神を試みてはならない

マタイ4:5-7

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4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。

 イエスはバプテスマのあと、荒野で三つの誘惑を受けました。第一は「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(3節)、第二は「もしあなたが神の子であるなら、(神殿の頂きから)下へ飛びおりてごらんなさい」(5節)、そして第三は「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」(8節)というものでした。

 一、神の言葉による誘惑

 イエスは、第一の誘惑に答えるのに、聖書の言葉を使いました。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」というわけです。すると、第二の誘惑では、サタンも聖書の言葉を使ってイエスに挑戦してきました。それは詩篇91篇から取られたものでした。詩篇91篇は神に信頼する者が、神によって守られるということを歌っています。詩篇91:9−13にこう書かれています。

あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で
あなたを守らせられるからである。
彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。

 サタンは詩篇91篇の中から「これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする」という部分を使いました。しかし、その中の「あなたの歩むすべての道で」という部分を省略しています。聖書では「歩み」や「道」は日常の生活や信仰の道、つまり、信仰生活を意味します。この詩篇が言っているのは、神に従って正しく歩む者に対する神の守りのことです。神殿の頂から飛び降りても、空中で支えられるなどとは書かれていません。「すべての道で」守られるのであり、「空中で」守られるとは書かれていません。確かに神殿の頂きに立ち、そこから飛び降りて空中を泳ぐように飛んだら、見事なパフォーマンスになります。しかし、イエスが神の子、救い主であることはそんなパフォーマンスによって示されるべきものではありません。サタンは、聖書を使っています。しかし、そこで語られている大切な部分を取り除き、その意味を曲げて使っています。それは正しい意味での聖書の「引用」ではなく、自分の目的のための「利用」に過ぎません。「引用」と「利用」とは大違いです。

 サタンは、今も、同じようにして、信仰者を誘惑します。サタンが聖書を良く知っていて、それを使うのを不思議に思ってはなりません。悪事を働く人たちの中でもトップクラスの者たちは法律に精通しています。彼らが法律の勉強に熱心なのは、それを守るためではなく、法律の落とし穴を見つけ、その裏をかくためです。同じように、サタンが聖書に精通しているのは、聖書の言葉を使って信じる者たちを惑わすためです。サタンは聖書が神の言葉であること、神の言葉には力があることを知っています。知っているからこそ、聖書から大切な部分を削ったり、上手に修正したり、余分なものを付け加えたり、それを曲げたりしてその力を失くそうとするのです。

 信仰に敵対する人たちは、かつては、聖書を地上から根絶やしにしようとしました。しかし、できませんでした。人々が命がけて聖書を守ったからです。それで、聖書が的外れな方法で読まれ、曲げて理解されるように仕向けています。ある雑誌にこんな記事がありました。「世の終わりが近づいても、教会に集まる人は減らないだろう。しかし、そこでは聖書がもはや神の言葉として語られることがなく、道徳や教訓、またたんなる文学として語られ、読まれるようになる。聖書をそういうものに変える教会が増え、それを喜ぶ人が多く教会に集まること、それがサタンの策略だ。」私は、それを読んで、そんな現実があるように思いました。人を真理に導く神の言葉が曇らされる、人を生かす命の言葉が曲げられ、それが人を間違った道に導くために利用されるとしたら、それほど残念なことはありません。また、私たちが、神の言葉を真剣に受けとめ、それを熱心に学んでいないために、そんな策略を見抜けず、まんまとその罠に捕まってしまうとしたら、残念なことです。御言葉を与えてくださった神に対して、また、命がけで神の言葉を守ってきた人々に対しても、本当に申し訳のないことと思います。私たちはもっと神の言葉を愛し、神の言葉に親しみ、神の言葉に従っていくものでありたい。そんな決意を新たにしました。

 二、神の言葉による反撃

 この誘惑の本質は「神を試みる」ことです。「神を試みる」というのは、神に、自分の都合のよいように働いてもらうことです。たとえば、「ギャンブルで勝たせてください。そうしたら、神さまを信じましょう」などというようなことです。では、「この病気が即座に治ったらキリストを信じましょう」「この問題がみごとに解決したら、神さまを信じます」というのはどうでしょうか。長年病気で苦しんできた人、大変な問題を抱えている人は、即座にいやされたい、すぐにでも解決して欲しいと願うものです。神に「早くしてください」と願うことは間違ってはいません。しかし、自分の思いどおりになったら「信じます」というのも、やはり「神を試みる」ことになります。「そうなったら信じる」のではなく、病気が癒されるために、問題が解決するために、「そうなるために」「そうなることを」信じること、それが、本当の信仰です。聖書は「信仰」を「望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認すること」(ヘブル11:1)と定義しています。イエスは「見ないで信ずる者はさいわいである」(ヨハネ20:29)と言われました。見ないで信じる者は、やがて、神が与えてくださる祝福を見ることになるからです。神は信じる者の願いを決して無視されません。必ず、最善をもって答えてくださいます。

