神のみを拝せよ

マタイ4:8-11

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4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
4:11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

 しばらくの間、イエスが荒野で受けた誘惑について学んできました。私は、この箇所を読むたびに、ヘンリ・ナウエンが書いた "In the Name of Jesus" という本を思い起こします。ナウエンは、イエスが荒野で受けた三つの誘惑と、復活の後、イエスがペテロに与えた三つの言葉とを関連づけてこの本を書いています。

 イエスは復活の後、ペテロたちがガリラヤ湖で漁をしているところに現れ、ご自分が生きておられることを示されました(ヨハネ21章)。その時、イエスは、ペテロに「あなたはわたしを愛するか」と尋ね、「わたしの羊を養いなさい」と命じられました。それから「他の人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」とも言われました。ナウエンはイエスが受けた第一の誘惑、「石がパンになるように命じてごらんなさい」と「あなたはわたしを愛するか」という言葉を、また、第二の誘惑、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい」と「わたしの羊を養いなさい」という言葉、第三の誘惑、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」と「誰かがあなたを連れていく」を結びつけています。これらはどう結びつくのでしょうか。

 一、日常から祈りへ

 ナウエンは第一の誘惑に関する部分に "From Relevant to Prayer"(日常的であることから祈りへ)というタイトルをつけています。"relevant" というのは、生活に関連があるという意味の言葉です。第一の誘惑は、「石をパンに変える」ようにということでした。パン、つまり食糧の問題ほど "relevant" なものはありませんから、目の前の生活の必要をなによりも第一にするようにという誘惑です。

 イエスはその誘惑を斥けましたが、では、イエスは "relevant" ではなかったのでしょうか。いいえ、イエスの教えはどれも、"relevant" なものでした。イエスは人々の日常に密着したことを語られました。金持ちのことから始まって、物乞いのことまで、また、王宮の生活、漁師の生活、農夫の生活、羊飼いの生活などを生き生きと語りました。イエスは女性のことも忘れていません。挽臼で粉を挽きパン種を入れてそれを焼く女性たち、古い着物から切り取って新しい着物に継を当てる女性たち、それに頼るところのないやもめの姿をも見事に描いています。イエスの話を聞く人たちはみな、それが自分たちのことを指していることが分かりました。

 しかし、イエスの教えは決して日常のことだけで終わってはいません。いつの時代も、どこの国でも、人々は何を食べようか、何を着ようかと心配してきました。皆、食べ物を得るために必死で働いています。では、イエスは金持ちになってご馳走を食べ、きれいな服を着て過ごす方法を伝授したのでしょうか。いいえ、むしろ、こう教えられました。

だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。(マタイ6:31ー33)
イエスは人々の目を、目先の必要から、その必要を満たしてくださる父なる神へと向け、神の国を指し示されたのです。イエスは目に見える必要を満たす前に、人間にとってもっと根本的な必要を与えようとされ、人々に神の国と神の義を求めて生きるように教えられたのです。

 日常のことは大切です。軽く見て良いものではありません。しかし、それが神を見えなくさせるなら、警戒しなければなりません。食べるもの、着るもの、住むところ、車、保険、子どもの教育、自分の仕事のことなど、どれも生きていくのに大切なことです。しかし、実は、私たちが生きているのは、神の力によることを忘れてはいけません。私たちは「生きている」と言いますが、ほんとうは「生かされている」のです。そのことを考えず、私を生かしてくださっている神への感謝を忘れると、必要以上の財産を築こうとしてあくせくし、そのため自分をすり減らしてしまいます。必要を満たしてくださる神への信頼を忘れてしまうと、生活の労苦に思いわずらって、それに押しつぶされてしまいます。

 クリスチャンは日常をおろそかにはしません。しかし、日常を生きる中で、いつも「あなたはわたしを愛するか」というイエスの問いを考えます。台所に立つときも、家の掃除をするときも、あるいは難しい仕事に取り組むときも、神がどんなに私たちを愛しておられるかを考えます。何をするにも、神を愛するゆえにそのことをするよう務めます。決して「神の国とその義」を忘れない。それが「日常から祈りへ」ということなのです。

 二、有名になることから仕えることへ

 第二の誘惑についての部分には、"From Popularity to Ministry"(有名になることから仕えることへ)というタイトルがつけられています。第二の誘惑は、神殿の頂から飛び降りることでした。そこから飛び降りても、天使たちがやってきてイエスを支え、無事に神殿の庭にイエスが降り立ったら、そして「私こそ、神の子、救い主だ」と宣言したら、イエスはたちまち人々の心をつかむことが出来たでしょう。皆がイエスの前にひれ伏し、イエスに従ったでしょう。しかし、イエスは、そのように自分を見せびらかすことをなさいませんでした。むしろ、そういったこと避け、隠れたところで人々のために祈りました。イエスが奇蹟をなさったのは自分を見せるためでも、人々の人気を獲得するためでもなく、ただ人々へのあわれみのゆえでした。そのことは福音書を読めばよく分かります。

