幸いな人々(一)

マタイ5:1-6

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5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

 今月(2014年2月)28日から、イエスの生涯を描いた "Son of God" という映画が、全米で公開されます。ダラスでも AMC や Cinemark で上映されます。イエスの生涯を描いた映画は今まで数多く作られてきましたが、この映画は、生き生きとした動きのある演技、最新のデジタル映像、新しく作られた音楽が特徴だそうです。家庭で DVD を観るのもよいかもしれませんが、ムービ・シアターの大きなスクリーンで観ると、その特徴をもっと楽しめるかと思います。時間は2時間18分です。

 さて、今朝の箇所は、イエスがガリラヤ湖を見下ろす山の上で語られた言葉で、ここから7章までは「山上の説教」と呼ばれています。この「山上の説教」はとても有名な箇所で、一般の書物にも良く引用されますし、イエスの生涯を描いた映画では必ず出てくるシーンです。 新しく作られた映画でこの部分がどう描かれているか興味がありますが、私が聖書を読んで思い浮かべるのは、イエスが先頭に立って山を上っていかれる姿です。イエスはまっすぐ頂きを目指して黙々と山を上ります。そのあとをイエスの弟子たちと大勢の群衆がぞろぞろと続いていきます。山の上は広い台地になっていて、そこに着くと、イエスはふりかえって、あとからついてきた弟子たちや群衆のほうに目を向けます。そして、そこにあった岩の上に腰を降ろし、これから口を開こうとします。人々は少しでも近くでその声を聞こうと、イエスの足元までびっしりと押し寄せてきます。イエスの言葉を聞き漏らすまいと、耳を傾けている群衆に、イエスが語りかけます。私が心に思い描くのはそんな情景ですが、皆さんはどんな情景を思い描くでしょうか。

 一、幸いを宣言するイエス

 イエスの口から出た最初の言葉は「さいわいである」という言葉でした。文語訳の聖書では「幸福(さいわい)なるかな、心の貧しき者…幸福なるかな、悲しむ者…幸福なるかな、柔和なる者…幸福なるかな、義に飢え渇く者」と、元の言葉の順序で訳されています。この「さいわい」という言葉は、「祝福されている」という意味の言葉ですから、イエスはご自分のまわりに集まった大勢の人々に「あなたがたは神の祝福を受けている」と「祝福宣言」をされたのです。

 人々はこれを聞いて驚いたことでしょう。なぜかといえば、イエスのもとにやってきた人々の多くは、自分たちをそんなに幸いなものだとは考えていなかったからです。今朝の箇所の少し前、4:23-25に、こう書かれています。

イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。
イエスに従ってきた人たちは、病気をはじめとして、この世でさまざまな苦しみを受けていた人たちでした。日本では、その家に不幸があったり、その人に災難が続いたりすると、それを「罰」や「たたり」だと考えることがあります。人から、同情よりも冷たい視線を向けられることもありますし、本人もそんな思いに取り憑かれたりして、苦しみから立ち上がれないことがあります。それはイエスの時代のユダヤでも同じでした。健康で、裕福で、何の問題もない人は神から祝福されているが、そうでない人は祝福から遠のけられていると思われていました。イエスのもとに集まった人たちの多くは、何かの苦しみや痛みをかかえており、そのため自分たちは神の祝福から遠いと感じていたのです。

 ところが、イエスは、そうした人々に、開口一番、「さいわいだ!」「祝福されている!」と宣言されたのです。なぜでしょうか。それは、苦しみや痛み、困難や悩みが人を駄目にしてしまうものではないからです。そうしたものも、神によって、幸いに変えられ、祝福となるからです。

 ここで言われている「貧しい人」というのは、働こうとしないで貧しくなった人のことではありません。病気のため働くことのできない人や働いてもそれが少しも収入にならない人たちのことです。主人が賃金を払ってくれなかったり、せっかく得たわずかな収入が税金にとられてしまうなどといったこともあったでしょう。社会の仕組みによって、また、自分ではどうにもならない大きな力によって貧しくさせられた人々がいたのです。

 イエスが「貧しい人」と言われたとき、そこには「こころの貧しい人」も含まれていました。イエスに従った人々の中には裕福な人たちも多くいました。ルカ8:3に「ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した」とあります。こうした人々は地位も財産もありましたが、それで自分を誇ったり、享楽にふけったりすることはありませんでした。この世の物では満足できないで、自分のたましいを満たしてくれるものを真剣に求めていました。自分の内面の貧しさを知っている人にも、イエスは「さいわい」を宣言されました。経済的には豊かであっても、貧しい人と同じ立場に立ち心にかける人にも、イエスは「祝福」を与えられたのです。

 次の「悲しんでいる人」は、病気のある無し、財産のある無し、才能のある無しに関係なく、どこにでもいます。どんな境遇の人にも愛する人を亡くす悲しみや人に理解されない悲しみがやってきます。どんなに暖かい部屋に住む人にも、冷たい仕打ちがやってきますし、どんなに柔らかい着物を来ている人にも、その心をズタズタにする鋭いとげが打ち込まれることがあるのです。自分ではどうすることもできない重荷を抱え、それを「嘆き」や「怒り」として表現できず、「悲しみ」を心の奥深くしまいこんでいる人がなんと多いことでしょうか。人前では笑顔を見せ、冗談を言って人を笑わせていても、その心で涙を流している人は、世界中に数知れずいます。私たちの身近なところにもいます。いいえ、自分自身がそうかもしれないのです。

 その次の「柔和な人」と訳されている言葉は、「卑しめられている人」とも訳すことができます。家柄や職業、教育や財産などによって差別され、低められ、卑しめられている人たちのことです。さきほど触れた地位ある裕福な女性たちも、女性であるゆえに、また、イエスを信じる信仰のゆえに差別され、低められ、卑しめられていたかもしれません。

