4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
「主の祈り」は前半と後半にそれぞれ三つづつの願いがあります。前半は「御名」(あなたの名)「御国」(あなたの国)「御心」(あなたの心)とあって、神のことを思い、神のことを願う祈りです。後半は、「わたしたちの」「わたしたちを」とあって、私たちの必要を思い、それを願う祈りです。今日は後半の最初の願い「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」を学びます。私は、この祈りから、三つのことを教えられましたので、それを皆さんと分かちあいたいと思います。第一は「自分の必要を慎ましく求める」こと、第二は「他の人々の必要を思ってとりなす」こと、第三は「霊的な必要のためには大胆に願い求める」ということです。
一、自分の必要
最初に、「自分の必要を慎ましく求める」ということを考えましょう。
イエスは「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈れと、教えました。ここで使われている「日ごとの」という言葉は、聖書の他の箇所にはあまり出てこない言葉なので、学者たちはその正確な意味について調査していました。1925年のことですが、古代のギリシャ語の文書が発見されました。その中に紀元161年と、はっきり年代を特定できる文書がありました。それは、ある家族がアレクサンドリアに旅行したときの毎日の記録で、そこでは「日ごとの」という言葉が、一日ごとに必要なものを記録するために使われていました。ですから、「日ごとの糧」というのは、文字通り、一日分の食べ物のことを意味します。イエスは、ここで、一週間分の食べ物、一ヶ月分の食べ物というのでなく、その日一日の食べ物を、毎日願い求めるよう教えておられるのです。「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。」これは、必要以上のものは求めないという慎ましい祈りなのです。
イエスは、ルカの福音書12章で「愚かな金持ち」のたとえを話されました。ある金持ちの畑が豊作で、作物をたくわえておく場所がないほどになりました。それで、この金持ちは古い倉を壊して、もっと大きいのを建てようと考えました。それから自分に向かって言いました。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」ところが、神はこの金持ちに言われました。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」イエスは、「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」(ルカ12:15)と言われ、人間の貪欲を戒められました。
たいていの家庭には一週間は食べられるだけの食料がパントリーや冷蔵庫に入っていることでしょう。アメリカではガレージに2台目、3台目の冷蔵庫や冷凍庫のある家も少なくありません。現代の人々はみな、収入が無くなってもしのげるようにと貯金をし、退職後も困らないようにと年金を積み立てます。将来に備えることや、不慮の事態に備えることは決して悪いことではありません。しかし、そこから「もっと」「もっと」とお金やモノに対して貪欲になっていくなら、それは神に喜ばれることではありません。神に頼るよるも財産に頼り、神からの平安よりも、持ち物によって安心を得ようとしても、決して得られるものではありません。貪欲は決して私たちに本当の平安や喜びを与えないのです。自分の命の時間を知ることのできない人間にとって、自分が神に生かされていることを忘れることやそれを無視することは賢明なことではありません。
イエスは、愚かな金持ちのたとえに続いて、「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:29〜32)と言われました。私たちを生かしてくださるのは神です。そして、神は、私たちに必要なものは必ず与えてくださるのです。
ですから、私たちは、祈りが人間の貪欲を満たすために使われることがないよう注意しながら祈らなければなりません。"need"(必要)と "want"(欲求)が混同されないように、「自分の必要を慎ましく求める」のです。
二、他者の必要
次に、「他の人々の必要を思ってとりなす」ことに進みましょう。
イエスは「主の祈り」で、「わたしの」ではなく、「わたしたちの」と祈るよう教えました。私たちは、祈りのときでさえ、自分のための祈りだけで終わってしまいやすいので、イエスは、祈りのときに自分のことだけでなく、他の人々のことを思いやり、祈るようにと教えておられるのです。「日ごとの糧」という人間にとっていちばん基本的な必要さえ、満たされていない人々が世界中に、いや、このアメリカにも多くいることを、私たちは忘れてはいけないのです。
宣教大会の講師キャロル・ハートさんが「10/40ウィンドウ」という言葉を使っていたのを覚えていますか。これは、1990年にルイス・ブッシュ宣教師が始めて使った言葉で、地球上の北緯10度から40度の地域を意味します。西側からアフリカ、中東、インド、東南アジアの国々が並んでいます。生活水準が低く、貧しい人々の80パーセント以上がこの地域に住んでいます。この地域では十分な食べ物がないために毎年一千万人以上の人々が亡くなっています。そして、そのうちの大部分がちいさなこどもたちなのです。世界では5歳の誕生日を迎えずに亡くなっていくこどもが年間920万人いますが、そのうちの三分の一が栄養失調によるものです。豊かなアメリカにいると信じられない現状ですが、世界の人口の七分の一が飢餓で苦しんでいるのです。もし、世界にたった7人しか人がいないとしたら、そのうちの一人はいつも飢えているのです。
では、世界に食べ物が足りないのでしょうか。そうではありません。地球上には60億の人々が十分に食べることができる食料があるのです。ただそれが偏っていて、必要な人に届けられないのです。アメリカではグロッサリーストアがひとつの町に何軒もあり、そこにはその町の人々の胃袋を満たしてもあまりあるほどの食料があります。グロッサリーストアは販売期限が切れた食べ物や薬を処分するのですが、一軒のグロッサリーストアが処分するものだけでも、飢餓に苦しみ、薬すらない小さな村全体を救うことができると、ある本の中に書かれていました。1984年にエチオピアに飢饉があったとき、政府は最初、飢饉の事実を隠し、否定していました。やがて、世界が注目するところとなり、救援の食料がエチオピアに届けられるようになりました。ところが、政府関係者や軍隊がそれを横取りして私腹を肥やしていたというので、非難を浴びたことがありました。問題は食料の不足ではなく、その分配にあるようです。