 私たちは誰も、自分が誰かの役に立っているということを喜びに感じて生きています。親から、配偶者から、子どもから、上司から、同僚からそれを認めてもらいたいと思っています。人に認めてもらいたいと思うことは間違ったことではありません。しかし、その思いが満たされないため、何か突飛なことをして自分に注目を集めようとするのは誉められたことではありません。日本の小学校で子どもたちに、「どんな人になりたいか」と聞いたところ、「勉強が出来ること」や「スポーツが出来ること」ではなく、「人気者になること」という答えが一番多かったそうです。そのために授業中にふざけてみせたり、突拍子もないことをしたりしてもかまわないと考えています。「目立ちたかったから」という動機で犯罪を犯す人もいます。人の注目が欲しいために自分の人生を棒にふってしまうというのは、なんとも残念なことです。そんな人々に、いつも私たちを見ていてくださる、イエスの眼差しを教えてあげたいと思います。

 人間は衣食が足り、危険から守られていればそれで生きていけるという存在ではありません。ほんとうに人を生かしているのは、もっと内面的なものです。人は、動物とは違って、生きていることの意味や目的が必要なのです。旧約で「たましい」や「霊」と訳されている言葉「ネフェシュ」はもともと「喉」という意味があり、日本語でも「喉が渇く」というように、人のたましいはいつも「渇いて」います。自分の存在の意味を求めているのです。そして、その渇きは人々の注目を浴びることや有名になることによっていやされるものではありません。アウグスティヌスが言ったように、人は神によって造られたゆえに、人には神によってしか埋め合わせることのできない空洞があるのです。それを満たすことができるのは神だけです。「自分は誰からも愛されていない。生きていてもしょうがない」といって自殺を図った青年が、一命をとりとめたあと、イエス・キリストを信じる信仰に導かれました。この人は「私を生かしてくださっている神を信じたとき、私は生きていていいんだということが本当に分かりました」と話していました。人の注目ではなく、神の御顔を、そのまなざしを求めるとき、人は生きる力を与えられるのです。

 ペテロは、イエスが十字架にかかられる前、人々を恐れて「私はイエスなんか知らない」と言いました。ペテロは、イエスから「おまえは、失敗した。もうおまえは要らない」と言われてもしかたがないと思っていたでしょう。しかし、イエスはそうはおっしゃいませんでした。「ペテロ、わたしはおまえが必要だ。おまえにわたしの羊を養う務めを与える」とおっしゃいました。弱さのゆえに罪を犯したペテロでしたが、ペテロはその罪を赦されたばかりか、イエスから、「おまえに、わたしの羊の群、教会を任せる」という信頼の言葉を聞いたのです。私たちが神に出会い、キリストに結ばれるとき、ペテロに起こったのと同じことが私たちにも起こります。私たちがイエス・キリストに信頼する時、イエスも私たちをも信頼して、イエスのミニストリーを任せてくださるのです。私たちは「有名になることから仕えることへ」と導かれ、生きる意味、人生の目的をつかみとるのです。

 三、導くことから導かれることへ

 ヘンリ・ナウエンは、第三の誘惑を扱った部分に "From Leading to Being Led"(導くことから導かれることへ)というタイトルをつけました。第三の誘惑で、イエスは「この世のすべての国々とその栄華」を見ました。そして、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」という誘惑の声を聞きました。これは、この世の力を手に入れて、世界に君臨するようにという誘惑です。

 イエスは神の国を打ち立てるためにおいでになりました。神の国は、人々がイエス・キリストを信じ、神に信頼し、互いに愛しあい、平和のうちに生きることによって、世界に広まっていきます。しかし、それには時間がかかります。世界中の人々が神の国の福音を聞き、悔い改めて、それを受け入れるというのは、一挙にできることではありません。そんなことよりも、この世の力を手に入れ、世界を支配したほうが早いのではないか。神のしもべとなって「神の国」を来たらせるなどという流暢なことではなく、この世の力と手を組んで、もっと手っ取り早く「イエスの国」を作ったらどうかというのが、第三の誘惑です。

