人間をとる漁師

マタイ4:18-32

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4:18 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
4:20 彼らはすぐに網を捨てて従った。
4:21 そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
4:22 彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。

 一、漁師のつとめ

 「救いの聖歌集」というのをご存知ですか。これを知っている人はある程度の年齢の人々だろうと思います。アメリカのサンデースクールで歌われていた歌をまとめた小さな歌集で、日本語と英語の両方の歌詞が載っており、日本の教会学校でひろく使われていました。その中に "I will make you fishers of men." という歌がありました。今朝の聖書の箇所にあるイエスのことば「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」をそのまま歌にしたものです。「人間を漁る漁師」(fishers of men)。なんとなく分かるのですが、正確には何を意味しているのでしょうか。イエスはどういう意味でこのことばを使われたのでしょうか。「人間を漁る漁師」のつとめとは何なのでしょうか。まず、そのことを確かめておきましょう。

 「人間を漁る漁師」ということばはエレミヤ16:16-17から来ています。「見よ。わたしは多くの漁夫をやって、―主の御告げ。―彼らをすなどらせる。その後、わたしは多くの狩人をやって、すべての山、すべての丘、岩の割れ目から彼らをかり出させる。わたしの目は彼らのすべての行ないを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。また、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。」これは罪を犯しながら、「私たちにいったいどんな罪があるのか。」とうそぶいていたユダの人々に対して、神が預言者エレミヤを通して語られたことばです。エレミヤの時代、ユダの国は乱れ、バビロン帝国の餌食になろうとしていました。それは人々が神と神のことばをないがしろにした結果でした。神は何度も悔い改めを促されたのに、人々は「いったい何を悔い改めろというのか。どこに私たちの罪があるのか。」と言って、自分で自分を正しいとしていました。人々は本当には神に信頼していないのに、「エルサレムに神殿があるかぎり、敵は攻めては来ない。」と思い込み、安心しきっていました。しかし神は、悔い改めない者の罪を裁き、偽りの平安を砕かれます。「漁夫をやって…すなどらせる」「狩人をやって、…かり出させる」というのは、どんなに神の目から隠れようとしても無駄である。どこに逃げ隠れようと、そこから引き出されてさばきを受けるということを意味しています。ユダの人々は捕虜となってバビロンに曳かれていくのです。ですから「人間を漁る」というのは、第一には人々に罪を示し、神のさばきを告げるという大変厳しいつとめであることがわかります。

 しかし、エレミヤ書には、神のさばきと同時に神の救いが告げられています。エレミヤ16:14-15にはこう書かれています。「それゆえ、見よ、その日が来る。―主の御告げ。―その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とは言わないで、ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」とあります。神が定めたさばきの期間が終わるとき、バビロンに連れて行かれたユダの人々は、もういちどユダの国に帰ってくるのです。その時にはかつて人々に罪を示し、神のさばきを告げた「漁夫」「狩人」は、こんどは人々を慰め、神の救いを告げるのです。人々がバビロンのどこにいても見つけ出してそこから祖国へと引き戻すのです。「人間を漁る」とは、バビロン、つまり罪の中から人々を救い出し、エルサレム、つまり神の国へと人々を連れていくことでもあるのです。

 神のさばきと神の救いの両方を告げるというのは、イエスご自身がなさったことでした。マタイ4:17に「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」とある通りです。イエスは「天の御国が近づいた。」と言われました。「天の御国」つまり「神の国」が来るというのは喜ばしいことなのですが、それは同時に罪ある人間には恐ろしいことです。「神の国」とはきよく、正しい神がそのきよさと正しさによって世界を治められることだからです。神の国にはどんな不正も、心の汚れも許されません。そんな神の国に大手を振って入れる人など地上には誰ひとりいません。天国の門は小さく、そこに至る道は狭いのです(マタイ7:14)。自分の罪を認めて悔い改めることなしには誰一人天の御国に入ることはできませんから、イエスは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と教えられたのです。

 罪とはあるべき基準からそれてしまっていること、またそこに到達しないことです。私たちがそれぞれ自分を基準にしてものごとを判断している間は、罪がわかりません。私たちは生まれつき「人には厳しく、自分にはやさしく」する性質を持っていますから、他の人には罪があっても自分にはないと考えてしまうのです。あるべき基準が示されなければ、罪は分かりません。それでイエスはマタイ5章から7章に続く「山上の説教」で神の国の基準を示し、私たちの誰もその基準に足らないことを分からせようとしておられます。罪が分からなければ救いも分かりませんから、イエスは私たちを救いにいたる悔い改めに導こうとしておられるのです。

