4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
あるジャムの会社が、売上を伸ばすために、「人はパンだけで生きるものではない」とジャムのパッケージに書いたそうです。「パンだけでなく、わが社のジャムもつけてお召し上がりください」というわけです。「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、もちろん、そんな意味ではありませんが、この言葉は多くの人に知られているので、宣伝効果は抜群だったそうです。皆さんも、聖書を読む前から「人はパンだけで生きるものではない」という言葉を、どこかで耳にしたことがあると思います。有名な言葉だけに、この言葉が聖書の言葉であり、イエスが語られたものであることが忘れられ、違った意味で解釈されるようになってしまいました。この言葉を誤解したままでいるのは良くないことですので、もう一度、聖書に帰って、その文脈の中で正しい意味を考えてみることにしましょう。
一、自分を第一にする誘惑
イエスが荒野での四十日の断食を終えられたとき、試みる者がやってきて、こう言いました。「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。」(3節)イエスが断食して祈った荒野には、食べ物になるようなものが何もありませんでした。まわりは石ころだらけでした。四十日の断食のあとには、その石がパンに見えるほどの空腹をイエスは感じていたでしょう。実際、飢えで苦しんでいる地域では、人々は石を口に入れてそれをなめ、飢えの苦しみを紛らわせるということを聞いたことがあります。その石をパンに変えて食べることができたらどんなにいいでしょうか。イエスは神の子で、大きな力を持っていますから、それができました。しかし、イエスはそうされませんでした。なぜでしょうか。
その第一の理由は、神の子としての力をご自分のために使うことを拒否されたからです。イエスへの誘惑は「もしあなたが神の子であるなら」という言葉で始まっています。「あなたは神の子で、大きな力を神から与えられている。何でもできるのだから、それを使って、自分の空腹を満たしたらどうだ」というわけです。しかし、イエスはご自分の神の子としての力をご自分のために使うことを、きっぱりと拒否されました。
イエスのご生涯を見るとき、イエスは神の子としてのお力をご自分のためには決してお使いにならなかったことが分かります。イエスは水をぶどう酒に変え、少年が持っていたわずかなパンを五千人が食べて満腹するほどに増やしました。しかし、そうした奇蹟はご自分がぶどう酒を楽しみ、たくさんのパンを食べて満足するためではありませんでした。人々が困っているのを救い、その必要を満たすためでした。イエスはあらゆる病気の人をいやされました。しかし、ご自分は疲れ切って、船の中で眠ってしまわれるほどでした。イエスは、神の子としての力で、ご自分が疲れることのないようにすることができましたが、決してそうされませんでした。
ゲッセマネの園で、弟子のひとりがイエスを捕まえに来た者の片耳を切り落としたとき、イエスは言われました。
「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。」(マタイ26:52-54)この言葉のとおり、イエスは、天使たちの軍勢を呼び、ご自分を守ることができました。しかし、イエスは、神の子としての特権を、ご自分を守るためには、一切お使いになりませんでした。ご自分を守るためではなく、弟子たちを守るために、自ら進んで、捕まえにきた者たちの縄に縛られたのです。
イエスは病気の人をいやしただけでなく、死んだ者たちをも生き返らせる力を持っておられました。それで、「イエスは死んでも生き返ることを知っていたので、十字架の死を恐れなかったのだ」と、ある人たちは言うのですが、それは的を得ていません。イエスが自らの力で復活されたとは、聖書のどこにも書いてありません。聖書で「復活する」という言葉は "be raised" で受け身の形が使われています。聖書に「神がイエスを死人の中からよみがえらせた」という言葉が20回以上も出てくるように、イエスを復活させたのは父なる神です。イエスはご自分の命を全く、父なる神にお任せになっておられました。
