24:21 そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。
24:22 もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。
24:23 そのとき、だれかが『見よ、ここにキリストがいる』とか『そこにいる』とか言っても、信じてはいけません。
24:24 偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います。
一、神殿についての預言
マタイ24章と25章の言葉は、イエスがオリーブ山で語られたものです。それで、この部分は「オリーブ講話」(Olivet Discourse)と呼ばれます。オリーブ山からは、エルサレムが一望できます。今ではクッバ・アッサフラ(岩のドーム)と呼ばれる黄金のドームが建てられていますが、その時には神殿がそびえていました。その当時の神殿は「第二神殿」と呼ばれました。ソロモンによって建てられた最初の神殿が紀元前586年にバビロンによって滅ぼされたあと、70年後の紀元前515年に再建されたものだからです。ローマがユダヤを支配した後、ユダヤの王となったヘロデは神殿の改修工事を始めました。敷地を拡張するために何百トンもの巨大な石を積み重ね、神殿を大理石や黄金で飾り立てました。それで、「第二神殿」は、やがて「ヘロデの神殿」と呼ばれるようになりました。弟子の一人は、神殿のあまりの素晴らしさに「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言いました。それを聞いたイエスは、「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません」と言って、神殿の崩壊を予告されました(マルコ13:1-2)。
ユダヤの教えによれば、「世の終わり」には神殿はますます大きく、麗しいものになって栄えると考えられていました。ですから、弟子たちは、「世の終わり」に神殿が汚され、滅ぼされると言われたことに驚きました。しかし、そうしたことは、過去にありました。マタイ24:15に「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立っているのを見たら…」とありますが、これはダニエル9:24-27に書かれている「七十週の預言」からの言葉です。
この預言で言われていることは、歴史の上では、紀元前172年にシリアの王アンティオコス4世によって起こりました。彼は、支配下に置いていたユダヤの反乱を理由に、エルサレムに進軍し、ユダヤの人々に律法に従った生活を禁じ、エルサレムの神殿をゼウスの神殿とし、そこで異教の神々への犠牲を献げさせ、神殿を汚しました。それに抵抗したのが、祭司マタティアで、その子ユダ・マカバイは、シリア軍を封じ込め、紀元前165年12月25日、汚された神殿を清めました。このことから「宮清め」の祭り(ハヌカー)が祝われるようになりました。「『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立つ」、つまり、聖なる宮が異邦人の王の侵略を受けたことは、過去にもあったことでした。この時代の記録は「マカベヤ書」に記され、旧約第二正典として残されており、ユダヤの人なら、誰もが知っていた歴史の事実でした。
イエスは、ここで、イエスの時代から200年前に起こったのと同じことが、これから再び起こると預言しておられます。そして、それは、紀元70年に現実のものとなりました。エルサレムはローマ軍に取り囲まれました。どこを見てもローマの軍旗がはためいていました。ユダヤの人々にとって、それはまさに「『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立つ」ことだったのです。
17-20節にある「ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。屋上にいる人は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはいけません。畑にいる人は上着を取りに戻ってはいけません。それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。あなたがたの逃げるのが冬や安息日にならないように祈りなさい」との言葉も、このとき、文字通りに起こりました。ローマ軍がエルサレムを取り囲んだのは、4月14日、過越祭の数日前でした。ローマ軍はエルサレムへの水と食糧の供給を絶ちました。ローマは、人々が過越祭のためエルサレムに入城するのを許しましたが、エルサレムから出るのは許しませんでした。過越祭のときにはエルサレムの人口は何倍にもふくれあがりますから、食糧不足はますますひどくなりました。ローマはユダヤの犠牲者を減らすため、ユダヤ側に降伏の交渉を試みましたが、ユダヤの人々はこの交渉人を追い払い、交渉は決裂しました。そしてついにローマ軍がエルサレムになだれ込みました。過越祭のためエルサレムに来ていた人たちは神殿に避難しましたが、エルサレムは火の海となり、神殿もまた、跡形もなく崩れ去りました。エルサレムに残った人やローマに抵抗した者はみな滅ぼされてしまいました。しかし、イエスの言葉どおりにエルサレムから逃れた人々は自分たちの命を救ったのです。
エルサレムが包囲されたとき、交渉役に立ったのが、フラビウス・ヨセフスです。彼は、自らの目撃証言を『ユダヤ戦記』という書物に書き残しています。
二、世の終わりの実現
では、マタイ24:15-20は紀元70年にすべて成就してしまったのでしょうか。確かに70年のエルサレム滅亡はユダヤの人々にとっては、「世の終わり」のような出来事でした。しかし、弟子たちが尋ねたのは、もっと先の出来事、キリストが再臨される時のことでした。イエスは、ユダヤの人々の苦難に触れながらも、ここでは、世の終わりに、ユダヤの人ばかりでなく全世界のすべての人に臨む苦しみについて語っておられるのです。
