28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
一、キリストの命令
マタイ28:18-20は「宣教大命令」("The Great Commission")と呼ばれる箇所です。救いのみわざを成し遂げて天にお帰りになる主イエスが、弟子たちに宣教を託された、大切な言葉です。
しかし、「宣教」と聞くと、私たちの多くは、それは「牧師や宣教師がすること」と考えてしまい、主イエスの宣教の命令を自分自身への言葉として受け取ることが少ないように思います。確かに、主イエスの宣教命令を直接聞いたのは、11弟子たちです。しかし、後に、ユダのかわりにマッテヤが選ばれ、使徒たちは12名になりました。エルサレムの12使徒の他に、パウロも使徒として選ばれており、使徒たちは皆、主イエスの宣教の命令に従いました。使徒たちの補佐として選ばれた七人の人々も、宣教に携わりました。そのうちのひとりピリポは「伝道者」と呼ばれています。使徒たちや執事たちだけではありません。初代教会では、ほとんどすべてのキリスト者が、立場や役割は違っても皆が、宣教に携わりました。主イエスがバプテスマを受けてから宣教を始められたように、バプテスマは宣教への召命、また、任命のしるしとされました。
主イエスは、マタイ28:20で「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と言っておられます。これは、宣教の命令が使徒たちや初代の教会だけでなく、そのあとに続き、今にいたり、主イエスの再臨まで続く、あらゆる時代の教会、また、すべてのキリスト者に与えられている命令だということを示しています。現代の英語ではマタイ29:19は "Go therefore and make disciples of all the nations ..." となっていますが、King James Version では "Go ye therefore, and teach all nations..." となっています。King James 訳の "ye"(あなたがた)はとても大切です。それによって、この箇所を読む人が、このみことばが、他の誰かにではなく、自分に対して語られていることを知ることができるからです。日本語では「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と、「あなたがた」という言葉が入っています。主イエスの宣教の命令を、自分への命令として聞く、お互いでありたいと思います。
二、キリストの指示
マタイ28:18-20は「宣教の命令」ばかりでなく、同時に「宣教の指示(インストラクション)」です。宣教とは何か。どのようにして宣教するのかということがここに教えられています。主イエスは、後の時代の教会が、「宣教」を勝手に定義したり、好きなように変えてしまうことがないように、宣教の指示を与えておられるのです。
主イエスは「宣教」を「人々をキリストの弟子とする」ことであると定められました。「行って…」、「バプテスマを授け…」、「教え…」というのは原語では "going"、 "baptizing"、 "teaching" というように "ing"、分詞の形です。主動詞は「弟子とせよ」("make disciples")です。「宣教」のゴールは、「弟子を作ること」(make disciple)こと、つまり、人々がキリストに従う者、キリストに倣う者になることです。それは、決して教会を宣伝することでも、キリスト教が好きな人を増やすことで終わるものではありません。
ケンタッキーのルイズヴィルにサウス・イースト・クリスチャン・チャーチという教会があります。そのティーチング・パスターであるカイル・アイドルマンが昨年、"not a fan" という本を書きました。クリスチャンになることは、映画スター、歌手、スポーツ選手など、有名人の回りに人々が群がるように、キリストの回りに群がることではない、キリストのファンになることでない、キリスト者であることはキリストに従うことだということを説いている本です。この本はたちまちベストセラーになり、2012年4月、若者向けに書き直されたものが出版されました。2013年1月にはスタディ・グループ用の本も出版されます。今日のアメリカでは、キリストの弟子となり、真剣にキリストに従うことが忘れられ、教会がファン・クラブのクラブハウスになりつつある中で、こうした本が受け入れられているのは、うれしいことです。それは、アメリカのクリスチャンの多くがキリストに従う者になりたいという願いを持っていることの表われだと思います。私たちも、キリストの弟子になる、また、人々をキリストの弟子とするというゴールをを忘れずに励みたいと思います。
主イエスは、「人々を弟子としなさい」と命じられた時、「行って…」、「バプテスマを授け…」、「教え…」と言われました。この三つは、人々をキリストの弟子とするための方法や段階を示しています。
「行って…」は、「接触の段階」です。まだ神の存在を知らないでいる人たちに神を証しすること、イエス・キリストを知らない人々に、イエス・キリストのご生涯と教え、十字架と復活を伝えること、聖書を学んだことのない人たちと共に聖書を学ぶこと、礼拝や祈りを体験したことのない人たちを礼拝や祈りに招くことなどです。
「バプテスマを授け…」は、「導きの段階」です。バプテスマそのものだけでなく、聖書を学び始め、礼拝に集い始めた人たちがバプテスマを受けたいという願いに導かれるよう祈ること、イエス・キリストを救い主として信じ、主として従い、キリストのからだである教会の一員として生きる生活へと導くことなどが含まれます。
「教え…」は「成長の段階」です。バプテスマを受けた人たちが、教会につながり、みことばを学び、キリストの弟子として成長していくのです。「弟子」という言葉には「学び、従う者」という意味があります。「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と言われているところで、「守る」と訳されている言葉には「注目する」、「大切に保つ」、「堅く守る」、「服従する」などという意味があります。教会は「人々を弟子とする」ために、サンデースクールをはじめとして、さまざまな教育や訓練の機会を持ってきました。しかし、教会の「教育」はたんに人を「物知り」にするためのものではありませんし、その「訓練」は何かのスキルを与えるだけのものでもありません。私たちが神の言葉を学ぶのは、それを「なるほど、なるほど」と頭に蓄え、好奇心を満たすためではなく、それを信じ、それに従うためです。神の言葉には十分に理解できないもの、また、受け入れ難いものもあります。そうしたものであっても、それを受け入れ、それに従う、そんな信仰を養うために、私たちは神の言葉を学んでいるのです。
