5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
一、環境からのさいわい、神からのさいわい
「幸福」には二種類あります。ひとつは、“happiness” の「幸福」です。“Happiness” は “happen” から出た言葉で、身のまわりに良いことが起こった(“happen”)ので、ハッピーだと感じる幸福です。多くの人が「幸福」というときには “happiness” の「幸福」のことを考え、この「幸福」を求めています。しかし、わたしたちの身のまわりにいつも良いことが起こるとはかぎりません。身のまわりに起こることは、毎日変わります。一日のうちでも、いろんなことが起こります。朝、しあわせな気分で一日をスタートしても、昼には腹立たしい出来事に出会う、夕方には落胆して家に帰ってくるなどということはよくあることです。身のまわりの出来事に依存している幸福は、アップ・ダウンが激しく、長続きする幸福ではありません。
しかし、もう一種類の「幸福」は、たとえ身のまわりに良いことが起こらなかったとしても、逆に、好ましくないことが起こったとしても、なお、その中でわたしたちを支えてくれる幸福です。イエスは「貧しい人たち」、「悲しんでいる人たち」、「柔和な人たち(あるいは、卑しめられている人たち)」、「義に飢えかわいている人たち(あるいは、公平に扱われていない人たち)」にも「さいわい」(祝福)を宣言されました。イエスが宣言された「さいわい」はその人が置かれている環境や、その人の外側の状態にはよらないものです。この「さいわい」は貧しい人の心にある宝、悲しむ人の涙をぬぐいとる慰め、低められている人に授けられる栄誉、正しい主張が受け入れられないでいる人に与えられる満足です。こうした「さいわい」は、自分の力によってでも、この世が与えるものよってでも得ることができないもの、神が恵みによってくださるもの、天からの祝福です。そして、それは誰にも奪われることのないものです。
イエスは言われました。「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。」(ヨハネ16:22)イエスが宣言された「さいわい」は、私たちのたましいの奥深くに神が植え付けてくださるもので、環境がどう変わっても変わることがないものです。
しかし、信仰を持ち、御言葉を知っていても、わたしたちはこの「さいわい」を見失うことがあります。自分の身に起こった好ましくないことに不満を持ち、嫌なことにつぶやき、辛いことに落胆してしまうのです。しかし、そのような時でも、心を神に向けるとき、この世からは得ることができない、天の祝福が備えられていることを知るのです。イエス・キリストを信じる者は、それがすでに与えられていることに気づくのです。環境によって変わることのないさいわいを真剣に祈り求めましょう。そして、礼拝で主イエスを見上げるごとに、主が「あなたはさいわいだ」と宣言していてくださる、祝福を受け取りましょう。
二、受動のさいわい、能動のさいわい
“Happiness”の幸福は外側からのもので、イエスが言われたさいわいは、信じる者の内側に与えられるものです。ですから、“happiness” の幸福は、受動的なもの、受け身の幸福ですが、神からの祝福は、能動的なもの、まわりに働きかけていくものです。イエスがくださる「さいわい」は、困難な状況の中にある人を支えるだけでなく、まわりの困難な状況に働きかけ、それを変えていくものです。イエスが宣言された八つの「さいわい」はみなそうです。
「心の貧しい人」は、人の目に見えない天の宝によって、自分が満たされるだけでなく、まわりの人々を豊かにすることができます。「悲しむ人」は自分が慰められるだけで終わらず、天からの慰めをまわりの人々と分かち合うことができるようになります。天の慰めを受けた者は、傷つき、悲しむ人に同情するだけでなく、その人たちに本物の慰めを示すことができるからです。「柔和な人」は、神からの栄誉を受けるだけでなく、他の人ともそれを喜びあうことができます。「義に飢え渇く人」はその渇きがいやされるだけでなく、他の人にもいやしを分け与えることができるようになります。イエスこそが人のたましいの渇きをいやすお方であることを知った人は、イエスによるいやしと満たしの喜びを伝えることができるのです。
きょうは、第五番目の「さいわい」、「あわれみ深い人のさいわい」を学ぶのですが、「あわれみ深い」というのは、まさに、他の人に向かうことですから、この「さいわい」ほど、能動的な「さいわい」はありません。
イエスは、ことあるごとに、人々に「あわれみ深く」あるよう教え、ご自分もそうされました。イエスが様々な奇跡をなさったのには、それによって聖書の預言を成就し、ご自分が約束の救い主であることを示すためでしたが、奇跡をなさった動機は人々への深いあわれみからでした。「らい」の人がやってきたとき、イエスはその人を「深くあわれみ」、手を伸ばして彼に触れ、いやしておられます(マルコ1:41)。五千人の人々にパンを与えたときも、「大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで」(マルコ6:34)そのことをなさったのです。
イエスがこうしたあわれみのわざをなさっておられると、律法学者やパリサイ人たちがやってきて、それを咎めました。それに対してイエスは「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない」という聖書の言葉を引用して、「この言葉がどういう意味か、学んできなさい」(マタイ9:13)と言って、彼らを戒めました。律法学者やパリサイ人は、律法の細かな規定を熱心に守っていながら、「律法の中でもっと重要な、公平とあわみと忠実とを見のがして」(マタイ23:23)いたのです。
