24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりなのです。
24:9 そのとき、人々はあなたがたを苦しみにあわせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。
24:10 そのとき多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11 また、偽預言者が大勢現れて、多くの人を惑わします。
24:12 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
24:14 御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。
前回、世の終わりの「しるし」(前兆)のうち第1の「偽キリスト」(5節)、第2の「戦争と戦争のうわさ」(6-7節)、そして、第3の「飢饉と地震」(7節)を取り上げました。今回は、残りの4つ、第4の「迫害」(9節)、第5の「背教」(10節-11節)、第6の「社会の堕落」(12節)、そして、第7の「福音の宣教」(14節)について考えてみましょう。
一、迫害
第4のしるし、「迫害」ですが、それは教会が始まった時からありました。いや、イエスが宣教を始めたときからありました。イエスを十字架に追いやった人々は、弟子たちにも同じことをしました。彼らは使徒たちを投獄し、殺そうとしましたが、神は御使いを遣わして使徒たちを牢獄から救い出してくださいました。多くの信徒たちがエルサレムから追放されましたが、それはかえって、まわりの地域に福音を広めることになりました。
福音がローマ帝国に広まると、ローマ皇帝による迫害が始まりました。それは、皇帝ネロの時代に始まり、紀元313年に皇帝コンスタンティヌスが「ミラノの勅令」を発布するまで、およそ250年続きました。
イエスは、12弟子を選んで伝道に遣わすとき、こう言われました。「人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。」(マタイ10:16-17)しかし、このようなことは12弟子がユダヤで伝道したときには起こっていません。これは、ペンテコステから今に至るまでの迫害を予告する預言の言葉でした。世の終わりには、イエスの言葉通りのことが、どのクリスチャンにも世界規模で起こるのです。
二、背教
第5のしるし、「背教」とは、いったん信仰に入った人が、自分に与えられた信仰を否定して、信仰から離れていくこと、しかも、それが大きな規模で起こることを言います。
闇の力がイエス・キリストへの信仰を捨てさせるため使う方法は二つあります。一つは「迫害」です。信仰を持ったため、苦しく、つらい思いをしなければならないのなら、信仰を捨ててしまおうと考える人も少なくないからです。しかし、初代のクリスチャンは、迫害を受ければ受けるほど、信仰を強くしていきました。それで、闇の力は、もう一つの方法、「背教」を使いました。
ローマ帝国では、392年、皇帝テオドシウスのとき、キリスト教がローマ帝国の「国教」となりました。すると、大勢の人が、悔い改めや生まれ変わりの体験を持たないまま教会に入って来ました。教会は人で溢れましたが、同時に、この世の一部になってしまいました。歴史家は「彼らは偶像を抱いたままバプテスマの水をくぐった」と言っています。この「偶像」は実際の偶像のことではなく、昔からの宗教や、この世の慣わし、また貪欲などの罪のことです。人々は、それらを抱きしめたまま、形だけの「キリスト教徒」になったのです。
そのような〝Christians In Name Only〟と呼ばれる人々は今にまで続いており、年々増えています。ヨーロッパでは人々が信仰から離れ、教会がモスクに変わっています。アメリカでも、多くの人々がイエス・キリストの福音を骨抜きにしてしまい、この世の考え方や生き方と取り替えてしまいました。聖書の教えに立つクリスチャンが「原理主義者」などと呼ばれて非難の的になり、「国内テロリスト」として監視されるようにさえなりました。一世代前には考えられなかったことでした。
中世には、修道院の改革があり、近代には宗教改革が起こり、そして、アメリカではリバイバルが起こり、人々は信仰を取り戻してきました。それによって「背教」が食い止められてきたのです。けれども、ここ最近、リバイバルや目覚ましい伝道の働きについて聞くことはありません。このまま、背教の時代に入っていくのでしょうか。背教の時代になる前に、神が、もういちど、リバイバルの恵みを注いでくださり、世界中のクリスチャンが一つになって、「イエス・キリストは私たちの罪のために死なれ、救いのためによみがえり、世をさばくために再び来られる」ことを力強く証しできるよう願います。
三、社会の堕落
第6のしるしは「社会の堕落」です。これは、ノアの洪水のときに起こりました。創世記6:11-12にこうあります。「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。」いつの時代にも、「悪」があります。しかし、同時に「善」もあって、社会の全体が堕落しきってしまうことはありませんでした。しかし、ノアの時代には、本来「善」であるべき、神を信じる者たちさえも、「悪」と混じってしまい、「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた」のです。その時代に神を信じる者は、ノアの家族8名だけでした。
創世記18章には、主がアブラハムに現れ、ソドムの滅亡を告げられたことが書かれています。ソドムには、甥のロト家族がいましたので、アブラハムはロト家族のためにとりなしました。主が「もしソドムで、わたしが正しい者を五十人、町の中に見つけたら、その人たちのゆえにその町のすべてを赦そう」(創世記18:26)と言われたので、アブラハムは、「もし40人なら」、「30人なら」、「20人なら」と言って、最後に「10人」まで人数を減らし、「滅ぼしはしない。その十人のゆえに」(同18:32)との約束を勝ち取りました。ソドムにはロト夫妻と娘たち、またソドム人の婿たちがいました。ロトは婿たちに「立って、この場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから」と言いました。しかし、彼らはそれを信じませんでした。聖書には、「しかし、彼の婿たちには、それは悪い冗談のように思われた」と書かれています(創世記19:14)。結局、ソドムには正しい人が10人もいなかったのです。ロトとその家族は、ソドムで「塩」の役割を果たすことができませんでした。ロトの妻はそれができなかったため、自分が塩の柱になってしまうという皮肉な出来事が起こりました。