 私は、はじめて行った教会の伝道集会で、「ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。」(エレミヤ17:1)ということばを聞いて悔い改めに導かれました。今年の夏期修養会でも藤本 満先生はクリスチャンの中にひそむ高慢の罪を厳しく指摘しておられました。説教者には社会の罪やクリスチャンの霊的な罪を直接的に責めるつとめが与えられていますが、すべてのクリスチャンが同じようにできるわけではありません。それに、人は罪を責められたからといって悔い改めに導かれるとは限りません。多くの場合、人はより優れたものに触れるとき、へりくだって悔い改めに導かれます。豊かな知識と深い知恵のある人に出会うと、少しばかりの知恵や知識を誇っていた自分が恥ずかしくなるものです。愛の深い人に出会うとき、自分がどんなにちっぽけな人間かを感じます。光が強ければ強いほど影が濃く見えるように、罪は、真理の光に照らされれば照らされるほどはっきりと見えるようになってきます。私たちが真理の光をもっと輝かせるなら、人々は自分たちの罪の影がより分かるようになるでしょう。そして神の愛の光、真理の光に触れて、すすんで悔い改めるようになるのです。クリスチャンみずからが、神の光のもとに歩み、悔い改めて罪のゆるしを得、罪からのきよめに生きるとき、人々に対して光となることができるようになるのです。私たちのほとんどは、そのようにして私に光を与えてくれた人々によって、悔い改めに、また、信仰に導かれてきました。多くの人が光を求めています。光を受けた私たちもまた、他の人々のために光となってイエス・キリストをあかししていきましょう。その光によってひとりでも多くの人が神の国へと導かれていく、そんな「人間を漁る漁師」のつとめを果たしていきたいと思います。

 二、漁師の召命

 次に「漁師の召命」について考えてみましょう。「召命」は英語では "calling" あるいは "vocation" と言います。イエスは最初にガリラヤ湖で網を打っていたペテロとアンデレに「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と声をかけました。すると、ふたりは手に持っていた網を置いてイエスに従いました。続いて、船の中で網を繕っていたヤコブとヨハネにも同じように声をかけると、このふたりも「舟も父も残して」イエスに従いました。ペテロはすでに結婚していましたし、アンデレも独立していました。でも、ヤコブとヨハネはまだ年若く父親のもとで働いていました。それで聖書は「舟も父も残して」と言っているのです。この人たちは、漁師にとって命とも言える網も舟も残してイエスに従いました。「父」ということばに代表される家族親族を離れてイエスについて行きました。ヤコブとヨハネの父は一介の漁師ではなく網元のような存在で、裕福でユダヤの指導者たちとも深いつながりを持っていたと伝えられています。ヤコブとヨハネはそうした父親からのサポートを得てユダヤの社会で楽々と生きことができたのです。しかし、彼らは神の国のために生きることを選びました。夏期修養会のメッセージで藤本 満先生は大学生のとき、仲間が就職活動をしている中で自分ひとりが牧師になるために神学校に行くということに強い葛藤を覚えたと話していました。しかし、先生はそれを乗り越え、網を捨て、舟を置いてイエスに従ったのです。キリストはガリラヤ湖で最初の弟子たちを召されましたが、今も、フルタイムの働きにたずわる人を召しておられます。日本のようにクリスチャンの数が少ないところでも、牧師の絶対数が足らないと言われています。もちろん牧師のつとめは自分でやりたいと思ってできるようなものではありません。キリストの calling が必要です。キリストが召されるとき、それにこたえて立ち上がり、生涯キリストに従う若者たちが起こされるよう、私たちも祈りたいと思います。

 では、牧師、伝道者、宣教師に召されなければ「人間を漁る漁師」にはなれないのでしょうか。そうではありません。ドイツ語で「職業」をあらわすことば "beruf" には「使命」「召命」という意味があるので、マルチン・ルターはそれぞれの職業はそれをとおして神の働きをするための召命であると言いました。ある人はエンジニアに、ある人は経理士に、ある人は教師に、ある人はガーデナーに、ある人は主婦に召されているのです。学生であること、親であること、子どもであることは職業ではありませんが、そうした立場や環境もまた、キリストからの召命、calling なのです。「人間を漁る漁師にしてあげよう」と言われたイエスは「人間を漁る美容師に」「人間を漁る保育師に」「人間を漁る介護師に」「人間を漁る運転士に」「人間を漁る学生に」「人間を漁るリタイアリーに」なるようにしてあげようと言っておられます。その人の置かれた場所で「人間を漁る者」になるようにとの召命を与えてくださったのです。私たちはそれぞれ自分が置かれた場所に責任があります。人はそれぞれ、その人でなければそこであかしができない場所をに置かされています。他の人が代わることができないのです。そうしたそれぞれの場で、私たちは「わたしについて来なさい。」というキリストの calling にこたえ、「人間を漁る漁師」のつとめを果たす、お互いでありたく思います。

 (祈り)

 主イエスさま、あなたは、使徒、牧師、宣教師になる人々に対してでなく、わたしたひとりびとりにも「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われ、「人間をとる漁師」としてのつとめを与えてくださいました。「人間をとる漁師」としてのつとめについて知れば知るほどしりごみしてしまう私たちですが、あなたについて行くなら、あなたがそのつとめを果たす知恵と力を与えてくださることを信じます。あなたに従うことによって、あなたからのつとめを果たすことができるよう助けてください。あなたのみことばの約束の真実のゆえに祈ります。

7/19/2009