 「義に飢えかわいている人」というのは、正しい訴えが通らず、正義が満たされないで苦しんでいる人たちのことです。イエスのたとえ話の中に、やもめが裁判官に自分の訴えをとりあげてくれるよう、しつこくせがんだという話があります(ルカ18:2-5)。力も金もないやもめの訴えが聞かれることがないのは何もイエスに時代にかぎったことではありません。現代のアメリカでも権力のある人、人脈のある人、弁護士にたくさんのお金を積むことのできる人のほうに有利な判決がなされるという現実があります。

 「義に飢え渇く人」は、正しい者でありたいと願いながらそれができないで苦しんでいる人のことも指しています。社会の悪を批評しながら、自分もまた同じことをしている、そのことに気付き、自分を向上させたいと願っている人もまた「義に飢え渇く人」です。

 イエスは貧しく、悲しみを抱え、卑しめられ、不公平に扱われている人たちに「さいわい」を宣言されました。貧しさや悲しみ、痛みや苦しみは、それだけで終わらないからです。そうしたものは、私たちを神への信頼に導きます。私たちの内面の成長を促し、私たちを神に近づけてくれます。神は、その信仰のチャンネルを通して私たちのうちに働いてくださるのです。ですから、自分の不幸を嘆き、その中に閉じこもることをやめましょう。「あなたはさいわい!」と語られるイエスの声を聞きましょう。

 二、幸いを与えるイエス

 真面目に働く者が貧しくなり、ずる賢い人が富を蓄える。心優しい人が悲しいめにあい、人を押しのける者が高笑いする。正しい訴えが斥けられ、権力ある者は何をしても罪に問われない。それが世の中です。この世では善と悪が逆になっています。しかし、神の国にはそれをもとに戻す「どんでん返し」があります。そこでは善は善として、悪は悪として取り扱われます。正義と公平が取り戻されるのです。そのことは主の母マリヤがその賛歌の中で歌ったとおりです。

主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
(ルカ1:51-53)
母マリヤが預言したことを、マリヤの子、神の子イエスがそれを実現されました。

 イエスは「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」と仰って、貧しい人たちに天の宝をお与えになります。人は地上でどんなに多くの財産を持っていても、世を去るときは、それをすべて地上に残していかなければなりません。信仰によって天に宝を積んでいなければ、地上を去った後、受け継ぐものは何もありません。しかし、地上ではどんなに貧しくても、神への信仰に生きた人は、天の無限の宝を受け継ぐのです。経済的な面だけでなく、健康の面でも、能力の面でも、感情の面でも、自分の弱さ、貧しさ、乏しさ、また欠けを知っている人は、その分だけ、神に頼り、助けを求めて祈ります。そして、その信仰や祈りによって、豊かになるのです。

 「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」というイエスの言葉は、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる」(黙示録21:3-4)という聖書の言葉で言い換えられています。悲しむ人が慰められるというのは、今まで泣いていた人が突然笑い出すということではないと思います。むしろ、神の前で安心して涙を流すことができるということでしょう。神は、私たちの涙を皮袋に蓄えておられるお方(詩篇56:8)、イエスは涙を流されたお方(ヨハネ11:35)、聖霊は私たちの内にあってうめいてくださるお方(ローマ8:26)です。私たちが天にたどりつくまでには、何度も涙を流すでしょう。涙ひとつ流さない、強くて明るいのがクリスチャンというわけではありません。主の前で涙を流していいのです。クリスチャンは、主の前で安心して涙を流し、主がそれを拭ってくださるのを体験するのです。

 「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」という言葉も、「彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する」(黙示録20:6)という言葉に、その成就が描かれています。信じる者は、神の国を受け継ぐだけでなく、地も受け継ぐのです。その内面に、誰も奪うことのできない神の国の平安を受けるだけでなく、実際的な問題においてもその解決を見ることができるのです。

 「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」イエスは正義を求め、正しくありたいと願う願いを満たしてくださいます。イエスに信頼する者は裏切られることはありません。私たちは必ず、神の正義に満ち足りるようになるのです。

 今朝の箇所の最初に「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた」とありました。イエスは王の王、主の主ですから、王宮から、その王座から人々に、ご自分の支配を宣言して当然でした。しかし、イエスはその王座から降りて民衆の中に入ってこられました。野外がイエスの王宮であり、山の上にあった石がその玉座でした。人々はイエスの貧しい姿を見て、イエスを軽く見、蔑み、退けました。しかし、イエスのその貧しいお姿にこそ、私たちの救いがあります。イエスは私たちの貧しさを、悲しみを、弱さをすべて体験し、人々の不正な取り扱いに耐えられました。そして、そのことによって、神の国の宝を、その慰めを、その力を、そしてその義を私たちに与えてくださったのです。

 今朝、この礼拝で、「あなたはさいわい!」と宣言してくださるお方の声を聞きましょう。神の国の王イエス・キリストを私たちの心に、生活に、人生に迎え入れましょう。そのとき、私たちのうちに神の国がやってきます。イエスが宣言された祝福を自分のものとすることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子イエスによって、私たちに「祝福」を宣言してくださいました。自分の心の声にしか聞かないとき、私たちは自分に与えられている「幸い」に気付かず、自分の不幸を嘆くだけで終わってしまいます。主イエスの祝福の宣言を、日々に、また、この礼拝で聞くことができるよう、私たちの心の耳を開いてください。主が「あなたはさいわい!」と宣言してくださったお言葉に、「わたしは、あなたにあって、さいわいです」と答え、あなたの祝福の中に生きる私たちとしてしてください。私たちを富ませ、慰め、力づけ、満たしてくださるイエス・キリストのお名前で祈ります。

2/16/2014