3:13 そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。
3:14 ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのでか」。
3:15 しかし、イエスは答えて言われた、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。
3:16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
3:17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。
今日は、主イエスがヨハネからバプテスマを受けたことを記念する日です。ヨハネはイエスの誕生のおよそ六ヶ月前に祭司ザカリヤと妻エリサベツの間に生まれました。エリサベツは不妊で、すでに子どもを産めない年齢になっていたのに、御使いによって預言されていたとうりにヨハネが生まれたので、人々は「この子はいったいどんな人になるのだろう」と語り合いました。ヨハネは大人になって預言者として活躍し、人々にバプテスマを授けていましたので、「バプテスマのヨハネ」と呼ばれるようになりました。
イエスもまた、ヨハネに続いて、福音を宣べ伝え始められました。ガリラヤのナザレの村で静かに暮らしておられた生活から、公の生活へと入られたのです。そして、公の生活の第一歩がバプテスマを受けることでした。イエスは、なぜバプテスマをお受けになったのか、イエスがバプテスマをお受けになったことが私たちに何を教えているのかについて、三つのことを学んでみたいと思います。
一、神への悔い改め
イエスがバプテスマをお受けになったのは、ご自分が罪びとのひとりとなり、人類の罪を背負って、それを償い、人々に赦しを与えるためでした。
イエスの時代、ユダヤ人以外の人々は「異邦人」と呼ばれ軽蔑されていましたが、その「異邦人」の中にもユダヤの人々が信じてきたまことの神を信じ、その教えに帰依する人々が多くいました。そうした人々がユダヤ教に改宗するときには、バプテスマを受け、今まで偶像を礼拝してきた罪や、その他の罪を悔い改めました。バプテスマは「異邦人」のための改宗の儀式でした。ところが、ヨハネは、ユダヤ人にもバプテスマを授けていました。血筋だけはダヤ人であっても、神への信仰を忘れている人々に、もういちど神の民としてやり直すようにと教えるためでした。ヨハネは、人々に「アブラハムの子孫だ」などという誇りを捨て、徹底して罪を悔い改めるように教えましたので、ヨハネの授けていたバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」と呼ばれました。
「悔い改めよ、天国は近づいた」と説くヨハネの教えに心探られた人たちは、ヨハネからバプテスマを受けるために列を作って並んでいました。イエスもその列の中に並び、自分の順番を待っていました。イエスの番になったとき、ヨハネは驚いて言いました。「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか。」(14節)イエスは罪のないお方、悔い改める必要のないお方です。ヨハネの方がイエスからバプテスマを受けるはずでした。それで、ヨハネはイエスがバプテスマを受けるのを思いとどまらせようとしました。しかし、イエスはあえて、ヨハネからバプテスマを受けることを望まれました。なぜでしょうか。それは、罪のないお方が、人類の罪を背負って、罪びとのひとりとなってくださるためでした。
聖書に
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。(コリント第二5:21)とあります。神は正しいお方であって、罪に目をつむり、それをウヤムヤにはなさるようなお方ではありません。しかし、同時に神は愛のお方であって、罪びとがその罪のゆえに滅びることを望んではおられません。しかし、罪はどこかで処理されなければなりません。神はご自分の御子が人類の罪を引き受けるようにされたのです。神の御子は、まず、人となって、この罪の世に生まれてくださり、次に、罪びとのひとりとなって、ヨルダン川でバプテスマを受け、そして、最期には、文字通り犯罪者として十字架の極刑を受けられたのです。イエス・キリストは私たちの罪の結果をご自分の身に引き受けることによって、信じる者が、罪の赦しを受けることができるようにしてくださったのです。
ヨハネのバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」でした。私たちの受けるバプテスマにも神を信じてこなかった過去を捨てて、新しい生活に向かうという悔い改めの要素があります。しかし、私たちが受けるバプテスマには、ヨハネのバプテスマにはないもの、イエス・キリストによる罪の赦しがあります。ペテロは「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」(使徒2:38)と言って、人々にバプテスマを授けました。アナニヤは「そこで今、なんのためらうことがあろうか。すぐ立って、み名をとなえてバプテスマを受け、あなたの罪を洗い落しなさい」(使徒22:16)と言って、サウロにバプテスマを授けています。キリストが与えてくださるバプテスマには、悔い改めだけでなく、罪の赦しがあります。それは、悔い改める者に赦しを与える「罪の赦しのバプテスマ」です。
私たちは皆、ヨハネからバプテスマを受けるため列を作って並んでいる人々に似ています。その人々は自分の罪を認めて悔い改めた人々でした。けれども、まだ悔い改めが不十分ではないかと不安に思っている人たちでした。自分の至らなさを感じて、神の前に震えおののいている正直な人たちでした。私たちも同じです。しかし、主イエスが悔い改める者たちの列の中に加わってくださったように、今も、私たちと一緒にいてくださいます。イエスは「わたしがあなたの悔い改めを完成させる。それに答えて赦しを約束する」と語ってくださるのです。ですから、私たちは勇気を出してバプテスマを受けるのです。そこに罪の赦しがあるからです。
