5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
一、清い心を求める
イエスは「心の清い人はさいわいである」とおっしゃいました。しかし、今の時代は、「清い心」を持つことが求めらる時代ではありません。「強くあれ」「賢くあれ」と言われることがあっても、「清くあれ」と言われることは、ほとんどありません。むしろ、「そんなことにこだわっていたら、みんなから置いていかれるよ。清濁合わせ飲むような度量がなかったら、世の中ではやっていけないよ」と言われてしまい、心が清くても何の役にも立たないと思われるようになりました。しかし、心の清さを求めるというのは、人間だけにできる尊いことなのですから、「清い心」を求めず、そのことに関心すら示さないということは、人としての本分を失いつつあることだと言っても良いと思います。
最近は、学校でも、家庭でも、清い心、美しい心を持った人の話が教えられることが少なくました。こどもたちにそういう話をしてあげても、感動するよりも、「なんだ、自分が損して、馬鹿じゃないの」というような反応が返って来るそうです。また、こどもたちに「どんな人になりたいか」と聞くと、「お金持ちになりたい」「人気者になりたい」という答がほとんどで、「悪に負けない正しい人になりたい」とか「社会に尽くしたい」などという答はめったに聞かれなくなりました。
こどもたちが、そんなふうに考えるようになったのは、大人たちが、金持ちになること、有名になること、注目されること、この世で「成功」することばかりを求め、そういう生き方をしているからです。こどもの世界はおとなの世界の反映です。現代のこどもたちが、清い心や美しい生き方を知らないのは、それを教えず、身をもって示さなかったおとなの責任だと思います。
それは残念なことですが、もっと残念なことは、神の犠牲の愛やイエス・キリストの美しい生き方を知っているはずのクリスチャンの間でも、清い心や正しい生活、美しい生き方が、ないがしろにされるようになってきていることです。
それは、ここ30年ぐらいに起こったことで、以前は、クリスチャンなら誰もが、当然のこととして、もっときよめられて神に近づきたいという切実な思いを持っていました。礼拝が始まるときには「主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である」(詩篇24:3−4)といった聖書が読まれました。「そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい」(テモテ第二2:22)との御言葉は、青年会のモットーでした。「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル12:14)という言葉に恐れさえ感じ、「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」(詩篇51:10)との祈りが、個々のクリスチャンにおいても、教会全体でも捧げられていました。それは、キリストによって贖われ、聖なる神を知った者の自然な祈りでした。
ところが、いつしか、教会の教えは、「生活に役立つものでなければならない」ということが強調されるようになりました。英語で “relevant” と言いますが、実生活に関連したもの、たとえば、人間関係のこと、子育てや家族の問題の解決、現代の社会の諸問題にどう取り組むべきかなどといったことが、説教やバイブルスタディでとりあげられるようになりました。こうしたことは、大切なことで、教会で教えられ、学ばれてよいことです。しかし、その基礎になるイエス・キリストの救い、救われた者の霊的な成長、神とのまじわりという部分が欠けてしまうと、教会の教えも、自己啓発のセミナーの教えも変わらないものになってしまいます。教会が神を礼拝する「祈りの家」ではなく、クラブハウス、あるいはアクティヴィティセンターになってしまいかねません。
わたしたちは時代が求めるものを無視するわけではありませんが、信仰の基本に立ち返り、神とのまじわりを深めること、クリスチャンがきよさをとり戻すことが、じつは、この時代の必要に最もよく応えることだと信じています。「心の清い人たちの幸い」を持つことが、日常生活に最も “relevant” なことだと確信しています。なぜなら、そうすることで、人はどんな状況の中でも、ゆるがない生きる力を与えられ、この世に流されることのない確かな生き方ができるからです。
二、清い心を受けとる
では、神がわたしたちに求めておられる「清い心」、わたしたちが求めるべき「心の清さ」とはどういうものなのでしょうか。そもそも、人は「清い心」を持つことができるのでしょうか。聖書は「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ17:9)と言い、イエスは「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」(マルコ7:20ー23)と言われました。どんなに外側をきれいにしても、内面に汚いものがあれば、決して神に喜ばれることはありません。なぜなら、「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(サムエル第一16:7)からです。人が神に喜ばれ、また、自分も神を喜ぶことができるためには、「清い心」がどうしても必要です。ところが、人は、自分の力ではそれを持つことができないのです。人に「清い心」を授けてくださるのは、神だけです。
実際、神は、旧約の時代から、人に「清い心」を与えると、約束してくださっていました。エゼキエル36:26にこうあります。「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。」
