5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
一、さいわいの意味
主イエスは、山の上で、集まってきた人々に八つの祝福を宣言されました。第一は 「こころの貧しい人たちのさいわい」、第二は「悲しんでいる人たちのさいわい」、第三は「柔和な人たちのさいわい」で、これらについてはすでに学んできました。当時、貧しい人、嘆き悲しむ人が大勢いました。「柔和な」という言葉には、「押しつぶされ、希望を失う」という意味もありますので、押しつぶされ、絶望していた人も多かったのです。主イエスはそうした人々に救いを約束し、「さいわい」と「祝福」を告げられましたが、その「さいわい」は、キリストを信じる者の、内面にかかわる「さいわい」です。
恵み深い神は、わたしたちの信仰と祈りに答えて、わたしたちがかかえている問題を実際的に解決してくださいますが、そうした問題の解決とともに、その問題の解決を祈り求めるわたしたち自身をも恵み、祝福し、強めてくださいます。神は、信じる者を取り囲んでいる状況を変えてくださるだけでなく、信じる者の内面をも変えてくださるのです。イエス・キリストがくださる救いには、苦しみや悲しみ、痛みが取り除かれ、そうしたものから解放されるということだけでなく、苦しみや悲しみ、痛みによって自分自身が変えられていくという面があるのです。
人が抱える問題は、物質的なものと精神的なもの、そして霊的なものとがからみあった複雑なものです。ですから、目に見えるものだけでは、問題は解決されないのです。経済的に貧しかった家庭に急にお金が入ってきて、経済的には豊かになったけれど、そのために家庭にいざこざが起こるようになったといった話はよく聞くことです。「人はパンだけで生きるものではない。」(ルカ4:4)「たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」(ルカ12:15)と、聖書にある通りです。
神は、人が苦しんでいる問題をちゃんと見ていてくださいます。そしてそれに働きかけてくださいます。しかし、神の目は、問題の中で苦しみ、解決を祈り求める人自身にもっと向けられています。神は、人を愛しておられ、人が問題から解放されるだけでなく、問題をくぐりぬけることによって、さらに強められ、より神に近づくことができるようにと願い、人の内面に働きかけてくださるのです。
ですから、問題に悩むときは、問題だけに目を向けないで、自分に目を向ける必要があります。問題の解決を祈り求めるとき、自分が変えられることを願い求めるのです。それは、なにも、すべての問題が自分のせいで起こっていると考えることではありません。ルールを守って注意深く車を運転していても、信号を無視した車にぶつけられることもありますから、すべてを自分のせいにして自分を責める必要はありません。また、誰のせいかと原因を追求しても解決にならないことも多くあります。大切なことは、問題があり、その問題に悩んでいる自分がいるという事実です。この問題の中で、自分が神とどう向き合うかということです。この霊的、信仰的な問題の解決があってはじめて、本当の解決へと導かれるのです。
わたしは、以前、あるレストランで、知らない人から名刺大のカードをもらいました。今でも持っており、そこにはこう書かれています。
“Dear Lord, I have a problem … That is me.”神は、わたしたちの必要に無関心なお方ではありません。必要なものは必ず与えてくださいます。しかし、神は、わたしたちの内面に、もっと関心を持っておられます。わたしたちが、いやされ、強められ、さらにきよいものになるようにと願い、わたしたちの霊に働きかけてくださるのです。ですから、「主よ、わたしには問題があります。それはわたし自身です」と、言って主の前に出ましょう。そのとき、「子よ、わたしには答えがある。それはわたしだ」という言葉を聞くことができるのです。そのようにして、神と「わたし」との、生きた信頼のつながりが、より強められていきます。これがキリストのくださる「さいわい」なのです。
“Dear Child, I do have the answer … It is Me”.