 「主なるあなたの神を試みてはならない」(申命記6:16)という言葉は、モーセがイスラエルの荒野での四十年を振り返って語った言葉です。イスラエルはエジプトで奴隷でしたが、神の大きな力によってそこから救い出されました。神は、エジプトから救い出したイスラエルを荒野に導きました。それは、イスラエルがエジプトの追手から守られるためでした。また、他の民族との戦争に巻き込まれないため、そして、静かな環境の中で神の言葉を聞き、神とまじわり、神を礼拝する民として育てられるためでした。イスラエルは、食べ物や水の乏しい環境に導き入れられましたが、そのことによって、かえって、神の守りと養いを豊かに体験できたのです。ところが、人々は、神の深いみこころを理解せず、食べ物がない、飲む水がないと言っては騒ぎ、「神は自分たちを荒野で死なせるつもりなのか。そうでなければ、今すぐ食べ物を与えろ、水を飲ませろ」と言って、何度も何度も神を試みたのです。

 「神を試みる」という誘惑は、当時のイスラエルの人々だけのものではありません。私たちも、気付いていなくても、毎日、それにさらされています。神への信頼を忘れて右往左往したり、神に不満をぶつけてしまうとき、私たちも同じ誘惑を受けているのです。では、この誘惑にどうやって打ち勝つことができるのでしょうか。それは、イエスがなさったように、神の言葉によってです。サタンは聖書を使って誘惑をしかけてきましたが、イエスもまた神の言葉でそれに反撃されました。神の言葉を間違って使ってきたとき、それをただすことができるのは、やはり、神の言葉です。

 イエスが、誘惑を斥けるとき、「主なるあなたの神を試みてはならない」と言われただけではなく、そのあとに、「…と書いてある」と付け加えられました。なぜでしょうか。それは神の言葉の権威を示すためでした。「…と書いてある」というのは、もとの言葉で過去完了形です。それは書かれたものが効力を持っていることを示しています。ローマ総督がイエスの罪状書きに「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書きました。祭司長たちが「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」と言いましたが、総督は「私の書いたことは私が書いたのです」(新改訳)と答えました(ヨハネ19:20-22)。総督が書いたことでさえ、それを変更してはならないほどに権威があるのなら、まして、神が書かれたことにはもっと大きな権威があります。私たちは、この権威ある神の言葉によって正しい道を進んでいくことができるのです。

 また、イエスが「…と書いてある」と付け加えられたのは、私たちのためでした。私たちは、誘惑に会う時、自分では、それに立ち向かう言葉を持っていません。誘惑がやってくるとき、それに立ち向かう言葉よりも、言い訳けの言葉のほうが先に出てくるものです。「みんながしていることだから…」「誰の迷惑にもなることではないから…」「少々の息抜きが必要だから…」「人間はみな弱く、罪深いのだから…」などといった「言い訳け」です。私たちが道をそれていくときには決まっていろんな「言い訳」があるものです。「敗北への道は言い訳で舗装されている」という言葉があるほどです。ですから、私たちには「…と書いてある」と言われている、客観的な神の言葉が必要なのです。誘惑で心が揺れるとき、迷うとき、拠り所になるのは自分の考えでも、人の意見でもありません。神の言葉です。「…と書いてある。」聖書にはっきりと記されている神の言葉を、私たちの心にも書き記し、それを口に出し、それに従って道を進むのです。その時、神は、私たちが歩むすべての道で私たちを守り、支え、その足が石に打ちつけられることがないようにしてくださいます。つまり、誘惑やつまづきから守ってくださるのです。そのことを信じて、この週も一歩を踏み出しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたのお言葉がどんなに力があるかを教えてくださり、感謝します。私たちが、あなたに対して勝手気ままな思いを抱いて、あなたを試みようなことがありませんよう、私たちをお守りください。そのために、あなたの力ある言葉に信頼し、それに従うことができますように。あなたは御言葉によって私たちを守ってくださいます。あなたの守りがどんな誘惑よりも力強いことを、私たちの信仰の歩みの中で体験させてください。主イエスのお名前で祈ります。

2/2/2014