26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、
26:7 ひとりの女がたいへん高価な香油のはいった石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんなむだなことをするのか。
26:9 この香油なら、高く売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
26:10 するとイエスはこれを知って、彼らに言われた。「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。
26:11 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
26:12 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。
26:13 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」
私が生まれ育った大阪では、「もうかりまっか。」と挨拶します。答えは「あきまへんわ。」か「ぼちぼちですわ。」というのが決まり文句です。まちがっても「もうかってます。」などとは言いません。大阪の商売人の間では、もうかっていないようにして、こっそりもうけるのが賢いやり方なのです。「人間はカンジョウの動物」と言われます。「カンジョウ」というのは、まずは喜怒哀楽の「感情」のことです。喜怒哀楽の感情を豊かに持っているのが、人間です。しかし「カンジョウ」には、お金を計算する「勘定」という字も当てはまります。多くの人は、正しいか間違っているか、善か悪か、美しいことか醜いことかということよりも、それが得か損かで、ものごとをしたり、しなかったりします。「損得」勘定でものごとを決めてしまうのです。まさに人間は「勘定の動物」、勘定する動物です。
主イエスの弟子たちの多くは、ガリラヤ出身でした。ガリラヤ地方は他の国々との接触が多く、通商が盛んでした。東方からの貴重な品物は、陸路ですと、まずガリラヤに入ってきました。それで、この地方には、関税などを取り立てる取税人が大勢いたのです。主イエスの弟子には、マタイなどの「元取税人」がいました。それで主イエスの弟子たちもまた「勘定」の上手な人たちでした。主イエスが五千人もの人々にパンを与えようとして、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と言われた時、十二弟子のひとりピリポは即座に計算をして「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と答えることができたほどです(ヨハネ6:5-7)。
今朝の福音は、ひとりの女性が主イエスに高価な香油を注いだことを告げています。ヨハネの福音書を見ると、この女性は、ラザロとマルタの妹、マリヤだったことがわかります。ヨハネの福音書には、イスカリオテ・ユダが「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに施さなかったのか。」と言ったと書いてあります。ユダも香油の価値を即座に計算することのできた、勘定の早い人でした。二百デナリで五千人の人々に一口ずつであったとしてもパンを食べさせることができたのですから、三百デナリというのがどれほど大きなお金か分かっていただけると思います。弟子たちは、マリヤがそんなに高価な香油をあっという間に使い切ってしまったことを、非難しました。弟子たちのほとんどが口をそろえてマリヤのしたことを非難したのは、彼らが、まだ、計算ずくめ、損得勘定の原理の中に生きていたからでした。
主イエスは、私たちの人生にどんな計算も、勘定もいらないとは言われませんでしたが、ものごとを計算ずくめで判断し、損得勘定だけで行動しているなら、私たちは人間として大切なものを無くしてしまう、それこそ「勘定の動物」になってしまうと教えておられます。
一、主イエスの価値を見失う
この世の計算だけでものごとを判断している人は、第一に、主イエスの価値を認めることができません。それは、主イエスの価値を見失わせます。
弟子たちは、マリヤに向かって、「何のために、こんなむだなことをするのか。」といきり立ちました。しかし、香油が、イエスに注がれてなぜ、むだなのでしょうか。私は、なぜ弟子たちがそれをむだだと思ったのか不思議でなりません。弟子たちは、主イエスが、水をぶどう酒に変え、ガリラヤ湖の嵐を静め、らい病人をきよめ、死人を生き返らせたのを見て、「あなは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16:16)と告白した人々だったのではありませんか。万物の創造者であり、主権者であるお方、王の王、主の主であるお方にささげるのに、むだなものなど、何一つないはずです。イエスに献げられるものを「むだ」だと考えるのは、イエスが高価なささげものを受ける取るのにふさわしくないということになりはしないでしょうか。弟子たちは、イエスを信じていなかったわけではありません。しかし、この時の彼らは、主イエスがどんなに尊いお方かということを、見失っていたのです。