二、「義」の意味
きょうは、第四の祝福、「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである」について学びますが、主は、ここでは実際の飢餓というよりは、霊的、信仰的な飢餓について語っておられます。「飢えかわく」の前に「義に」という言葉が加えられ、「“義に”飢えかわいている人たちはさいわい」と言われているのはそのためです。
ところで、この「義」には、どういう意味があるのでしょうか。まず、考えられるのは「社会正義」です。主イエスの時代のユダヤの人々は、ローマに苦しめられていました。たとえば、マタイ5:41に「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい」とありますが、当時、ローマ兵は、ユダヤの人の誰にでも、その場で命令して、ローマ兵のために荷物を担がせることができました。たとえユダヤの人がローマ兵に殺されても文句を言えなかったのです。ユダヤの人々に正義に対する激しい飢えかわきがあったのは、たやすく想像できると思います。
次に「義」には「救い」という意味があります。神は義なるお方で、神はご自分の義をもって、世界を裁かれるお方です。聖書には、「主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。」(詩篇96:13)「わが義はすみやかに近づき、わが救は出て行った。わが腕はもろもろの民を治める」(イザヤ51:5)などの言葉が数多くあります。ユダヤの人々はこれらの言葉に基づいて、自分たちを圧迫している国を、神が懲らしめ、神の民に救いがおとずれることを期待していました。
しかし、神が義をもってすべての者を裁かれるときには、たとえ神の民といえども、神の前に正しい者として立つことはできません。聖書は、いたるところで神の民が、不義に染まっていると責めています。また、人は、個人としても、罪や不義を持たない者はいないのです。聖書には、「わたしの不義はわたしの頭を越え、重荷のように重くて負うことができません」(詩篇38:4)という告白の言葉があり、「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)とあります。きよい神の前で、何の罪も不義もない人はだれひとりいないのです。
けれども、聖書には、「み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください」(詩篇51:9)との祈りがあります。神は、自分の罪と不義を知り、それを悔い改める者の罪を赦し、その不義をきよめて、神の前に正しい者にしてくださるのです。罪ある者、不義な人間が、神の義を着せてもらい、聖なる神の前に正しい者として立つことを許されるのです。
このことは旧約時代にすでに預言されていました。イザヤ61:10に「わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである」とある通りです。どこの国でも、花嫁、花婿は最高の晴れ着を身につけます。身分制度のあった時代には平民は王族、貴族と同じ服装をすることは許されていませんでした。しかし、結婚式のときだけは平民であっても、王子、王女の服装をすることが許されてました。神は、神に立ち返る者をご自分の王子、王女として受け入れ、それにふさわしい晴れ着を着せてくださるのです。
新約では、神が着せてくださる「義の衣」は、キリストご自身であると言われています。イエス・キリストはただひとり罪のない神の御子でした。そのお方が全人類の罪を背負い十字架で命をささげられました。それによって信じる者は、キリストの正しさ、「義」を受け取るのです。ガラテヤ3:27に「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」とあります。神はキリストを通して、信仰者をご覧くださるので、 人は、キリストを着ることによって、「罪びと」としてではなく、「義人」として神の前に出ることができるようになるのです。
三、「飢えかわく」ことの意味
さらに、主イエスが言われる「義」には、義とされた者が、実際に義なる者になっていくということが意味されています。神は、罪ある者をも、キリストのゆえに「義人」という立場を与え、「神の子ども」という身分を与えられました。神は、実際には「不義」な者を「義」としてくださいました。では、義とされたのだから、もう実際に義となる必要がないのでしょうか。そうではありません。信じる者を「聖徒」と呼び、「神の子ども」と呼んでくださる神が、信じる者が実際に聖なる者となり、神の子どもらしくなることを願っておられないはずがありません。信じる者は「キリストを着た」のですが、「キリストを着た」といっても、それはオーバーコートのように、着たり脱いだりするということではありません。キリストを着た人はキリストにとりこまれ、キリストと一体になるのです。その中身まで、キリストのように変えられていくのです。
神学の言葉では、義と認められることを「義認」(justification)と言い、実際に義とされることを「聖化」(sanctification)と言います。神学では、厳密な区別をしますが、クリスチャンの実際の体験の中では、「義」と「聖」とはひとつのもので、切り離すことはできません。信仰者は「義」とされてはじめて聖とされ、「聖」とされることによって「義」とされていることを確信できるのです。キリストは…わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられた」(コリント第一1:30)とあるように「義」と「聖」がひとつのものとされています。
したがって、「義に飢えかわく」とは、信仰者が実際に「義」なるものとなること、言いかえれば「聖」とされることを追い求めていくことなのです。義とされること、「義認」はすでに成就していますが、聖とされること、「聖化」は天にたどりつくときまで成長していきますから、信仰者はすでに義とされていても、常に「義に飢えかわく」のです。クリスチャンは罪の赦しからくる平安を知り、そこにやすらいます。しかし、同時に自分にはまだ罪からきよめられていく余地があることを知って、きよめられることを熱心に求めます。クリスチャンは救われている喜びを知り、キリストの名で呼ばれていることを誇ります。しかし、同時に、罪赦された罪人として神の前に出ます。「聖徒」でありながら「罪人」。「罪人」であるのに「聖徒」。「飢えかわい」ているのに「飽き足りて」おり、「飽き足りて」いるのに「飢えかわいている」、じつに不思議な存在です。しかし、そこに真実な信仰者の姿があるのです。
食べものや飲み物だけに飢えかわくのでなく、精神的なものに「飢えかわく」ことができるのは人間だけです。また、自分の願望が満たされることに「飢えかわく」のでなく、神の義が、世界に、また、自分のうちに実現するようにと、待ち望み、そのことに「飢えかわく」のは、キリストの義によって救われたクリスチャンだけができることです。日本語で、「義」という漢字は「主義主張」や「義理人情」などといった言葉で使われています。しかし、その「義」は「人の義」でこの世のものです。それは神の国に属する「神の義」ではありません。「まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ6:33)とあるように、自分の主義主張やこの世の義理人情ではなく、「神の義」を求めましょう。そして、「義に飢えかわく」ことの中にある、ほんとうの満足を味わいましょう。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちは、自分の願望が実現しないときに、不満を覚えることはあっても、あなたの正義が実現しないことや、自分自身があなたの義にかなわないことを、「飢えかわく」ほど、熱心に求めることが、少なかったことを、御前に告白します。聖なるあなたに愛されている者として、義とされ、聖とされることを切実に求めていくことができますよう導いてください。それによって、あなたからのさいわいを受け取り、その祝福を味わう者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
7/24/2016