一般社会では、権力を与えられた人は、たいてい、それを自分のために使います。かつての政治家は私財をつぎ込んで人々のために働きましたが、今は、職権を利用して財産を貯め、それを外国の銀行に預けて人に知られないようにするといったことが行われています。こういうのを「私腹を肥やす」と言うのですが、イエスは神の子としてのお力を自分の腹を満たすためではなく、人々の必要を満たすためだけにしかお使いになりませんでした。
現代は、「自己愛」が堂々と主張され、「ミーイズム」が大手を振って歩いている時代です。「私は自由。したいことをして何が悪い」と開き直っている人たちで一杯です。イエスが教えられたように、家庭でも、職場でも、相手の立場に立って考え、互いに仕え合って生きることの難しい時代です。だからこそ、イエスが弟子たちに言われた言葉をしっかり心に留めていたいと思います。イエスはこう言われました。
「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」(マタイ20:25-28)イエスは、最後まで人々に仕え、徹底して人々のしもべとなりきることによって、人々を救ってくださいました。教会も、個々のクリスチャンも、このイエスの足跡に従うとき、人々の救いのために役立つものとなるのです。
二、神の言葉を第一にしない誘惑
イエスがパンを石に変えることを拒否なさった第二の理由は、イエスが神の言葉を宣べ伝え、それを教える働きを第一になさろうとしておられたからです。昔も今も、人は物質的に豊かになれば幸せになり、互いに争うことなく、世界は平和になると信じられてきました。しかし、実際はそうではなく、人は富を得ればもっと欲しくなり、他の人のものまで奪い取ろうとするのです。物質的には何不自由なく暮らしていても、生きる意味が、人生の目的がわからないで、毎日を虚しく生きている人がなんと多いことでしょう。すべてが備えられているのに、明日を思い煩い、不安や恐れの中に生きている人も数えきれないほどいます。人のたましいにはパンだけでは満たされないものがあるのです。毎日を忙しく過ごしている人の中には、そうすることによって、人生の意味を、目的を、平安を求めるたましいの叫びをごまかしたり、抑えこんだりしている人も多くあります。
人のたましいの奥深いところにある求めは、神の言葉によってしか満たされることはありません。ほんとうの意味で人を生かすものは、神の命の言葉です。そのことはイエスを試みたサタンも良く知っていました。ですから、サタンはイエスを、神の言葉の宣教の働きから遠ざけようとしたのです。「イエスよ、あなたはこれから神の言葉を伝えようとしているが、世には、その日食べる物も十分にない飢えた人で満ちているではないか。まず、彼らにパンを与えるのが、あなたの仕事ではないのか。それに、神の言葉を求める人は少ない。あなたがどんなことを語っても、人は耳を傾けないだろう。けれども、パンを与えてごらん。人々は皆、あなたのあとをついて来るようになる。」サタンは、そう言いたかったのではないかと思います。
イエスは、それに対して、ご自分の働きのプライオリティは、神の言葉を分け与えることであって、たとえそれが人気のない仕事であっても、それがご自分の使命であると答えられました。もちろん、イエスは飢えた人が空腹のままで良いとされたのではありません。イエスは飢えた人にパンをお与えになりましたし、初代教会も、貧しい人々のための食事会をしました。今日も、教会はホームレスの人たちのために炊き出しをしたり、困っている人たちを暖かいスープでもてなす、スープ・サパーというプログラムも行っています。私がアメリカで最初に働いた教会では、政府の援助を受けて、家に引きこもりがちな高齢の人たちのための昼食会をしていました。その人たちは食べ物がないわけではありませんが、いっしょに食べてくれる人がいないのです。私の仕事は、会場をセットアップすることと皆さんと一緒に食べることだけでしたが、それでも皆さんに喜んでいただきました。
