わたしの愛する子

マタイ3:13-17

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3:13 そのころ、イエスはガリラヤからヨルダン川のヨハネのもとに来られた。彼からバプテスマを受けるためであった。
3:14 しかし、ヨハネはそうさせまいとして言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか。」
3:15 しかし、イエスは答えられた。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです。」そこでヨハネは言われたとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると見よ、天が開け、神の御霊が鳩のようにご自分の上に降って来られるのをご覧になった。
3:17 そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」

 一、ヨハネが授けていたバプテスマ

 「バプテスマ」は、日本語では「洗礼」と言います。「洗う」という言葉が入っているように、「身を清める」という意味が含まれています。中国から来た言葉に「斎戒沐浴」(さいかいもくよく)というものがあります。宗教儀式に携わるとき、心身を清くすることをいうのですが、水で清めるという儀式は、どの国にもあります。インドではガンジス川で沐浴します。日本の神道にも「禊」(みそぎ)という儀式があります。そのような儀式は、人間が神聖なものに対して罪や穢(けが)れを持っているという自覚から生まれました。人々は、罪や汚れを取り除くことなしに、神聖なものに近づくことが出来ないということを知っています。聖書は、神が最も聖なるお方であり、人間には罪があり、汚れを持っていて、そのままでは滅びゆくものであると教えていますが(イザヤ6:1-5)、さまざまな宗教の中にも、同じことが、形を変えて伝えられているのだと思います。

 バプテスマのヨハネがヨルダン川で行っていたバプテスマも、罪や汚れからの「きよめ」のためのものでした。ヨハネが行っていたバプテスマは、本来は、異教徒がユダヤ教に改宗するとき、偶像の汚れを洗い落とし、唯一のまことの神への信仰を誓うために行われたものでした。ところが、ヨハネは、アブラハムの子孫であり、すでに神の民とされているユダヤの人々にバプテスマを授けていました。ヨハネはこう言っています。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(マタイ3:7-9)「アブラハムの子である」という特権や誇りの上にあぐらをかいていたユダヤの人々に、異邦人が主なる神に立ち返る時のように、バプテスマを受けて、神の民として再出発せよと、ヨハネは教えたのです。

 大勢の人々が、ヨハネからバプテスマを受けるため、行列を作っていましたが、その中にイエスの姿がありました。ヨハネのバプテスマは罪の悔い改めのバプテスマでしたから、罪のないイエスにはそれを受ける必要がありませんでした。なのに、イエスはその行列の中に並んだのです。それは、イエスが私たちと何一つ変わらない人間になり、みずから進んで、「罪人の仲間」(マタイ11:19)となってくださったことを意味しています。「罪人の仲間」といっても、ほんとうに罪を犯したということではありません。罪に苦しむ人間の葛藤をイエスは知っていてくださるということです。

 「世には良き友も」(新聖歌426)という賛美があります。「世には良き友も数あれど、キリストに勝る良き友はなし。罪人のかしらわれさえも、『友』と呼び給う愛の深さよ。ああわがためいのちをも捨てましし友は、主なる君のみ」と歌っています。「罪人のかしら」というのは、使徒パウロの言葉です。パウロは壮年期に「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです」(コリント第一15:9)と言いました。老年期には、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」(エペソ3:8)と言い、晩年には、「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」(テモテ第一1:15)と言って、自分を「罪人のかしら」と呼びました。「使徒の中では最も小さい者」、「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」、そして「罪人のかしら」と、年齢を重ねるにつれて、パウロは、自分をより罪深い者、より小さな者だと言っています。そして、自分の罪深さを知れば知るほど、パウロは、その罪を赦してくださったキリストの恵みの大きさをより一層賛美したのです。

 ある人が「キリストが罪人のかしらさえ愛してくださるのなら、普通の罪人はなおのことですね」と言いましたが、私は、そうだろうかと思いました。やはり「罪人のかしら」がキリストの愛をいちばんよく受けているのだと思いました。親鸞上人の言葉に「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」というのがあります。これは、「自分の罪深さをあまり理解せず、自分は善人だと思っている人でさえ、念仏によって極楽往生できるのなら、まして、自分は悪人だということが分かって、ひたすら阿弥陀仏にすがるなら、確実に極楽往生できる」という意味です。これを「悪人正機(しょうき)」と言いますが、この教えは、パウロが「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」と宣言し、「私はその罪人のかしらです」と言って、自分こそ、キリストの救いを最も必要としている罪人ですと告白していることに通じるものです。

 自分の罪深さは、正直に自分に向き合えば、誰もが分かることです。聖書は、私たちの姿を照らし出す鏡のようなものですから、聖書によって、自分を知ることができます。何よりも、罪のないイエスのご生涯をたどり、聖なるお方に触れるとき、自分の罪深さが見えてきます。本物を見つめる時、自分の中にある偽りが分かってきます。そして、私こそ救われなければならない罪人であり、自分が「罪人のかしら」なのだと分かります。そして、そのとき、「罪人の仲間」になってくださったイエスの恵みが分かるようになるのです。

