5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
テレビ局のレポーターが、礼拝を終え教会から出てくる人たちにマイクロフォンを向けて質問しました。「聖書にはキリストの生涯と教えを記録した四つの福音書がありますが、何と、何と、何と、何でしょうか。」急に質問された人たちは、「えーっと、マタイ、マルコ、…それから、ルターかな? ヨハネかな?」などと答えていました。正しくは、「マタイ」、「マルコ」、「ルカ」、そして「ヨハネ」です。このテレビのレポートで、長年教会に通っていても、聖書に親しんでいない人が大勢いることが明らかになりました。
私たちは福音書が四つあることを知っていますが、では、その四つのそれぞれにどんな特徴があるかと言われると、それに答えるのは少し難しいです。マタイの福音書は系図から始まっています。また、「主が預言者たちを通して語られたことが成就するためであった」(マタイ1:22)と言って、旧約の預言を数多く引用しています。そうしたことから、マタイは旧約聖書をよく知っているユダヤの人々のために書かれたと考えられます。
さらに、マタイにはイエスの「教え」を5つにまとめ、イエスの公の生涯でのさまざまな出来事をそれらの「教え」を軸に整理して書いています。その5つの教えの最初のものが、マタイ5-7章の「山上の説教」(The Sermon on the Mount)と呼ばれている部分です。
一、山上の説教
旧約時代、神はイスラエルに律法をお与えになりました。それは、旧約の中心です。「山上の説教」は、それと対比することができます。旧約時代には神の代理者モーセが神の言葉を取次ぎましたが、新約時代には神の御子イエスが神のみこころを教えてくださいました。モーセがシナイの山で律法を受けた時、山には稲妻が光り、雷鳴が響いていました。煙が立ちこめ、山は震えました。モーセの他は誰も、山に近づくことが許されませんでした(出エジプト記19:18)。しかし、イエスが説教されたガリラヤ湖畔の小さな丘は、温かく日が差し、湖の風がそよそよと吹いていました。男も女も、老いも若きも、小さな子どもでさえイエスに近づき、神の言葉を聞くことができました。
山上の説教の情景は新約時代の恵みを表しています。聖書はこの恵みを次のように言っています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。……私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」(ヨハネ1:14、16、17)神は、聖なるお方であり、罪と汚れをもった人間は、誰一人神に近づくことができません。ところが、イエスは、聖なる神に恐れなく近づき、神の言葉を聞き、そのお心を知ることができるようにしてくださったのです。かつては考えられなかったことが、この「山上の説教」から始まったのです。
モーセが伝えた律法は「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」、「あなたは自分のために偶像を造ってはならない」などの「命令」が中心でした。そして、命令を守らない者には厳しい罰則がありました。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」という命令には、「主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない」という罰則が伴っていました。
神の命令には、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」とあるように、それを守る者には祝福が約束されているのですが、罪を持つ人間は、律法が約束する祝福を喜ぶことができず、処罰を恐れてしまうのです。多くの人が律法が尊いものであることが分かっていても、自分がそれを守っていない、それに適(かな)っていないことを知っるとき、律法の言葉では神の祝福を確信できないのです。
イエスの言葉は、そんな私たちへの恵みの言葉です。山上の説教は「祝福」という言葉から始まります。「心の貧しい者は幸いです」は、直訳すれば、「なんと祝福されたことか、心の貧しい人は」となります。イエスは、山上の説教で、律法ののろいを取り去り、祝福を宣言してくださいました。
二、貧しい者の幸い
イエスのまわりに集まったのは、ガリラヤの地方のごく普通の人たちでした。ガリラヤは、ユダヤでは貧しくて生きていけない人たちが新天地を求めて移住してきた開拓地でした。そこは光のあたらなかった地域で、「異邦人のガリラヤ」、また、「死の陰の地」と呼ばれ(マタイ4:15-16)、イエスの時代も、依然として貧しい地域でした。人々は「預言者はガリラヤから出ることはない。ましてキリストは」と考えていました(ヨハネ7:41、51)。ところが、イエスは、もっとも貧しい地域で、貧しさの極みにあるような人々に、「貧しい者は幸い」と言って、祝福を宣言なさったのです。
ユダヤの伝統では、富は神の祝福のしるしであると考えられています。ですから、イエスの言葉は、財産に恵まれた人にも、貧困の苦しみを味わっている人にも、「なぜ、貧しい人が幸いなのか」と、納得のいかないものだったに違いありません。私たちも、「なぜイエスはそう言われたのだろう」と思ってしまいます。
ここで、イエスは「〝心の〟貧しい人」と言われました。ですから、「貧しい人」というのは、経済的に貧しい人だけでなく、知恵や知識に不足し、能力の足らなさ、徳の足らなさを知る人ということになります。日本では、政治家が問題を起こしたとき、「不徳のいたすところ…」と言って弁解しますが、「不徳」とは、道徳的な健全性や完全性(integrity)に足らないという意味です。私たちも、その面での未熟さ、足らなさ、貧しさを痛感します。また、何より、神への信仰の足らなさを思い知らされることがあります。けれども、そうした足らなさ、乏しさ、貧しさを自覚して、懸命に神の助けを願う人、それが「心の貧しい人」です。イエスは、「天の御国はその人たちのものだからです」と仰って、そのような人に、天の御国を約束されました。だから、心の貧しい人は幸いなのです。
