王であるキリスト

マタイ25:31-40

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25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、
25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。
25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。
25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 教会の暦は、一般の暦よりも一ヶ月早く、クリスマスの四週間前のアドベント(待降節)第一日曜日から始まります。そんなわけで今日は、教会の暦では一年の最後の日曜日になります。この日曜日は「王であるキリスト主日」と呼ばれ、イエス・キリストが全世界の王であることを覚える日となっています。私たちも、教会のカレンダーに従って、王であるキリストを思い見ながら、一年間の礼拝をふりかえり、新しい礼拝の一年に備えたいと思います。

 一、栄光の王

 イエス・キリストは「王」です。イエスが十字架にかかられる前、人々は、イエスが自らを王とし、ローマ皇帝に反逆したとして、総督ピラトに訴えました。ピラトはイエスに審問して「それでは、あなたは王なのですか。」と聞きました。これに対してイエスは「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。」と答えました。そう答えることはとても不利なことでしたが、イエスは、ご自分がローマ皇帝以上の、全世界の王、栄光の王であることを示そうとして、そう言われたのです。31節で、イエスは「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。」と言って、ご自分を「栄光の王」であると宣言しました。

 地上の王は、いくら権勢を誇ったとしても、その栄光は束の間です。ローマ皇帝以来、歴史には絶対的な権力をふるった王は現れていません。何人かの独裁者たちが、ローマ皇帝のように世界の覇者になろうとしましたが、それぞれがみじめな結末を迎えています。最近、日本で有名な音楽プロデューサが詐欺事件を起こしました。一時は年間何十億円もかせぎ、その世界に王者として君臨していた人が、たくさんの借金をかかえて、みじめな結末を迎えています。人間の栄光は、政治や経済の世界であれ、芸術や技術の世界であれ、やがて衰え消えていくものです。しかし、神の栄光は永遠から永遠まで変わることはありません。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)とあるように、キリストは今、栄光のうちにおられ、そして、やがて、栄光のうちに来られる、栄光の王です。

 ダラスにいたとき、私は「パッション・プレー」を、いつくか観に行きました。「パッション・プレー」はイエスの受難が中心の劇ですが、復活や昇天まで描きます。たいていは、イエスの役をする人が身体にワイヤーをつけ、宙にひきあげられる昇天の場面で終わるのですが、ある「パッション・プレー」では、イエスが天で、天使たちに迎えられている場面で終わりました。特殊な技術によって、イエスの姿も、天使たちの姿もまばゆいほど輝いていて、とても印象的な場面でした。神の真実の光は、地上にも輝いていないわけではないのですが、私たちは、しばしばそれを見逃してしまいます。とくに、罪を悔い改めないままでいたり、不信仰の殻の中に閉じこもったり、大きな失望があったりするときはそうです。まわりはみな真っ暗な闇でどこにも光がないように思われるときがあります。しかし、私たちは、そんなときも、私たちの王であるお方が栄光の王であり、祈り求める者に希望の光をくださり、やがてのときには、その栄光の光で世界のすべてを照らしてくださることを思って、罪から、不信仰から、失望から立ち上がることができるのです。キリストが栄光の王であることを、心から感謝しましょう。

 二、すべての人の王

 第二に、キリストは「すべての人の王」です。32-33節に「そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。」とあるように、キリストは「すべての国々の民」を治めるのです。イエスの十字架の上には「ユダヤ人の王」という「罪状書き」が掲げられていましたが、イエスはユダヤ人だけの王ではありませんでした。クリスマスの情景にかならずといってよいほど東方の博士たちが、イエスを王として礼拝したことから分かるように、イエスはすべての人の王として生まれたのです。イエスを王として礼拝したのは、ユダヤ人よりもむしろ異邦人、東方の博士でした。