 二、イエスが受けたバプテスマ

 人々は順に、罪を告白しバプテスマを受けて行き、イエスの番になりました。ヨハネは、目の前にイエスを見て、「私こそ、あなたからバプテスマを受ける必要があるのに、あなたが私のところにおいでになったのですか」(14節)と言って驚きました。ヨハネは、こう教えていました。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。」(マタイ3:11)今、イエスを目の前にして、このイエスが自分が預言していたキリストであると悟ったのです。それでヨハネはイエスにバプテスマを授けるのをためらったのですが、イエスは、「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです」(15節)と言って、ヨハネにバプテスマを授けることを承知させました。

 イエスがバプテスマを受けて水から上がると、聖霊が鳩のようにイエスに下り、天からの声が、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と告げました。「これは、わたしの愛する子」というのは、詩篇2:7の言葉です。父なる神が御子を人々の「王」としてお立てになったことを言っています。「わたしはこれを喜ぶ」は、イザヤ42:1の言葉です。こうあります。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」イザヤ書では、キリストが「しもべ」と呼ばれています。キリストは人々の「王」であるのに、「しもべ」として世に来られ、罪人の救いを成し遂げてくださいました。イザヤ書に「わたしは彼の上にわたしの霊を授け…」とあるように、聖霊が鳩のようにイエスに下りました。イエスのご生涯とその働きは聖霊に満ちたものとなりました。イエスのなさった様々な力あるわざは聖霊によるものでした。

 罪のないイエスにとって、バプテスマは、イエスが神の御子であることと、イエスに世を救う使命が与えられていることを明らかにするものでした。

 三、私たちが受けるバプテスマ

 イエスが受けたバプテスマは、私たちが受けるバプテスマに新しい意味を与えました。私たちが受けるバプテスマは、まず第一に、「罪の悔い改め」です。私たちはバプテスマによって罪の悔い改めと信仰を言い表すのです。

 第二に、バプテスマは、「罪の赦し」です。バプテスマには、私たちの側の「悔い改め」とともに、神が私たちにくださる「罪の赦し」があります。悔い改めて信じる者に「赦し」が与えられるのです。バプテスマは、「子よ。…あなたの罪は赦された」(マタイ9:2)「わたしもあなたを罪に定めない」(ヨハネ8:11)とのイエスの言葉そのものです。

 第三に、バプテスマは「新しい誕生」です。ヨハネ1:12は「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」と言い、イエスご自身も、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」(ヨハネ3:5-6)と言われました。「水と御霊によって」の「水」はバプテスマの水です。神はバプテスマのうちに働いてくださる聖霊によって私たちを生まれ変わらせてくださるのです。父なる神は、イエスのバプテスマのとき、イエスを「わたしの愛する子」と呼ばれましたが、私たちのバプテスマの時も、私たちを「わたしの愛する子」と宣言してくださるのです。バプテスマの水は、産湯のようなものだといってよいでしょう。私たちはバプテスマによって神の子どもの誕生を祝うのです。

 第四に、バプテスマは、神からの使命です。それは、キリストの恵みを証しするという使命で、バプテスマを受けたすべての人に与えられています。「神からの使命」というと、「重圧」のように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。パウロは、かつて教会を迫害する者であったのに、キリストが彼を使徒として信頼してくださったことを感謝しています。「信頼する」というと、私たちがキリストに信頼することを思いうかべますが、キリストもまた私たちを「信頼」してくださっているのです。私たちがキリストに信頼する以上に、キリストは、私たちを信頼しておられます。私たちに与えられた使命は、その信頼のしるしです。

 また、神は、その使命を果たす力を備えてくださっています。それは聖霊です。聖書が、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」(使徒2:38)と言っている通りです。

 イエスはそのご生涯を通して、神を「父よ」と呼んで、絶えず神との愛の中に歩まれました。私たちも、私たちを「わたしの愛する子」と呼んでくださる神の声を聞き、聖霊によって、神を「アバ、父よ」(ローマ8:15、ガラテヤ4:6)と呼び、神の愛の中を歩み続けましょう。イエスのご生涯の中に表され、貫かれている神の愛を深く想いみて過ごしたいと思います。

 (祈り)

 イエス・キリストの父なる神さま。あなたは、イエスを信じる者の父となり、信じる者を「わたしの愛する子」と呼んでくださいます。罪赦され、あなたの子どもとされ、あなたの愛を確信することができるため、ひとりひとりをバプテスマへと導いてください。また、すでにバプテスマを受けた者たちが、常にバプテスマの意味をふりかえり、あなたの子とされていることを確信して、日々を歩むことができるよう導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

4/5/2020