世の終わりには、ノアの時代の世界やアブラハムの時代のソドムのように、社会がことごとく堕落し、ごくわずかの正しい人しか残らなくなります。そして、それが神の裁きを引き寄せるのです。カリフォルニアでは、窃盗罪があまりにも多いので900ドル以下のものなら、盗んでも罪にならないことにしてしまったそうです。そのため、窃盗の多い地域から小売店が撤退するようになりました。また、いわれのない差別が横行しています。イエスが「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えます」と言われたとおりのことが起こっています。
けれども、主を信じる私たちは、そうした中でも「地の塩」として励みたいと思います。時代が暗くなればなるほど、「世の光」として、いっそう、真理と愛の光を輝かせたいと思います。
四、福音の宣教
第7のしるしは、「福音の宣教」です。「偽キリスト」が現れ、「戦争と戦争のうわさ」があり、「飢饉と地震」などの災害が起こり、クリスチャンが「迫害」され、また、クリスチャンの中に「背教」が起こります。そして、「社会の堕落」が行き着くところまで行くのです。どれも、暗い「しるし」ばかりです。しかしイエスの言葉はそれだけで終わっていません。最後に、「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます」と、希望の言葉が語られています。
この言葉は、世の終わりに臨んで、私たちのしなければならないことが、福音の宣教であることを教えています。福音は全世界に、すべての民族に伝えられなければなりません。もちろん、誰もが宣教師になって外国に出て行くということではありません。自分の国にいて、宣教の働きのために祈り、それをサポートすることができ、それは、とても大切なことです。
アメリカには世界の各国から人々が来ています。その人の国では福音を聞く機会がなくても、アメリカに来てはじめて教会に足を運び、福音を聞いて、イエス・キリストを信じるようになった人が多くいます。いくつかの国は、今も福音に扉を閉ざしています。そうした国で伝道したら国外に追放されます。誰かにバプテスマを授けたら、逮捕され牢獄に入れられます。そのような国ではクリスチャンになることが禁じられていますが、ここでは大丈夫です。神は、アメリカにいる私たちに、多くの民族に福音を証しする機会を与えておられると思います。
そして、私たちが、福音を届けなければならないのは、なによりも、最も身近な家族です。子どもたちを導くのは、サンデースクールの教師やユースワーカーだけの仕事ではありません。それは両親や祖父母の努めです。
「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」この言葉は、イエス・キリストが、私たちの宣教の働きと証しを守り、支えてくださるとの約束です。「偽キリスト」、「戦争と戦争のうわさ」、「飢饉と地震」、「迫害」、「背教」、そして、「社会の堕落」など、どれを見ても、福音を人々に届けるのに、妨げになるものばかりです。しかし、聖書は、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(テモテ第二4:2)と言っています。イエスは、「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい」(マタイ28:19-20)と言われたあと、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(同28:20)と言われました。世の終わりが近づけば近づくほど、福音を証しすることは困難になります。しかし、イエスは、困難な時代、「世の終わり」にも私たちと共にいて、力づけてくださると約束しておられます。
「御国のこの福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての民族に証しされ、それから終わりが来ます。」この言葉は、また、神の深い愛を教えています。世の終わりのとき、神の正義の裁きに耐えられる人は、この世には誰もいません。私たちは誰もこの世と一緒に終わってしまって当然な者なのです。しかし、神は、罪の中にいて、滅びを待つばかりだった私たちをあわれんで、イエス・キリストによって、救ってくださいました。「信じる者は、誰でも、無条件で、罪を赦され、救われる。」これ以上のグッド・ニュース(福音)はありません。世の終わりに臨んでいる私たちに一番必要なものは、福音です。主は、「世の終わり」、あるいは、私たちの地上での最後の日が来る前に、一人でも多くの人が福音を聞いて、信じて、救われるようにと願っておられます。主は、世の終わりの前に福音の宣教が進むようにしてくださっています。福音宣教は世の終わりのしるしですが、一人でも多くの人を救いたいと願っておられる神の愛のしるしでもあるのです。
ペテロ第二3:9にこうあります。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」この主の心を少しでも理解したいと思います。この主の心を自分の心とし、世の終わりに臨んでいる今の時代においても、慌てず、騒がず、与えられた使命に生きる者となりたいと願います。
(祈り)
父なる神さま、主イエスが再臨を約束されてから、長い年月が過ぎました。主の言葉を信じない人々は、再臨などないと言いますが、私たちは、この長い年月があなたの愛の忍耐のゆえであったことを知っています。最後の日まで、今、しばらくの猶予が与えられています。この間に、さらに多くの人々に福音が届けられ、信じて救われる人が起こされるよう、祈ります。あなたの愛の忍耐を私たちにも与えてください。私たちを「最後まで耐え忍ぶ」者としてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
11/12/2023