イスカリオテ・ユダは、後に、イエスを銀三十枚で祭司長たちに売り渡すようになりますが、当時、銀一枚は四デナリでしたから、ユダの受け取ったのは百二十デナリというわけです。ユダは、マリヤがささげた香油を三百デナリと計算しています。ところが、イエスをたった百二十デナリで売り渡しました。ユダは、神の御子、人類の救い主の価値を、香油の半分以下にしか見ることができなかったのです。他の弟子たちはユダのようではありませんでしたが、地上的なことだけに心を奪われて、主イエスの価値を見失っていたのです。
お金は価値を表わします。ですから、その人が何のためにお金を使っているかを見ると、その人が何に価値を置いているか、何を大切にしているかが分かります。人は、自分が価値を感じるもののためにはお金を惜しみません。芸術に価値を感じる人は何万ドルとする絵でも、惜しいとは思わずお金を使うでしょうし、旅行が好きな人は借金をしてでも世界中を旅して回るでしょう。イエスが「あなたがたの心のあるところに宝もある」と言われたとおりです。しかし、自分が価値を認めないものには、一ドルでも、一セントでもそれを惜しむのです。主イエスの価値を認めない人は、主イエスにささげるべきものを「むだ」だと言うでしょう。しかし、主イエスにささげられたものは決してむだにはなりません。なぜなら、主イエスは私たちの最善を受け取るのにふさわしいただひとりのお方だからです。そして、主イエスはわたしたちがささげたものを最も有効に用いてくださるお方だからです。聖書は、「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(コリント第一15:58)と教えています。私たちが、まごころから主イエスのためにしたこと、主イエスにあってしたことは決してむだにならないのです。主イエスのためにささげたお金は、主が何倍にもして、人々の救いのためい用いてくださいます。主イエスのために耐えたさまざまな痛みや苦しみは、かならず実を結びます。主イエスをあがめてささげた礼拝の時間、祈りに費やした時間、聖書を読み、思いめぐらした時間は、この世で用いられるだけでなく、永遠の天につながっていきます。
しかし、自分のためだけに使ったお金、時間、また労力は、それによって何か良いものが手に入り、実りがあったように見えても、実際はただ消えてなくなっていくだけで、私たちの人生に何の良い実も結ばないのです。主イエスにささげなかったものこそ、むだになるのです。主イエスを価値あるお方として受け入れない人は、自分の人生を価値のないもの、むだなものにしてしまうのです。たった一度のあなたの人生をむだにしていいのでしょうか。「もう、私の人生は残り少ないからどうでも良い。」と考えないでください。残り少ないと思うなら、本気で永遠に備えることを考えてください。また、誰も「私はまだ若い。これからどうにでもなる。」と言うことはできません。誰も明日のことは分からないのです。今日という日から、今という時から、イエスを本当の意味で自分の人生の主とし、このお方に、最善のものを献げていこうではありませんか。
二、主イエスのみこころを見失う
この世を計算づくめで生きている人は、第二に、主イエスのみこころを見失います。人生に対する洞察力を失うのです。
ロスアンゼルスのある学校で先生が生徒に「りんごは何色をしていますか。」と聞きました。生徒たちは口々に「赤」「黄色」「緑」と答えました。でも、黙って考えていたひとりの生徒が、手をあげて言いました。「先生、わかりました。りんごは白です。」先生はその生徒を誉めました。りんごが「赤」「黄色」「緑」というのは、表面の皮だけにすぎません。皮をむけば、りんごの中身は「白」です。バナナだって「緑」や「黄色」の皮をむけば「白」いのです。じつは、この先生は、人を皮膚の色や身なりで差別してはいけないということを教えようとして、そのような質問をしたのでした。この先生は、生徒たちに、人やものごとを表面で見ただけで判断しないで、本質を見るように教えたかったのです。みなさん、キリストの弟子になる、キリストから学ぶとは、人生を、この世界を、その本質で見ることができるようになることです。イエス・キリストが私たちに教えようとしておられるのは決して処世術ではありません。天の御国のこと、たましいのことです。この世の計算だけで生きている人は、主イエスが教えてくださった深い神のみこころを見失ってしまうのです。
弟子たちが「こんなむだことを!」と、マリヤのしたことを非難した時、主イエスは、マリヤを弁護して、「この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」と言われました。これは、イエスのご受難の予告でしたが、同時に、主イエスがマリヤの心の中にあったものを代弁したことばでした。マリヤは、主イエスのことばどおり、主イエスがこれから受ける苦難と死を予感していたのです。人々は、イエスをローマの支配から解放してくれる救世主として期待していました。イエスがエルサレムに入城された時、その期待は最高潮に達しました。人々は「いよいよ、イエスが旗を上げる日が来た。これでユダヤも、ローマの支配から逃れて自由になれる。」と考えました。弟子たちも「イエスが栄光を受ける日は近い。イエスが王になったら、自分たちもその右に、あるいは左に座わらせてもらえる。今までの苦労が報われるのだ。」と期待していました。しかし、イエスがエルサレムでなさろうとしていたのは、ユダヤをローマの束縛から解放することではなく、人類を罪の奴隷から解放することでした。イエスが受けようとしていた栄光は十字架だったのです。イエスはかねてから、弟子たちに「エルサレムで人々の手に渡され殺される。しかし、三日目に死人の中からよみがえる。」と預言していました。しかし、弟子たちは、イエスの預言を心に留めるどころか、自分たちの勝手な推測をふくらませていただけだったのです。