歴史を振り返ると、常に大きな戦争がくりかえされてきました。地震や飢饉、様々な災害、そして疫病で一度に多くの人々が亡くなりました。そうしたことが起こるたびに、「これが世の終わりの苦しみだろうか」と思われてきました。ここ数年のパンデミックによって、そんな思いを持った人も少なくなかったと思います。しかし、イエスが「まだ終わりではない」、「これらはすべて産みの苦しみの始まりである」と言われたように(6、8節)、今まで起こったことは、世の終わりの「前兆」でした。しかし、いよいよ世の終わりとなるときには、もっと大きな苦しみが全世界の誰にも臨むと言われました。21節で、「そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです」と言っておられるとおりです。
この苦しみは、その規模において、今までのものとは比べ物にならないだけでなく、その性質においても異なっています。イエスは24節で、「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうと、大きなしるしや不思議を行います」と言われましたが、「前兆」の中でも「偽キリスト」や「偽預言者」については言及されていました。そこで言われていたものは、今まで起こった異端や、カルト集団のリーダーたちのことですが、世の終わりの直前に登場する「偽キリスト」はそれ以上のもので、聖書の別の箇所では「反キリスト」や「不法の者」、また、「滅びの子」と呼ばれています。テサロニケ第二2:3-4にこう書かれています。「どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。」15節の「『荒らす忌まわしいもの』が聖なる所に立つ」というのは、まさに、反キリストが自らを神とし、神の座に着くことを指しているのでしょう。
この「反キリスト」、また「不法の者」はおそらく、世界宗教のようなものを作り、そこから世界政府が生まれ、政治や経済、人々の生活のすべてを支配するようになるでしょう。世界を一つにすることは、今までは不可能だと思われてきました。しかし、近年、「宗教の違いがあるから戦争になるのだ。国と国とが衝突して戦争が起こる。だったら、宗教を一つにし、世界を一つの政府が治めればよい」という考えが広まり、それが実行されつつあります。正しいこと、善いことで世界が一つになるのならいいのですが、神に逆らう力、偽りの教え、悪と欲望によって世界が一つになることほど恐ろしいものはありません。この世界政府は、最初は耳障りのよいことをいい、繁栄を約束するでしょうが、実際は人々から自由を奪い、夢を奪い、人々を政府の奴隷にするのです。とりわけ、信仰を持つ者、キリストに従う者たちを徹底的に弾圧します。世の終わりの苦しみは、世界規模のものであると共に、人々から人としてのを尊厳を奪い取る悪魔的なものなのです。
世界宗教や世界政府がいつ、どのような形で実現するのかは私たちには知らされていませんが、その準備が着々と進んでいることは、最近の世界情勢を見れば明らかです。イエスと使徒たちが繰り返し警告しているように、「偽キリスト」や「偽預言者」に惑わされないよう、しっかりと聖書の教えに立ち、互いに信仰を励まし合っていきたいと思います。
三、希望と慰めの言葉
イエスの預言によれば、世の終わりには、今までになかった苦難がやってきます。それを考えるととても不安になります。しかし、信仰者には、苦難を通り、それに勝利された主イエスがおられます。イエスは言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)パウロも「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」(使徒14:22)と言いましたが、同時に、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りない」(ローマ8:18)、また、「私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」(コリント第二4:17)と言って、苦難は「一時」でしかないと言っています。
聖書にこうあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(コリント第一10:13)どんな苦しみ、試練の中にも必ず「脱出の道」、「救いの道」があると教えているのです。私たちは、人生のさまざまな場面でそのことを体験し、この御言葉が真実であることを知っていますが、この御言葉は世の終わりにおいても真実です。イエスは「もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます」(22節)と言われました。世の終わりの試練といえども、神は、神に頼る者がそれに耐えられないようにはなさらないのです。
「不法の者」、反キリストは世界を征服し、神にとって代わったようにふるまうでしょう。しかし、それはほんの一時。まことの神、ほんとうのキリストが再臨され、「反キリスト」は滅ぼされてしまうのです(テサロニケ第二2:8)。悪の支配は永遠ではありません。したがって苦しみも長くは続きません。キリストを信じる者には、苦難に会うとき、忍耐するよう教えられていますが、その忍耐は果てしもない忍耐でも、報いのない忍耐でもありません。救いの時が来るまでのしばらくの忍耐です。それは、報われる忍耐です。
テサロニケ人への手紙第二は、キリストの再臨についての教えを、次の言葉で締めくくっています。「ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。」(テサロニケ第二2:15-17)聖書の教えはすべて希望と慰めの教えです。「主は信じる者と共におられる。主はあらゆる患難から救い出してくだだる。苦しみの時はほんの一時。」この希望によって、慰められ、強められ、良いわざとことばに励む者となりたいと思います。
(祈り)
私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを与えてくださった父なる神さま、あなたがくださった、この望みをしっかりと握りしめ、それによって互いに慰めあい、励まし合って、主イエスの再臨を待つことができるよう、私たちを強めてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。
11/19/2023