の幸い
「義に飢え渇く者」とは、正しい訴えが通らず、正義が満たされないで苦しんでいる人たちのことです。イエスのたとえ話の中に、やもめが裁判官に自分の訴えをとりあげてくれるよう、しつこくせがんだという話があります(ルカ18:2-5)。力も金もないやもめの訴えが聞かれることがないのはイエスの時代にかぎったことではありません。現代のアメリカでも権力のある人、人脈のある人、また、弁護士にたくさんのお金を積むことができる人に有利な判決がなされるという現実があります。そんな状態が幸いなわけがありません。けれども、そのような状況でも、私たちが、すべてのことを正しく裁いてくださる神に信仰をもって祈り続けるなら、神はその祈りに答えてくださるのです。祈りが聞かれ、正義と公正が実現する日が来るのです。
「義に飢え渇く人」は、社会の悪に憤慨します。しかし、憤慨するだけでは世の中は変わりません。怒りだけで行動すると暴動を起こして社会を乱すだけで終わります。毒麦を焼き払おうとして、良い麦にまで火が回ることもあります。悪に立ち向かうと共に、善に励み、社会に良い模範を示していく必要があります。それが、イエスの言われた「地の塩」、「世の光」、「山の上の町」となるということです(マタイ5:13-18)。
「貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」というのはみな、ふつうに考えれば「不幸」な人たちのことです。しかし、イエスは、そうした人に「幸いだ」と言われました。それは、「不幸」と見えることの中に実は「幸福」が隠されているからです。見かけの「貧しさ」の中に、本物の「豊かさ」があり、「悲しみ」を通して「喜び」に導かれます。低くされることによって、ほんとうの意味で高くされ、「義に飢え渇く」ことによって、自らが正しい者になることができるからです。自分の不幸を嘆き、その中に閉じこもっている人がなんと多いことでしょう。イエスは、「あなたは幸い!」、「あなたは幸い!」と言って、そうした束縛から人々を解放してくださるのです。
三、あわれみ深い人の幸い
最初の四つの幸いは、どちらかといえば、受け身的なものですが、残りの四つの幸い、「あわれみ深い人」、「心のきよい人」、「平和をつくる人」、「義のために迫害されている人」の幸いは、もっと能動的なものです。
イエスは、ことあるごとに、人々に「あわれみ深く」あるよう教え、ご自分も、人々にあわれみを示されました。イエスが様々な奇跡をなさったのは、それによって聖書の預言を成就し、ご自分が約束の救い主であることを示すためでしたが、イエスは自分を現すことを大地にして奇跡や癒やしをなさったのではありません。その動機は、常に、人々への深いあわれみでした。律法学者やパリサイ人たちはイエスのあわれみのわざを見てさえ、それを咎めました。それに対してイエスは「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない」という言葉を引いて、それが「どういう意味か、行って学びなさい」と、彼らに言われました(マタイ9:13)。律法学者やパリサイ人は、律法の細かな規定を熱心に守っていながら、「律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにして」いたのです(マタイ23:23)。
「良いサマリア人」のたとえは、律法の中心が「あわれみ」にあることを教えています。当時、サマリア人はユダヤ人からとても嫌われていました。「ユダヤ人のサマリア人に対する憎しみは、異邦人に対するものよりも大きかった」と、歴史は伝えています。ところが、強盗に襲われたユダヤ人を助けたのは、ユダヤ人である祭司でも、レビ人でもなく、彼らが軽蔑していたサマリア人だったのです。イエスは、律法学者に「この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」と問われました。律法学者は「サマリア人です」とは言いたくなかったので、「その人にあわれみ深い行いをした人です」と答えました。律法学者は、意図せずに、律法が求めているものが「あわれみ」であると答えたのです。
イエスは、律法学者が正しい答をしたので、すぐにこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)「行って」とありますが、どこに行くのでしょうか。自分の生活の場です。「あわれみ」は学問によって知ることではなく、実行、実践によって学ぶことだからです。「あわれみ深い人」の幸いとは、その人の内面から出たものが、他の人に向けられ、それによってまわりが変えられていく「幸い」です。神のあわれみを受け、それを味わっている人は、他の人への真心からのあわれみと同情を持つことができます。他の人に与えることによって、自分もまた、あわれみを受ける幸いを体験することができるのです。
四、心のきよい人の幸い