ローマ人への手紙に「信仰の従順」という言葉があります(ローマ1:15、16:25)。信仰とは、真理に対して従順であることです。使徒パウロは「そういうわけですから、愛する人たち、いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いを達成してください」(ピリピ2:12)と勧め、使徒ペテロも「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なるお方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい」(ペテロ第一1:14)と教えています。
先にバプテスマの恵みにあずかった者たちが、教えられやすい者、真理に対して従順な者、つまりキリストの弟子になることによって、他の人々をキリストの弟子にするという、キリストの宣教の命令に従うことができるのです。
三、キリストの約束
主イエスは、弟子たちに宣教の命令を与え、そのインストラクション(指示)をお与えになりました。しかし、最初の弟子たちは、たちまち、ユダヤの最高議会から「イエスの名によって語ってはならない」という脅迫を受け、ユダヤ社会から追放されました。イエス・キリストを「主」(ドミヌゥス)と告白するクリスチャンは、自らを「主」(ドミニヌゥス)と呼んだ皇帝によって迫害を受けました。とても、宣教の命令を守り、宣教の指示に従うことができるような状況ではなかったのです。しかし、そんな中で、福音はローマ帝国ばかりでなく、アフリカ、インド、アジアまで伝えられ、各地に教会が建てられました。どうして、そんなことができたのでしょうか。それは、主イエスが、宣教の命令や指示だけでなく、その命令に従い、その指示を実行できる力を弟子たちに約束なさったからです。
主イエスは、いきなり「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」といわれたのではなく、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言っておられます。また、「そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」と言われてから「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」と念を押しておられます。宣教の命令と指示は、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」という主イエスの「権威」の宣言と「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」という主イエスの「臨在」の約束に挟まれ、支えられているのです。
初代の弟子たちは、まず、キリストの権威に服従しました。そうすることによって、キリストの権威がこの世のどんな力にも勝るものであることを身をもって体験しました。また、どんな時にも、キリストにつながり、キリストに留まりました。それによって、キリストがいつも自分たちと共におられることを体験しました。キリストの権威と臨在を体験し、そこから来る力と喜びを知っていたのです。どんな苦しみの中でも、キリストは祈りを聞いてくださり、みことばによってそのおこころを教えてくださる。この世のものは奪われても、神の国と永遠の命が約束されている。初代のクリスチャンは、キリストの弟子であることが、どんなに素晴らしい特権であるかを知っていました。キリストの弟子であることに喜びを見出していました。ですから、他の人にもキリストの弟子になるようにと、心から勧めることができたのです。
現代の私たちも、主イエスの権威から来る力とその臨在から来る喜びが必要です。教会は二千年前に比べて、もっと全世界に広がりました。組織も、経済力も持つようになり、教育も進みました。かつては宣教地に行くのに何ヶ月もかかりましたが、今はどこにでも数日の間に行くことができます。インターネットの時代になって、瞬時に情報を共有できるようになりました。聖書はほとんどすべての言葉に翻訳され、出版されています。私たちは、今までのどの時代よりも、宣教・伝道のための多くの機会を与えられています。しかし、それで、宣教・伝道ができると思ってはなりません。宣教・伝道の本当の力は主イエスの権威と臨在にあります。現代の教会は、他のさまざまなものを持つようになりましたが、一番大切な主イエスの権威を信じ、それに従うこと、また、主イエスの臨在を求め、その中に生きることを忘れているのかもしれません。そのことを反省し、宣教・伝道の本当の力を求めていきたいと思います。
マタイの福音書は主イエス・キリストのご生涯とお働きを、「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)という預言の言葉で始め、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」という、主イエスご自身の言葉で閉じています。そうです。イエスは、今も「インマヌエル」、私たちと共におられるお方です。この主イエスと共にあるとき、私たちも、主イエスの宣教の命令に応えることができる者となるのです。
(祈り)
父なる神さま、新しい年を迎えるにあたって、主イエスが私たちに与えてくださった使命が何であるか、私たちがそれにどう応えていくべきかを学ぶことができ、感謝します。新しい年も、主イエスの権威を覚え、主イエスの臨在を求めて、その使命に生きることができるよう助けてください。キリストのからだである教会において、かしらである主イエスにつながり、その中で自分に与えられた役割に励むことができますよう導いてください。今も、世の終わりまでも、共にいてくださる主イエスのお名前で祈ります。
12/30/2012