アメリカに Food for the Hungry という団体があります。この団体のリサーチによると、世界規模で見たとき、死亡原因の第一位は、ガンでも心臓病でもなく、飢餓だというのです。5歳の誕生日を迎えずに、慢性的な栄養失調で亡くなっていくこどもが年間一千万人近くいます。豊かなアメリカにいると信じられないかもしれませんが、世界人口70億のうち10億人、7人にひとりが飢餓で苦しんでいます。では、この地球には、そうした人々を養う食べ物がないのでしょうか。いいえ、十分な食べ物があるのです。ただそれが偏っていて、必要な人に届けられないだけなのです。アメリカではグロッサリーストアがひとつの町に何軒もあり、そこにはその町の人々の胃袋を満たしてあまりあるほどの食料があります。グロッサリーストアは販売期限が切れた食べ物や薬を処分するのですが、一軒のグロッサリーストアが処分するものだけでも、飢餓に苦しみ、薬すらない小さな村全体を救うことができると言われています。
こうした矛盾に取り組んできたのは、神の言葉によって生まれ変わり、命の言葉によって生かされてきたクリスチャンでした。神の言葉が宣べ伝えられるとき、それはパンの問題をも解決する力になるのです。ですから、教会はいつの時代も、宣教を強調し、それを第一にしてきたのです。
私がカリフォルニアで奉仕した教会は、戦前に創設された長い歴史のある教会でした。そこには戦前の資料が残っていて、それを見ると教会の集会といえば、火曜日が旧約聖書研究、水曜日が祈り会、木曜日が新約聖書研究、金曜日が徹夜祈祷会などと、どれも聖書を学び、祈るものばかりでした。今では、教会で英語や日本語のクラス、料理、書道、お茶、お花、キルティング、手芸、それにエアロビクスなど、ありとあらゆるものが行われるようになりました。どれも、伝道のために行われていて、良いこと、大切なこと、必要なものです。しかし、「良いこと、大切なこと、必要なこと」が「一番良いこと、最も大切なこと、何よりも必要なもの」を妨げてしまうことがありますので、注意が必要です。教会では聖書の学びと祈りだけがあれば良いと言っているのではありません。しかし、神の言葉と祈りが、どんな場合も第一でなければ、他のものが生かされなくなります。神の言葉と祈りが第一のものになっていないため、今日のクリスチャンが、かつてのクリスチャンにくらべて、霊的に養われることが乏しく、そのために信仰的に弱くなっているとしたら、残念なことです。ある人がこう話してくれました。「神さまのことも、神さまの言葉も良く分からないままで、ほんとうに神さまのところに行くことができるのか心配です。すこしも信仰が成長しないまま一生を終わってしまっていけないと思っています。」考ええさせられる言葉です。
クリスチャンは、ギャンブルに手を出したり、悪い遊びをしたりといったことはしません。真面目に働き、良く勉強し、健全な趣味を楽しんでいます。教会の奉仕にも一所懸命です。しかし、そうした「良い」ことが、神の言葉を聞くという「一番良いこと」を忘れさせることがあります。神の言葉を聞くことなしに、どうして神の命の言葉を人々に語ることができるでしょうか。「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである」(ペテロ第一2:2)との言葉が心に響いてきます。
自分を第一にする誘惑と神の言葉を第一にしない誘惑は、私たちのまわりに満ちています。いいえ、私たちの心の中に、それがあるかもしれません。イエスが「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」とおっしゃって、これらの誘惑を斥けられたように、私たちも、この誘惑に対してきっぱりとした態度で臨みたいと思います。すべての人を生かす真理の言葉に、より親しみ、それによって力づけられていきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、私たちは、パンだけで生きている存在ではありません。人々に本当に必要な命の糧、神の言葉を、私たちが分け与えることができるよう助けてください。そのために、まず、私たちが神の言葉に聴くことができますように。主イエスは神の言葉に聴くことを「無くてならぬもの」(ルカ10:42)とおっしゃいました。私たちも、神の言葉を第一に求めて生きることができますよう導いてください。ご自分を天からの命パンと呼び、私たちを神の言葉によって生かしてくださるイエス・キリストのお名前で祈ります。
1/26/2014