しかし、人が自分の「貧しさ」を自覚し、それを認めることは簡単なようで難しいものです。人は、自分の姿が一番見えないものですし、誰もがプライドを持っているからです。マタイ19:16-22 に、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」とイエスに尋ねた人のことが書かれています。この人は、若くして、地位を得、多くの財産も持っていました。イエスから戒めを示されたときも、胸を張って、「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」と言ったように、自分は道徳的にも優等生であると思っていました。さまざまなものに恵まれ過ぎていて、自分の欠けに気づくことがなかったのです。
私たちも、多くのものに恵まれているときには、自分の貧しさに気づかないでいることが多いものです。けれども、試験に落ちて資格を失う、何かのことで失敗をして地位や評判を失う、喧嘩をして友だちを失う、病気になって健康を失う、解雇されて収入を失うなどといったことがあると、それによって、自分がどんなに乏しく、貧しい者かを知るようになります。けれども、地上の大切なものを失ったとしても、自分の足らなさを知ったとしても、私たちは自暴自棄になったり、諦めたりしません。そんなときこそ、神に信頼します。信じる者を決してお見捨てにならない神によりすがります。そのような人が「心の貧しい人」です。そしてイエスは、「心の貧しい人」が天の御国を継ぐと約束なさいました。
三、貧しくなられたイエス
しかし、「貧しい人」が天の御国を継ぐといっても、それはどのようにして可能になるのでしょうか。その約束が真実であることはどのようにして知ることができるのでしょうか。
多くの人は山上の説教を理想的ではあっても、実行できず、実現不可能な言葉と考えていますが、それは、山上の説教の大きな事実を見逃しているからです。その事実とは、この山上の説教の語り手がイエス・キリストであることです。真実な神の御子、イエスが宣言された祝福が気休めであるはずがありません。御国の王が天の御国を継ぐと言われた約束がたんなる言葉だけのものであるはずがないのです。聖書のすべての言葉が成就するように、山上の説教の言葉も成就します。聖書のどの言葉も私たちの生活の中で働くように、山上の説教の言葉も、私たちの生活の中で働くのです。
実は、イエスは最も富んでおられるお方です。天のものも地上のものも、すべてのものはイエスのものだからです。そうであるのに、イエスは、天の富、天の栄光を捨て、貧しい大工の子として生まれ、育ちました。聖書は、こう言っています。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(コリント第二8:9)低く生まれ、貧しく育ったイエスが、「貧しい人」の苦しみをご存知でないわけがありません。その辛さに同情できないわけがないのです。
イエスは、ご生涯の最後には強盗たちと一緒に十字架にかけられました。イエスが十字架を背負われたのは、ご自分が人類の罪の身代わりとなって神の刑罰を引き受け、人々を救うためでした。イエスは、人への愛のゆえに、ご自分の栄光のみか、命まで捨てて、貧しさの極みまで降りてきてくださったのです。
イエスと一緒に十字架にかけられた強盗の一人は、人々がイエスを罵(ののし)るのを、じっと聞いていました。人々は口々に言いました。「おまえは他人は救ったが、自分を救えないのか。キリストだというのなら、今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じてやろう。」もちろん、イエスは自分を救うことができました。しかし、イエスがご自分を救えば、世界の人々の救いはなくなるのです。人々は、なぜイエスが十字架にかかられたかを知らなかったのです。イエスは自分を侮(あなど)る人々のために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)映画 “The Passion of the Christ”は、群衆の一人が、イエスを罵った人に「おい、イエスは、おまえのために祈っておられるのだぞ」という場面を入れています。この強盗も、イエスの祈りを聞いて、その祈りが自分のためだと分かったのでしょう。彼は、もう一人が「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言うのをたしなめて言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして、イエスに向かってこう言いました。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」この強盗にイエスは答えて言われました。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
十字架の死の間際に「心貧しい者」となったこの強盗に、イエスは天の御国を約束されました。そのイエスが、山上の説教で、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と宣言しておられるのです。山上の説教の祝福宣言は、どれも真実です。それは、それを語られたイエス・キリストによって私たちの人生のうちに働き、必ず成就するのです。
(祈り)
父なる神さま、御子イエスを通して私たちに、恵みの言葉を語りかけ、祝福を確かなものとし、約束を成就してくださることを感謝します。私たちを、自分の罪を認め、イエス・キリストを信じ、あなたのくださる祝福の道を歩む「心の貧しい者」としてください。救い主イエスのお名前で祈ります。
7/9/2023