飢饉は人々の注目を集めますが、それは餓死の原因の10%にすぎません。90%は.慢性的な栄養不足、栄養失調、吸収不良による飢え、季節的栄養不良によるのだそうです。食べ物があっても、貧しいために買うことができない。寄生虫の駆除などの医療が行き届かないために餓死状態になる。外国の資本が大きな農園を作るため人々の日常の食料のための畑をつぶしてしまい、それで飢餓が起こるということもあります。飢餓の原因は複雑です。しかし、私たちの心の中にある利己主義や貪欲がその原因のひとつであることは確かです。世界の飢餓が克服されるための第一歩は「主の祈り」にあります。「主の祈り」で「日ごとの糧」を求めるとき、世界中に、また私たちの身近なところに、その「日ごとの糧」さえ十分でない人々のことを心に思い描きましょう。そして、食べ物の十分に無い人々をも含めた「わたしたち」の日ごとを糧を、神に願い求めましょう。
三、霊的な必要
第三に、「霊的な必要のためには大胆に願い求める」ということを学びましょう。
聖書に対照的な二つの祈りがあります。ひとつは箴言30:7-9にあります。
二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。もうひとつは歴代誌第一4:10にある「ヤベツの祈り」です。
不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。
私が食べ飽きて、あなたを否み、「主とはだれだ。」と言わないために。
また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。
私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、箴言の祈りはとても慎ましい祈りで、ヤベツの祈りはとても積極的な祈りです。神はどちらの祈りを喜ばれるのでしょうか。両方ともです。私たちは、物質的、この世的なことでは、箴言のように祈るのが良いでしょう。しかし、霊的なことにおいては、ヤベツのように祈るのが良いのです。
わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。
「主の祈り」の「日ごとの糧」の「糧」という言葉は、文字通りは「パン」です。ギリシャ語の「主の祈り」でもラテン語の「主の祈り」でも、「パン」という言葉が最初に出てきます。そして、「パン」は基本的な食べ物を意味すると同時に霊的なものをも意味します。イエスが「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」と言われたように、神のことばは、私たちになくてならない霊的なパンです。私たちは、神のことばによって生きるのです。
詩篇119篇は神のことばを歌った賛美です。神のことばが「みことば」「おきて」「戒め」「道」などのさまざまな言葉で表わされています。そして、みことばが私たちを生かすと言っています。「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」(詩篇119:50)「私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。」(詩篇119:93)とあります。家内は、ある伝道者のメッセージを聞いて、こんな詩をつくりました。
あゝいいなあ私もその先生のメッセージを聞いて心が生きました。その先生は、私たちにとって親しい方で、久しぶりにお会いして励まされました。しかし、私たちが「心が生きる」と感じたのは、そうした人間的なことによってではありませんでした。その先生がみことばをみことばとして語ってくださり、みことばが私たちの心の中に入って働いたからです。みことばが人を生かすのです。
神を愛し 人を愛し
福音を愛して
聖書を絶対の真理として
握っている人の話は…
心が生きる!
しかし、今の時代は、みことばの飢饉の時代です。神のことばが神のことばとして語られていない。語られていても、それを聞くことを拒否して、人々が霊的な栄養失調になっていると、世界中の多くの指導的な牧師たちが口をそろえて語っています。アモス8:11に「見よ。その日が来る。―神である主の御告げ。―その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」とある通りです。食事のときには、やはり食べ物のことが話題になることが多く、どのレストランの料理がおいしいかとか、どの店のケーキが口当たりが良いかなどが話題になります。誰もが、よりおいしいものやより栄養のある、健康に良いものを食べたいと願っています。それなら、どうして、体だけでなく、たましいの栄養のことも考えないのでしょうか。たましいの糧をみことばに求めないのでしょうか。みことばを少し口にするだけで、終わってしまわずそれを食べましょう。毎日規則正しく食事をとるように、毎日みことばを食べる者となりましょう。食べ物はよく噛むと消化もよく、栄養になりますが、みことばも、それを噛み締め、味わうとたましいの力になるのです。食事に偏りがないように、いろんなものを食べるように、みことばも自分の好みの部分だけでなく、全体を学ぶようにしたいと思います。聖書に「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」(ペテロ第一2:2)とあるように、霊の糧であるみことばは、貪欲なほどに求めてよいのです。
また、神のためには、積極的に、大胆に、大きなことをも求めましょう。近代宣教の父と呼ばれ、インドで宣教したウィリアム・ケアリーは「神から大きなことを期待せよ。神のために大いなることを企てよ」と言いました。日本人になじみ深いウィリアム・スミス・クラークは「少年よ、大志を抱け。」と言いました。「少年よ、大志を抱け。」は有名なことばですが、実はこのことばには続きがあるのです。クラークは続けてこう言っています。
しかし、金を求める大志であってはならない。クラークのことばは、「主の祈り」でイエスが教えようとされたことを代弁しています。「主よ。私たちに祈りを教えてください。」自分のことには慎ましく、他の人のためには同情をもって、そして、神のためには積極的、大胆に祈っていく、そのような祈りを、主イエスから教えていただこうではありませんか。
利己心を求める大志であってはならない。
名声という、つかの間のものを求める大志であってはならない。
人間としてあるべき すべてのものを 求める大志を抱きたまえ。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、私たちに日ごとの糧を今日も与えてくださいます。イスラエルのひとびとが荒野で日ごとに天から降りてきたマナによって養われたように、あなたは、今も、みことばを与えてくださいます。イスラエルの人々が、毎日マナを集めなければならなかったように、私たちも、日ごとに自分の必要のため、他の人々の必要のため、そして霊的な必要のため祈り続ける者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
3/7/2010