 イエス・キリストは、また、クリスチャンだけの王ではありません。聖書に「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(テモテ第一2:4-6)とあるように、神はすべての人の造り主、イエス・キリストはすべての人の救い主です。聖書が、「神は唯一、救い主も唯一」と言っているのは、唯一の神と唯一の救い主キリストを信じているクリスチャンだけが正しく、立派であると言うためではありません。もし、クリスチャンがそんなふうにして自分を誇り、他を見下しているとしたら、それは大変な間違いです。唯一の神がすべての人を造られたからこそ、どの民族、どこの国の人も人間として等しい価値を持っているのです。どこの誰であっても、神の恵みにより、信仰により救われるのは、イエス・キリストがすべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになったからです。神が唯一であり、救い主が唯一であるからこそ、私たちは、互いに認め合い、愛し合い、赦しあっていくことができるのです。神は、確かに、旧約の時代にはユダヤ人を、新約の時代にはキリストを信じる者たちを神の民として選ばれました。しかし、それは、エクスクルーシブ(排他的)な選びではありません。神がユダヤ人を選ばれたのは、神が他の民族を斥けるためではなく、選ばれたユダヤの人々を通して、他の国々に神のことばがひろがっていくためでした。キリストを信じる者たちも、同じように、救い主イエス・キリストを、他の人々にあかしするために選ばれたのであり、自分たちだけが救われているという特権意識を持つためではないのです。あなたや私が選ばれたのは、私たちを通して、神がもっと多くの人を救うためなのです。「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる」神は、もっと多くの人を選び出すために、まず私たちを選ばれたのです。神の選びはインクルーシブ(包括的)な選びです。キリストを「すべての人の王」と覚えるたびに、この素晴らしいイエス・キリストを多くの人にあかしする者になりたいと願います。どこの誰にも「イエス・キリストはあなたの神、あなたの救い主です。」と確信をもって伝えていく者になりたいと思います。

 三、さばき主である王

 第三に、キリストは「さばき主である王」です。今日の多くの国では、三権分立といって、立法と政治と裁判はそれぞれ独立していますが、古代では、王が法律を作り、人々を治め、裁判をしました。王がする最も重要な仕事は、ものごとを裁くことです。王であるイエスは、人々を裁き、国々を裁きます。

 その裁きの様子は「羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分ける」ようだと32節で言われています。ユダヤでは、羊飼いが、羊に牧草を食べさせるとき、山羊も一緒に連れていきました。日中は山羊も羊の群れと一緒にいるのです。しかし、日が暮れて家に戻ったなら、羊は羊の囲いに、山羊は山羊の檻に入れました。それは、イエスの時代にはごく見慣れた情景でした。羊と山羊が一緒に飼われているのは、この世では、正しい人も悪い者も、善良な人も邪悪な者も、一緒にいるという現実を表しています。正しい人が悪い者に苦しめられ、邪悪な者が良い目を見、善良な人が悪い目を見るのが、この世の常です。しかし、一日の終わり、この世の終わりはかならずやってくるのです。そのとき、キリストは、羊飼いが羊と山羊を分けるように、正しい人と邪悪な者とを分けられます。それぞれに報いを与える時が来るのです。それは、この世にあって苦しみを受けている人々には大きな慰めです。真実を求め、正義を求めている人々にとっては力強い励ましです。

 では、王であるキリストは、何を基準に、人々を裁くのでしょうか。どういう人が祝福を受け、天国を相続し、永遠のいのちを受けるのでしょうか。第一に、キリストは、私たちの行いに応じて私たちを裁かれます。聖書は、人が救われるのは行いによらないと教えていますが、しかし、救われた人からは良い行いが出てくると教えています(エペソ2:10)。聖書は、他にも「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一3:18 )と教えています。ヨハネの黙示録で、キリストは「わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。」(黙示録2:23)と言っておられ、「そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。」(黙示録20:13)と書かれています。キリストは、私たちにそれをする力があり、機会があったにもかかわらず、しなかったことがあるなら、それを裁かれます。キリストは「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)とはっきり言っておられます。キリストに対してリップサービスは通用しないのです。