多くの人はあまり気付いていないかもしれませんが、罪の赦しを得ていないたましいには光がありません。本当の平安もありません。何をしても確かな歩みができないのです。罪の赦しは、私たちが神から受ける最高の恵み、幸い、喜びです。この罪の赦しは、イエス・キリストによって、悔い改め、信じてバプテスマを受ける者に与えられます。イエスは私たちが悔い改め、信じてバプテスマを受け、罪の赦しを得ることができるため、まず、ご自分がバプテスマをお受けになったのです。
二、神への服従
イエスがバプテスマをお受けになったのは、第二に、父なる神に従うためでした。ヨハネがイエスにバプテスマを思いとどまらせようとしたとき、イエスはヨハネに「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである」(15節)とおっしゃいました。イエスは、父なる神のみこころを成就するため、父なる神がお定めになったことに従われました。
私たちがバプテスマを受けるのも同じです。「心で信じていれば、べつにバプテスマを受けなくてもいい」といったことを聞くことがあります。そうではありません。イエスは「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」(マタイ28:19-20)と命じられました。バプテスマはイエス・キリストが命じられたものです。聖書では「信じる」という言葉と「従う」という言葉は同義語として使われています。イエス・キリストを信じるというのは、キリスト教の教義を頭脳で認めるということだけで終わるものではありません。信じることは従うことです。イエス・キリストを心で信じるなら、その信仰をバプテスマという目に見える形で表わすことが必要です。信仰が形をとって表わされるとき、それは生きて働くものとなり、その人の日々の生活に、人生に、大きな祝福となって返ってくるのです。
三、召命への応答
イエスがバプテスマをお受けになったのは、第三に、父なる神の召命(calling)に応えるためでした。父なる神は御子に、人類の罪を背負い、人々の身代わりとなって死ぬという使命(mission)をお与えになりました。イエスはバプテスマを受けることによって、そのみこころに服従されましたが、それは、嫌々、やむを得ず従ったということではありません。御父が御子に無理強いしたということではありません。御父が、罪に苦しむ人々をいつくしまれたように、御子も人々を愛され、罪の世で苦しむ人々にあわれみの手を差し伸べられました。御父が罪びとの救いを願われたように、御子も罪びとの救いを願われ、そのために、自らを進んで捧げられたのです。バプテスマは、イエスの服従と献身のしるしでした。
イエスがバプテスマを受けたとき、聖霊がイエスに下り、天からの声がありました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」(17節)これらのことは、イザヤ42:1-4に記されている預言の成就です。イザヤ書にこう書かれています。
わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。ここには、ひとりの忠実な神のしもべが、神とひとつ心になってその使命を果たし、人々を束縛から解放していく姿が描かれています。この「神のしもべ」こそ、イエス・キリストです。イエスは、バプテスマを受けることによって、神からの使命をお受けになりました。神の忠実なしもべとなり、神の召命にお応えになったのです。バプテスマの後、イエスがなさった宣教は、じつにイザヤ書にしるされている通りでした。
わたしはわが霊を彼に与えた。
彼はもろもろの国びとに道をしめす。
彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。
海沿いの国々はその教を待ち望む。
私たちが受けるバプテスマもまた、神からの召命のしるしです。キリストがそうされたように、私たちも神のしもべとなって、人々にキリストを証しするのです。バプテスマを受けたすべての人は、それぞれに働きは違っていても、神のしもべ、キリストの証人としての召命を受けています。バプテスマを受けた者が、礼拝のたびごとにバプテスマと共に受けた召命を確認し、それに応えていくことを、神は望んでおられるのです。
教会はギリシャ語で「エクレシア」と言います。それは「呼び出された者の群れ」という意味です。神は礼拝のたびごとに、私たちをそれぞれの場所から呼び出して教会に集めてくださるのです。イエスがバプテスマのとき聞いたのと同じ言葉、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という言葉を、私たちは礼拝で聞きます。罪が赦され、神の愛する子として受け入れられていることを喜び、感謝するのです。そして、この礼拝で、神からの使命(mission)を受けてそれぞれの場所に遣わされていくのです。礼拝はラテン語で「ミサ」と言います。それには「派遣」という意味があります。英語の "mission" は「ミサ」から出た言葉です。私たちは礼拝に集うたびに、バプテスマのときに受けた使命を、もう一度受けて、そこから派遣されていくのです。私たちは「来なさい」との神の招きに応えて礼拝に集いました。今度は「行きなさい」との言葉に送りだされて、この礼拝から遣わされていくのです。
神の召命に応えることは決して簡単なことではありません。自分にはできないと感じることのほうが普通でしょう。しかし、神はそれに応える力を備えていてくださっています。イエスがバプテスマを受けたときお受けになった聖霊は、バプテスマを受けた者ひとりひとりに宿っておられるのです。私たちはバプテスマによって、神からの召命だけでなく、それと同時に、その召命に応えるための聖霊の力を与えられているのです。
主イエスは私たちが、自分に与えられた神の召命に気付き、それに応えることができる者となるため、自らバプテスマをお受けになりました。イエスのバプテスマを覚えるこの日、私たちもイエスの足跡に倣い、バプテスマを通して神に従う者となりたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、主イエスは私たちの救いのために進んでバプテスマを受け、私たちにバプテスマの意味を教えてくださいました。きょう、そのことを知り、あなたの招きに応えてバプテスマを受ける兄弟を祝福してください。また、そのバプテスマ式に連なる私たちひとりひとりに、自分たちが受けたバプテスマに応えていく思いを与えてください。そして、続いてバプテスマを受ける方々を多く与えてください。主イエスのお名前で祈ります。
1/5/2014