 イエスはこれに対して「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」と言われました。「サタン」というのは「敵」という意味です。この世の力は、イエスに対してとても「協力的」に見えます。「これらのものを皆あなたにあげましょう」と言っています。しかし、それによってもたらされるのは、神の国に似てはいても違うものです。イエスはこの世の力が、味方のようにして近づいてきても、それが敵であることを見抜いておられました。

 イエスは、「サタンよ、退け」という言葉をもう一度使っておられます。マタイ16:23でペテロに「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。イエスがご自分の死を予告なさったとき、ペテロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言って、イエスをいさめ始めました。ペテロはイエスのことを心配してそう言ったのですが、イエスはそれを斥けました。ペテロは「神のことを思わないで、人のことを思って」いたからです。イエスにとって十字架の道こそ、神の道であり、それは人の善意によっても妨げられてはならないものでした。もちろん、神のことを思い、神のことを第一することは、人のことはどうなっても良いということではありません。神を第一にすることによって、ほんとうに他の人を大切にすることができます。第三の誘惑のことは、私たちに神を第一に思い、そのことによって人のことを本当に大切に思う、そんな歩みを教えてくださったのです。

 ナウエンは、イエスが受けた誘惑について、それは私たちを「日常から祈りへ」、「有名になることから仕えることへ」、「導くことから導かれることへ」招くものであると書いていますが、それは、ナウエン自身の身の上に起こったことでした。ナウエンはイエールやハーバードで教えるという、この世的には輝かしい経歴を持つ学者であり、とても有名な著作家でした。しかし、彼はそれらを捨てて、カナダにある「ラルシュ」という、知的な障がいのある人たちのコミュニティに行き、そこのチャプレンとして働きました。そこでは、ナウェン博士も彼らの仲間のひとり、「ヘンリ」でしかありません。ナウエンの名声も、業績も、そこにいる人たちには通用しません。ナウエンはそうした新しい世界で本物の自分を発見し、イエスが会われた誘惑と同じ誘惑に縛られていた自分を見出したのです。

 「イエスの御名によって」という本は、ナウエンがワシントン D.C. での大きなカンファレンスで語った講演をまとめたものです。そのとき、ラルシュの住人のひとりビルが「ヘンリ、ワシントンに行くんだって? ぼくを連れて行って! いっしょにやろうよ」とせがみました。カンファレンスが始まるとビルも壇上に上りました。ビルは読み終わったナウエンの講演の原稿を一ページづつ、講壇から側においた小さなテーブルに裏返しにしていきました。講演の途中で「ヘンリ、その話、聞いたことあるよ」などと言うこともありました。しかし、それがカンファレンスの雰囲気をやわらげました。講演が終わって、聴衆が立ち上がってナウエンに拍手を送ったとき、ビルが言いました。「ぼくが挨拶したい。」ナウエンは内心ハラハラしましたが、ビルは言いました。「皆さん、お座りください。ビルが皆さんにご挨拶申し上げます。ヘンリがボストンに行ったときはジョンを連れて行きました。今回は、ぼくに一緒にワシントンに行こうと言ってくれました。それでここに来れて、とてもうれしく思います。ありがとうございました。」皆は再び立ち上がって、ビルに拍手を送りました。

 帰りの飛行機の中で、ビルが言いました。「ぼくたち一緒に講演をしたんだよね。」ナウエンはその言葉を聞いて、イエスが弟子たちを二人づつ遣わし、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と言われたことを思い起こしました。ナウエンは「イエスの御名によって」働くことがどういうことかをさらに深く理解したと書いてこの本を締めくくっています。この本の書名は、この本の最後の言葉から取られたわけです。

 イエスの荒野での誘惑は、私たちに誘惑に警戒するように、それに打ち勝つように教えています。しかし、それだけではなく、ヘンリ・ナウエンが体験したように、それは、神を求め、神に仕え、神のために生きる、さらに真実な生き方への招きでもあるのです。誘惑という、私たちをマイナスに引きこもうとするものに打ち勝つためには、神に信頼し、キリストに従って生きるようにとの、神のプラスへの招きに応えることが必要です。この招きにこたえることができるため、私たちには神の言葉が、イエスの御名が備えられています。神のみを礼拝し、仕える道を歩み続けましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスは誘惑に勝ち、あなたに信頼し、あなたに従う道を歩まれました。私たちも、誘惑を避けるだけでとどまらず、あなたを求め、あなたに仕える道を歩むことができますよう、導き、助けてください。主なるあなたのみをあがめることの喜び、あなたに仕えることの力を私たちに教えてください。私たちの力と慰めのみなもと、主イエスの御名によって祈ります。

2/9/2014