そして、このことは、イエス・キリストによって成就しました。イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血は、信じる者をすべての罪からきよめる力があります。イエス・キリストはご自分の命をもって、救いのわざを成し遂げられたあと、復活して天に帰り、そこから聖霊を遣わしてくださいました。聖霊は信じる者の内側に住み、その心をきよめてくださるのです。わたしたちは神の国にふさわしくない者、神の国をつぐことができない者でした。しかし、イエス・キリストにより、聖霊により、罪からきよめられ、新しい、清い心を与えられたのです。コリント第一6:11にこう書かれています。「あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」
「清い心」は、自分で自分をきよめて得られるものではありません。何かの修行を積み重ねたり、儀式に参加すれば得られるというものでもありません。マルチン・ルターは、修道士として、自分にできるあらゆる修行を積み重ねましたが、その結果悟ったことは、自分がいかに罪深いかということでした。そして、ルターは、「清い心」はただ神から来るということを発見し、聖書によってその確信を持ったのです。「清い心」、それはイエス・キリストを信じる信仰によって、神からいただくものなのです。
三、清い心を育てる
神から「清い心」を授けられた信仰者は、それを保ち、成長させていく責任があります。神がくださる「救い」は、命あるものです。すべて命あるものが成長するように、神の救いも信じる者の中で成長していきます。救いによって与えられる「清い心」も同じです。そして、「清い心」が成長してくためには、それを育てていく手間暇、ケアが必要なのです。
赤ちゃんをみて、「人形のようにかわいい」と言うことがありますが、赤ちゃんは、けっして人形のようには、おとなしくはしていません。人形は、ときどき埃をはらってやればそれで済みますが、赤ちゃんはミルクをあげたり、おしめを替えてやったり、抱いてやったり、話しかけたり、その世話は大変なものです。人形なら、そんなことをしなくてよいのですが、人形は決して成長しません。けれども、赤ちゃんはやがておすわりができ、這い這いができ、歩き出し、言葉を話し、どんどん成長していきます。神が信じる者にくださった「清い心」は人形のような「飾り物」ではありません。それは、命のあるもので、信じる者の内面で成長していくものです。人形には何も食べさせる必要がありませんが、成長していく「清い心」には、御言葉の糧という食べ物が必要なのです。
先週、DBA の事務所で牧師会がありました。私は聖書を持って行きましたが、ほとんどの牧師は、携帯電話やタブレットで聖書を見ていました。あらゆるものがバッテリーで動く時代になりました。それで、ある牧師が、「神はわたしたちに『救い』という最高のバッテリーをくださった。それは世界一のバッテリーだが、充電されていなければ働かない」と言っていました。信じる者が、信仰によって「充電」されている必要があることを、「救い」をバッテリーに、神を電源に、信仰を電源とバッテリーをつなぐコードにたとえて話していたのです。
マタイ5:8の「清い心」の「清い」という言葉には様々な意味があります。それには儀式的にきよいという意味もあれば、金属が火で精錬されてより純粋なものになるという意味もあります。さらに、木が剪定されて、きれいになるという意味もあります。「清い心」が命あるもので成長していくという面から見るなら、「剪定される」という意味で考えてみるとわかりやすいと思います。神は、信じる者の内面に「清い心」という種を植えてくださいました。神の恵みの光と、御言葉の水が注がれ、それは、芽を出し、成長し、やがて、枝を張り、葉を繁らせます。しかし、その木が実を実らせるためには、農夫は、不必要な枝を切り、それを剪定します。「清い心」が育っていくために、神は、信仰者の心に鋏を入れ、不必要なものを取りのぞかれることがあるのです。それは、時には痛みを覚えることかもしれませんが、「清い心」が育っていくためには必要なことなのです。信仰者は、捨てるべきものを捨てることによって、さらに大きな祝福を得るのです。
この祝福の秘訣について、イエスはこう言われました。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。」(ヨハネ15:1-4)さきほどのバッテリーの話しのように、「つながっている」ことが「清い心」を保つ秘訣です。
「清い心」を求めましょう。それを受け取りましょう。そして、それを育てていきましょう。神のかたちに造られた人間は、神のきよさにあずかってこそ、ほんとうの幸いを得るのです。主イエスは、「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」とおっしゃって、「清い心」を求め、受け取り、育てる人々に「神を見る」という祝福を約束されました。「神を見る」ということについては、次週に学びますが、これは人にとって最高の祝福です。この祝福、このさいわいを受け取り、「きよい心をもって主を呼び求める人々」(テモテ第二2:22)のまじわりを、育て、ひろげていきたいと思います。
(祈り)
聖なる神さま、あなたは言われました。「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである。」そして、あなたはわたしたちに「きよくあれ」と命じられるだけでなく、あなたの御子と聖霊によって、信じる者をきよめ、「清い心」を授けてくださいます。この恵みを求める熱心をわたしたちに与えてください。そして、あなたを仰ぎ見るさいわいへと導いてください。主イエスのお名前で祈ります。
8/28/2016