4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
一、神の守り
「神の守り」、それは誰もが祈り、願っていることです。一日のはじめに私たちは、今日も健康が守られますように、仕事が守られますように、家族が守られますように、社会や国が守られますようにと祈ります。車を運転する前には事故から守られますようにと祈ります。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」(詩篇127:1)とあるように、私たちは、どんなに万全を尽くしても、それで完全にあらゆる災いから自分を守ることができませんから、大きなことであっても、小さなことであっても、神の守りを願うのです。そして、神は、そのように神に頼る者を守ってくださるのです。
詩篇121篇にはこの神の守りが美しく歌われています。聖書を開くことができましたら、一緒に声を出して読んでみましょう。
私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。聖書は「あなたを守る方は、…まどろむこともなく、眠ることもない。」と言っています。警察、消防、救急の人々は、私たちが眠っている真夜中にも、私たちの命を守るために働いてくれています。それと同じように、いやそれ以上に、神は一日24時間、一週七日、休むことなく、私たちを守っていてくださるのです。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。
昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。
イザヤ41:10には、神の守りが力強く宣言されています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」とあります。「右手」というのは、神の全能の力を意味します。神は実に大きな力を持っておられるのですから、小指を動かすだけでも、十分に人を守ることができるはずです。けれども、神を信頼する者を守るときには、小指だけで十分であっても、その右手全部を使ってくださるのです。神は全能の力のすべてを使って人々を守ってくださるのです。神は何事をなさるのも真剣に、力の限りを尽くして行われます。決して手抜きをなさらないのです。人間に「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:5)と命じられたお方が、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」人間を愛してくださらない、守ってくださらないわけがないのです。神は真実です。「主は、あなたを守る方」です。
二、みことばによる守り
神が、私たちを悪から守ってくださるというのは、私たちがまったく悪から匿われるということではありません。悪そのものが無くなるのは、世の終わりまで待たなくてはなりませんから、世に生きる限り、私たちは様々な悪に遭遇し、苦しみを味わうことでしょう。しかし、神はその中で私たちを守ってくださるのです。私たちにできる最善なことは、自分のほうから悪の誘惑に乗って、自分のうちに悪を呼び込まないということです。もし、私たちの内側に罪がなければ、外側の悪はやすやすと、私たちの心に入ってはきません。「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。」(ヤコブ1:13-14)とある通りです。「主の祈り」で、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と祈るのは、「やすやすと誘惑に乗ることがないように、私の心をきよめてください。」と願うことでもあるのです。
「誘惑」は誰が見ても間違ったことや悪であると分かるようにして来るとはかぎりません。むしろ、良いことのようにしてやってくるほうが多いでしょう。イエスが受けた誘惑もそうでした。荒野で四十日の断食をし、これからの働きのために備えていたイエスに、サタンが近づいてきました。サタンが最初にイエスに語ったのは「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」(3節)ということばでした。「人々はパンを求めている。空腹が満たされ、必要なものが与えられることを願っている。そのような人に神のことばを与えても意味がない。神のことばよりもパンを与えたらどうだろうか。」と、イエスにアドバイスを与えているのです。サタンは、イエスの働きを妨害し、駄目にするためにやってきたのですが、その意図を隠して、あたかも、イエスに親切な助言を与えるかのようにして、イエスに近づいています。しかし、イエスはサタンの意図を見破り、この誘惑を「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(4節)と言って斥けました。
今日の私たちもイエスと同じ誘惑に遭っています。神のことばを後回しにするという誘惑です。空腹な人にパンを与えることは尊いことです。人にはさまざまな必要があります。食べ物や着る物、住まうところは、命を保つための基本的な必要です。また、誰もが人と人との関わりの中で、自分の使命を見つけ出し、満足を得たいと願っています。教会はそのはじまりから飢えた人に食べ物を与え、裸の人々に着せ、病気の人々を看病するなど、社会的な必要のためにも働いてきました。しかし、第一のこと、なくてならないただひとつのことが、神のことばを人々に与えることであることを忘れませんでした。教会の使命がたましいの飢え渇きを満たすことであることを自覚してきました。人間は肉体を持ったたましいですから、パンも必要です。しかし、人のたましいは「パンだけでは」満たされないのです。内面の糧、神のことばが必要です。人々の表面の欲求を満たすことができても、内面の求めに答えることができないなら、それは神の働きではありません。神のことばを後回しにさせようとする誘惑に対して、私たちも注意しなければなりません。
次に、サタンはイエスを神殿の頂に立たせて、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」(6節)と言いました。イエスが聖書を使ってサタンに答えたので、サタンもまた聖書のことばを使って、「あなたが神と神のことばに信頼しているというのなら、ここから飛び降りて、その信仰を見せてもらいたいものだ。」と挑戦してきたのです。サタンは聖書を引用してはいますが、それは正しい解釈に基づいてはいません。ここで使われている詩篇91:11が教えているのは、人は神に従って歩むとき神の守りを得ることができるということであって、神殿の頂から飛び降りるなどといったとんでもないことを推奨しているのではないからです。私たちも、聖書のことばが使われ、「信仰が足りない。」「愛がない。」などと責められ、言葉巧みに語られると、それに答えるすべがなくて、本当は聖書の教えではない、間違ったものに引っ張られていくことがあります。ですから、教会で正しい教えを聞き、それに養われていることが大切なのです。イエスはサタンの誘惑を「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」(7節)と言って斥けました。