 第二に、キリストは私たちの行いの動機を問題にされます。キリストは、天の御国を受け継ぐ人々に言いました。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」(35、36節)ところが、その人たちは、きょとんとして、こう答えました。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」(37-39節)この人たちは、自分たちがしたことを全く忘れていたのです。自分のしたことを誇ったり、それを自分の「善行のリスト」に書き込んだりはしなかったのです。この人たちは、誰かにほめられるためばかりか、神に認めてもらおうとしてさえ、良い行いをしたのではありませんでした。おなかをすかしている人に食べ物を分けてあげる、渇いている人に一杯の水を差し出す、寒さに凍えている人に暖かい上着を着せてあげる、病気の人を見舞うなどといったことは、ごく当たり前のことで、「神さま、これは、あなたのためにしているのですよ。良く見て、私に報いてください。」などと言う必要もないことだったのです。ですから、この人たちは、「あなたがたがしたことは、わたしにしたのです。」と言われても、ピンと来なかったのです。キリストの裁きの座で、ある人は「私は、こんな事業もやりました。こんな奉仕もしました。」と、自分のした業績を申し立てるかもしれません。しかし、もしそれが、自分の名声のためであったとしたら、キリストはそれに報いることはないでしょう。キリストは「わたしがあなたにして欲しかったのは、そんな大きなことではなく、小さなあわれみのわざだったのだ。」と言われることでしょう。私たちのしなかったことを覚えておられるキリストは、同時に、私たちのした小さなわざも覚えていてくださいます。謙虚な心で、神の求めておられるわざに励む者にキリストは報いてくださるのです。

 第三に、キリストは私たちにほんとうの愛から出た行いを求められます。キリストは、御国を受け継ぐ人々に、「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(40節)と言われました。「最も小さい者」とは、貧しい人々、さまざまな困難の中にある人、社会的に弱い立場にある人たちのことです。しかも、信仰のゆえに財産を奪われたり、牢屋に入れられたりした人のことをさしています。現代の私たちは、とかく、有力な人に目を向け、人をその外見や地位、あるいは、他の人とのつながりだけで特別視したりします。そして、目立たない人々、古くからのつながりのない人、ほんとうに助けを必要としている人々を見落としてしまうことがあります。ひとびとの切実な必要を感じないままで終わってしまいます。他の人の必要に鈍感であることは、愛のないしるしかもしれません。私たちの愛は限られています。だから、愛を増し加えてくださいと祈り、求めましょう。キリストは、どの人をも、その人をその人として愛されました。キリストは、教会に、地縁や血縁によらないで、キリストをかしらとし、聖霊による愛によって結ばれるまじわりを求められました。初代教会にはユダヤ人も異邦人も、自由人も奴隷も、豊かな人も貧しい人もいて、そこで分け隔てのない愛が実践されました。私たちの目と心が「最も小さい者」に向かうとき、私たちは、はじめて、「最も偉大なお方」イエス・キリストを愛することができるようになるのです。

 すべての者は、クリスチャンであろうとなかろうと、王であるキリストの前に立たなければなりません。キリストが、私たちのしなかったことを問われるとき、キリストが私たちの動機を試されるとき、キリストが私たちのうちに本物の愛を求められるとき、私たちは、それに答えることができるでしょうか。そのためには、まず、自分の罪を悔い改め、キリストの十字架から来る赦しを受ける必要があります。栄光の王であるキリストは、私たちの罪の赦しのため、十字架の辱めを受けられました。すべての人の王であるキリストが、すべての人のしもべとなって、その罪の刑罰を引き受け、さばき主であるキリストが十字架の上で、私たちの身代わりに、裁かれたのです。このイエス・キリストを信じることによって、私たちは、神が私たちに望んでおられることが何であるかを知り、それを行う心と力を与えられ、神と人への愛に生かされるのです。王であるキリストを心に迎え入れ、天の御国への旅をはじめましょう。そして、その旅の終わりに「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」との声を聞くことのできる私たちであるよう、祈り、励みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、あなたが備えてくださった天の御国と、天の御国への道を示してくださいました。御国への道は、イエス・キリストの他ありません。あなたは、私たちを天の御国に招いてくださっています。信仰と悔い改めをもってあなたの招きにこたえ、愛ときよめをもってその道を歩むことができますように。王なるキリストの尊いお名前で祈ります。

11/23/2008