さて、心のきよい人の幸いですが、今の時代は、「強くあれ」「賢くあれ」と言われることがあっても、「きよくあれ」と言われることは、ほとんどありません。むしろ、「きよく、正しく、美しくなどと言っていたら、みんなから置いていかれる。清濁合わせ飲むような度量がなかったら、世の中ではやっていけない」と言われてしまいます。子どもたちにきよい心、美しい心を持った人の話をしてあげても、感動するよりも、「なんだ、自分が損して、馬鹿じゃないの」などといった反応が返って来ることがあります。子どもたちに「どんな人になりたいか」と聞くと、「お金持ちになりたい」、「人気者になりたい」という答が真っ先に出てきます。「悪に負けない正しい人になりたい」とか「社会に尽くしたい」などという答はめったに聞かれなくなりました。子どもたちが、そんなふうに考えるようになったのは、大人たちが、金持ちになること、注目されることばかりを求め、そういう生き方をしているからです。それは、きよい心の価値を教えず、身をもって示さなかった大人の責任だと思います。
聖書は、いたるところで、私たちに「きよくある」ように命じています。それは、きよくあることこそ、人の本来の姿であり、きよくあることを求めることによって、人ははじめて、人としての本来の生き方を取り戻し、自分を成長させることができるからです。ペテロ第一1:15には「あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなたがた自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい」とあり、ヘブル12:14には、「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません」とあります。かつては、こうした箇所からの説教がよくありました。「聖さがなければ、だれも主を見ることができません」との言葉に恐れさえ感じたものでした。詩篇51:10にある「神よ 私にきよい心を造り/揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください」は、多くの信仰者の切実な祈りでした。それは、今日も、同じでなければならないと思います。
この「きよい心」は、人が自分の力で勝ち取ることができるものではありません。それは、神からのギフトです。聖書は、神が、人に、それを与えてくださると教えています。エゼキエル36:26に「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」とあります。そして、このことは、イエスによって成就しました。コリント第一6:11にこう書かれています。「あなたがたのうちのある人たちは、以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」「きよい心」、それはイエス・キリストを信じる信仰によって、神からいただくものなのです。
そして、「きよい心」という貴重な宝物をいただいた私たちには、それを保ち、育て、ケアしていく責任があります。赤ちゃんをみて、「人形のようにかわいい」と言うことがあります。人形は、ときどき埃をはらってやればそれで済みますが、赤ちゃんはミルクをあげたり、おしめを替えたり、抱いてやったり、話しかけたり、その世話は大変なものです。神が信じる者にくださった「きよい心」は人形のような「飾り物」ではありません。それは、命あるもので、信じる者の内面で成長していくものです。人形には食べさせる必要がありませんが、「きよい心」には、御言葉の糧という食べ物が必要です。それは大切に養い育てなければなりません。
マタイ5:8の「きよい心」の「きよい」という言葉には様々な意味があります。儀式的にきよいという意味もあれば、金属が火で精錬されてより純粋なものになるという意味もあります。さらに、木が剪定されて整えられるという意味もあります。イエスが「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます」(ヨハネ15:2)と言われた、「刈り込み」は、私たちがきよめられるために、神が私たちに働きかけてくださること、神のきよめのわざを指しています。甘いぶどうは、きちんと剪定された枝にだけしか成らないと聞いたことがあります。神の「刈り込み」、「剪定」には痛みも伴うことでしょうが、それを成長のための痛みとして受け入れるなら、私たちはきよい心を保ち、育てることができます。そして、人に与えられる最高の祝福と言われている、「神を見る」祝福が与えられるのです。
(祈り)
聖なる神さま、あなたは私たちに「きよくあれ」と命じられるだけでなく、あなたの御子と聖霊によって、信じる者に「きよい心」を授けてくださいました。与えられた「きよい心」を養い育て、地上では信仰によって、やがて天ではこの目であなたを仰ぎ見る幸いを与えてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/23/2023