最後にサタンは、この世のすべての国々とその栄華を見せ、イエスに「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(9節)と言いました。最初はアドバイザーとして、次には、信仰のチャレンジャーとしてイエスに接したサタンでしたが、こんどは、パートナーとして、イエスに接しています。サタンはイエスに彼と手を組んで、この世を治めようと、イエスとのジョイント・ベンチャーを提供してきたのです。しかし、イエスはこれに対してきっぱりと答えました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」(10節)イエスは真理と偽り、光と闇、善と悪とを混ぜてしまう妥協の道を拒否されました。
イエスは、サタンの誘惑をすべて、「…と書いてある。」と言って斥けておられます。神のことばによって、サタンに勝利されたのです。詩篇18:21に「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった。」とあり、詩篇119:115には「悪を行なう者どもよ。私から離れて行け。私は、わが神の仰せを守る。」とあります。ある人の聖書の表紙の裏に「これを守れ。そうすれば、これがあなたを守る。」と書かれているのを見たことがあります。そうです。神のことばを守る者が、神の守りを受けることができるのです。教会で神のことばを学び、それを心に宿し、それに養われ、それを守り、それに守られる私たちでありたいと願います。
三、祈りによる守り
私たちを誘惑から守るもの、それは神のことばと、もうひとつ、「祈り」です。イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:41)と言われました。マルコ14:38では「祈り続けなさい。」と訳されています。祈り、祈り続けること以外に誘惑から守られる道はありません。「主の祈り」では「日ごとの糧をきょうもお与えください。」と祈りますから、「主の祈り」は日々に繰り返す祈りです。ですから、「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」との祈りも日々の祈りです。誘惑は毎日、瞬間、瞬間にありますから、祈り続けることが必要なのです。
また、「主の祈り」は祈りの初心者からベテランまで、すべての人の祈りです。「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」との祈りもすべての人の祈りであるべきです。「誘惑」は誰にでも来ます。長年の信仰生活をして来た人には誘惑はやってこない、聖霊に満たされるような霊的な体験をしたら、誘惑から無縁になるというのではありません。イエスが誘惑を受けたのは、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊に満たされた後でした。霊的に恵まれたときほど目を覚ましていなければなりません。私たちが真理に目覚めようとするとき、サタンは激しく妨害してくるからです。「私は誘惑に乗るほど弱くはない。」と言うことができる人は誰ひとりいないはずです。ですから、私たちは、謙遜になり、自分の弱さを認めて、神の助けを呼び求めていきたいと思います。
そして、そう祈るとき、イエスもまた、私たちを同じように誘惑を受け、試練を受けたお方であることを覚えましょう。ヘブル4:14-16にこう書かれています。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」イエスが荒野で誘惑を受けたのは、私たちのためであり、私たちに代わってでした。アダムとエバはエデンの園でサタンの誘惑に負けましたが、イエスはそれに打ち勝たれました。そのことによって、人類の失敗をぬぐい、人間がもういちど神に立ち返り、やり直すことができる道、イエスとともに誘惑に打ち勝つ道を開いてくださったのです。
イエスが捕まえられ、大祭司のところに連れていかれたとき、ペテロは、三度も「イエスを知らない」と言って否定しました。ペテロは、イエスへの信仰と愛とを貫き通すことができませんでした。しかし、ペテロはそこから立ち直り、ペテロ(「岩」)という名のとおり、教会のいしずえとなりました。それはペテロの深い悔い改めによるものでしたが、その背後にはイエスの祈りがありました。ペテロがイエスを否むことを予告されたとき、イエスはペテロに言われました。「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:31-32)このイエスの祈りがペテロを立ち直らせたのです。
イエスはまた、弟子たちのために、父なる神にこう祈られました。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。」(ヨハネ17:14-15)イエスは今もこの祈りを天で祈ってくださっています。ペテロのために祈られた主は、私のためにも、あなたのために祈っていてくださいます。以前も話しましたが、「主の祈り」は「主が私たちに与えた祈り」というばかりでなく、「主ご自身が祈られた祈り」でもあるのです。主イエスは決して誘惑におちいるようなお方ではありませんが、簡単に誘惑に陥ってしまう私たちの弱さを知っておられます。そして、私たちのために祈り、私たちとともに「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と祈ってくださるのです。ですから、私たちは「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と祈るのです。
私たちはみな、神の守りを疑わせようとするさまざまな誘惑に遭います。しかし、私たちは、みことばと祈りによって、さまざまな誘惑から守られてきました。そして、「主は私を守る方」という信仰の確信をいただいてきました。信仰の先輩がたはそれを体験してきたことでしょう。「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。」と祈る祈りによって、「主は、私を守る方」という確信をますます強くしていただこうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、この世は誘惑で満ちています。思わぬところに落とし穴があります。私たちの目には良いと思えること、私たちの考えではすばらしいと思えることによっても、それによってあなたのみわざが壊され、私たちの信仰がだめになってしまうことがいくらでもあります。サタンは巧妙です。私たちがサタンよりも賢くはなく、その策略を見抜くことができないことを自覚させてください。そして、みことばによって心を照らされて、サタンの誘惑に勝つことができるようにしてください。祈りによって、誘惑を斥ける力を受けとることができるようにしてください。信仰の戦いをみことばと祈りによって最後まで戦い抜き、永遠のいのちにいたることができますように。主イエスのお名前で祈ります。
3/21/2010