しかし、マリヤは、イエスのお心の中にあるものを見逃しませんでした。それを悟り、イエスがなさろうとしていたことに対して最も適切なことをすることができたのです。マリヤは常にイエスの足もとにいた人でした。ルカ10章には、マリヤが「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」(ルカ10:39)とあります。この時も、ヨハネの福音書によれば、マリヤは「香油…を取って、イエスの足に塗り、…髪の毛でイエスの足をぬぐった」(ヨハネ12:3)のです。イエスの足に香油を注ぎ、それをぬぐうにはイエスの足もとにいなければなりませんから、この時も、マリヤはイエスの足もとに座っていたのです。私たちは、マリヤのように主イエスの足もとに座って主のことばを聞き、また、そこでひれ伏して祈ることによって、ものごとの本質を見る目を与えられます。霊的洞察力が養われます。聖書をたんに、元気の出る書物として、私たちの慰めや励ましのためだけに使うのでも、この世でどう生きるべきかという指導書として読むのでもなく、聖書の中に輝いているもっと高く、深いものを見つけ出すために読むのです。聖書は、もっと霊的、天的なもので、私たちに主ご自身のみこころに触れさせてくれるもの、神ご自身を知らせてくれるものです。主の足もとに座ることなしには、主を知ることもなく、主のみこころを悟ることもできないのです。
マリヤは、主の足もとに座るとともに、自分の宝として持っていた香油をすべて、主イエスのために注ぎつくしました。これは、弟子たちの目にはむだに見えました。しかし、それは、主イエスに喜ばれました。そして主イエスは、マリヤのこの思い切った行為に答えて、これから受けようとしておられるご自分の苦難を、はっきりと示され、マリヤは、そのことばをイエスの足もとで聞き、悟ったのでした。自分の人生を地上的な計算だけで生きている人は決して、このように、主イエスのみこころを悟ることはありません。そして、神のみこころを悟ることなしに、人生を正しく歩むことはできません。人生は計算だけで生きていくことができるものではありませんし、計算どおりに進むものでもありません。自分の悟りに頼るのでなく、主のみこころを知り、それにゆだねていくときにはじめて正しく生きることができるのです。もし、どうしても自分の人生を計算したいのなら、そこに「主のみこころ」という要素を入れるべきです。「神の全能」を計算に入れなければなりません。天にどれだけの資産が蓄えられているかどうか、返さなければならない、自分の罪の負債がどれだけあるのかも数えてみてください。霊的なものの価値を計算に入れなけば、その計算の結果は間違ったものになってしまいます。近視眼的な計算で生きるのでなく、主のみこころを知って、それにゆだね、それに従って生きる私たちでありたく思います。
三、主イエスに仕える機会を失う
この世の計算、この世の思いに支配されて生きている人は、第三に、主イエスにお仕えする機会を失います。主イエスの価値を見失います。また、主イエスのおこころを洞察することができません。そして、その結果、主イエスにお仕えする機会を失うのです。
男の弟子たちは、最後の晩餐の時、自分たちの中で誰がいちばん偉いかという議論にうつつをぬかして、誰もイエスの足を洗うことをしませんでした。しかし、マリヤはイエスの足を香油で洗うことができました。また、他の女の弟子たちが、イエスのご遺体に香油を塗ろうとしてできなかったのに、マリヤは、この時、イエスに香油を注ぐことができました。マリヤは、他の誰もが出来なかったことをすることができたのです。なぜでしょうか。それは彼女が、主イエスに仕えるのに、自分の知恵や力に頼らなかったから、人間的な計算をせずに、自分ができる精一杯のことを思い切ってしたからです。
神は、私たちの人生にも、私たちに、神の栄光を見ることができる時、神の全能の力を体験できる機会を数多く与えてくださいました。しかし、私たちは、自分の学校の成績、仕事の経歴、預金口座の額、スケジュール表、メディカルレコードだけを見て、「これはできない。あれも無理。」と主の招きに答えなかったことはありませんでしたか。教会もまた、教会員の人数を数え、銀行口座の数字を数えるだけで終わって、そこに神の力を計算に入れず、神に信頼して一歩を踏み出さなかったために、神のみわざを見る機会をみすみす見逃してしったことはありませんでしたか。もしそうだったとしても、神は、あわれみ深い方です。私たちがそのことをこころから悔い改めるなら、もう一度と言わず、何度でもそうした機会を与えてくださいます。その時こそ、マリヤのように、主イエスを愛し、主イエスのみこころを知り、機会を逃さずに主イエスにお仕えしようではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたは私たちに、あなたに従う機会、あなたにお仕えする機会を何度も何度もお与えくださったのに、信仰を働かせることをせず、地上的な考え、人間の判断だけで何度その機会を逃してしまったことでしょうか。このレントの期間に、主が、そのすべてを、いのちさえもささげつくしてくださったことを心に深く覚え、私たちもみずからをささげきって、あなたにお仕えすることができるよう、助け、導いてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
3/11/2007