皆さんがよく知っている「良いサマリヤ人」のたとえ話は、律法の中心が「あわれみ」にあることを教えるために語られたたとえです。イエスはこのたとえ話の中に、サマリヤ人を登場させていますが、当時、サマリヤ人はユダヤ人からとても嫌われていました。ユダヤ人のサマリヤ人に対する憎しみは、異邦人に対するものよりも大きかったと、歴史は伝えています。ところが、イエスは、祭司やレビ人が、強盗に襲われたユダヤ人を助けなかったのに、サマリヤ人が助けたと言われました。そして、イエスは、律法学者に「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか」と問われました。律法学者は「サマリヤ人です」とは言いたくなかったので、「その人に慈悲深い行いをした人です」(ルカ10:37a)と答えています。「慈悲深い行いをした人」という部分は、文字通り訳せば、「あわれみを示した」なります。律法学者は、意図せずに、律法が求めているものが「あわれみ」であると答えているのです。
イエスは、律法学者が正しい答をしたので、すぐにこう言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37b)先に引用した「この言葉がどういう意味か、学んできなさい」(マタイ9:13)も、直訳すれば、「行って、学べ」となります。「行って」とありますが、どこに行くのでしょうか。自分の生活の場です。「あわれみ」は学問によって知ることではなく、実行、実践によって学ぶことだからです。「あわれみ深い人のさいわい」とは、その人の内面から出たものが、他の人に向けられ、それによってまわりが変えられていく「さいわい」なのです。
三、受けるさいわい、与えるさいわい
よく言われることですが、世の中には、サーモメータ(温度計)のような人と、サーモスタット(温度調節器)のような人がいます。サーモメータは、温度が上がれば目盛りが上り、温度が下がれば目盛りが下がる、ただ環境に左右されるだけです。サーモスタットは、温度が下がれば暖房を動かし、温度が下がれば冷房を動かし、部屋の気温を一定に保ちます。わたしたちはどちらでしょうか。いつでも外側のものに左右され、上がったり下がったりの人生を送るのでしょうか。それとも、内側に持っている力によって、私たちの回りを暖めたり、さわやかな風を送ることのできる人生を送るのでしょうか。「あわれみ深い人」の「さいわい」とは、まわりの人々に対してサーモスタットのような人になることです。
しかし、わたしたちにそんなことができるのでしょうか。もちろん自分の力ではできません。サーモスタットといえども、それ自体が部屋を温めたり、涼しくしたりするのではありません。それをするのは、暖房や冷房の機械です。サーモスタットは暖房や冷房の機械につながっていて、その力で、部屋の温度を調節するのです。同じように、わたしたちも、イエス・キリストにつながり、神の力を受けなければ何もできません。まわりを変えていくことも、他の人にあわれみを示すこともできないのです。
イエスは「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう」と言われました。あわれみ深い人に与えられる祝福は「あわれみ」です。「あわれみ」を与えた人には、「あわれみ」が与えられるのです。「あわれみ」は与えて減るものではなく、何倍にもなって返ってくるものです。たとえ、人から返ってこなかったとしても、神が、「あわれみ」の中に生きる人を、大きなあわれみで包んでくださいます。実際のところ、わたしたちに最初にあわれみを与えてくださったのは神です。わたしたちが他の人に心からのあわれみを持つことができるのは、自分が神からのあわれみを受けていることを知ることによってなのです。
「あわれみ」とは小さいもの、弱い者、苦しむ者に向けられる愛のことです。神がわたしたちを愛してくださる愛はすべて「あわれみ」の愛です。全宇宙よりも大きく、全く聖い神が、小さく、罪深い人間に心をかけ、愛を注いでくださるのですから、その愛はあわれみの愛以外の何ものでもありません。神は、人間が神に逆らって自ら苦しみを招いているにもかかわらず、自らの罪に苦しむ者をお見捨てになりませんでした。「自業自得だ。苦しむのは当然だ」と言われてもしかたないのに、神は、そんなわたしたちに心をかけ、深いあわれみを注いでくださいました。
聖書は、いたるところでこの神のあわれみをほめたたえています。たとえば詩篇86:15にこうあります。「しかし主よ、あなたはあわれみと恵みに富み、怒りをおそくし、いつくしみと、まこととに豊かな神でいらせられます。」そして、信仰者は常に、この神のあわれみを求めてきました。続く16節では「わたしをかえりみ、わたしをあわれみ、あなたのしもべにみ力を与え、あなたのはしための子をお救いください」との祈りがあります。
“Jesus Prayer” という、古代から伝わる祈りがあります。“Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner.”(「主イエス・キリスト、神の子、罪人であるわたしをあわれんでください」)と唱える祈りです。人々はこれを一日に何度も繰り返し祈りました。また、古代の教会では、礼拝は「キリエ・エレイソン」(「主よ、あわれみたまえ」)の祈りで始まりました。信仰者たちは、こう祈ることによって、自分が救われ、支えられているのは、ひとえに神の「あわれみ」によることを、心に深く刻んだのです。“Jesus Prayer” は「呼吸の祈り」とも呼ばれますが、信仰者たちはこの祈りを祈りながら、イエス・キリストのあわれみを文字通り、吸い込み、それによって信仰が養われていったのです。神の大きなあわれみを豊かに受けることによって、他の人にあわれみを示す者へと変えられていったのです。
「あわれみ深い人のさいわい」、それは、神のあわれみから始まり、再び、神のあわれみへと返っていきます。わたしたちもこの礼拝で、あわれみ深い神に出会い、神のあわれみに満たされ、あわれみのわざへと導かれたいと思います。
(祈り)
わたしたちのさいわいのみなもとである父なる神さま、ほんとうのさいわいは、わたしたちの心の奥深くに与えられるあなたからの祝福です。どうぞ、わたしたちの内側にある、あなたの祝福が、わたしたちの置かれた場所をさいわいの場所へと変えて行くまでに、わたしたちを守り、導き、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。
8/21/2016