20:29 彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。
20:30 すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
20:31 そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫び立てた。
20:32 すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」
20:33 彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」
20:34 イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。
今朝も、「聖書読み会」で読んだマタイの福音書の中からお話しします。先週は、19章からイエスに従いきれなかった金持ちの青年のことを学びましたが、今朝は、20章からイエスに従ったふたりの盲人のことを学びます。19章に出てきたあの金持ちの青年は、イエスに従うことの価値が見えず、イエスのもとから悲しんで去って行きましたが、ふたりの盲人は目が「見えるようになり、イエスについて行」きました。なにもかも恵まれた「金持ちの青年」と、人生のどん底にいたような「ふたりの盲人」、いかにも対照的な二組ですが、イエスに出会った後の彼らの人生もまるで違っています。金持ちの青年は失望してイエスから去り、ふたりの盲人は希望に満たされイエスに従っていきました。なぜ、このような違いが生まれたのでしょうか。私たちも、どうしたら、心の目が見えるようになって、救い主キリストに従う生活ができるようになるのでしょうか。そのことをごいっしょに考えてみましょう。
一、必要を知る
第一に、金持ちの青年とふたりの盲人は、自分の必要を知るという点で違っていました。あの、金持ちの青年は、イエスに「戒めを守りなさい。」と言われた時、「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」と返事をしました。イエスが、金持ちの青年に「戒めを守りなさい」と言われたのは、人が完全に神の戒めを守ることができ、戒めを守ることによって自分を救うことができると言おうとされたのではありません。イエスはこの青年に「人は神の戒めを守りきることができない、弱い存在である。自分の罪に気づき、罪のゆるしをえるために救い主にたよる必要がある。」ということを教えようとされたのでしたね。ところが、彼は「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」と返事をしています。彼は、自分には欠けたところがないと思っているのです。彼は、本当の自分の姿が分かっていなかった、自分の本当の必要が見えていなかったのです。
ところが、ふたりの盲人は「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられた時、即座に「主よ。この目をあけていただきたいのです。」と答えました。ふたりの盲人は、自分たちに欠けたもの、足らないもの、無いものが何であるか、はっきり分かっていました。彼らには、他の人が見えるものが何一つ見えなかったのです。彼らには光がなかったのです。今でこそ身体の不自由な人も仕事を持つことができるようになりましたが、当時は、目の見えない人は、どんな仕事もできず、乞食をする他ありませんでした。目の見えない人たちは神の刑罰によってそうなったのだなどと人々から思われ、さげすまれていました。それに、目の見えない人は神殿で神を礼拝することも許されていませんでした。当時の盲人は、視力を失ったばかりでなく、家族の愛も、社会的な立場も、そして、最後のよりどころとも言える宗教的なささえさえ失っていました。盲人たちは、自分たちに何も無いことを良く知っていました。無いことを知っていたからこそ、彼らはキリストに願い、求め、それを得ることができたのです。
金持ちの青年は、さまざまなものに恵まれていました。彼は善良な人でした。健康に恵まれていました。能力もあり財産にありました。彼は、そのために自分に欠けたものを見失っていたのです。人間はすこしばかり善良であると自分には罪がないと思ってしまい、健康や能力、財産に恵まれていますと、神に頼らずとも自分の力でやっていけると考えてしまうものです。ですから、多くの人は、自分が頼っていたものが無くなってはじめて神を求めます。先週、三浦綾子さんの秘書をしていらした宮嶋裕子さんから、三浦綾子さんは、とても頭の良い方で、ギブスベッドで寝たきりの時も、アイデアを生かしてちゃんと収入を得ていたということを伺いました。そんな三浦綾子さんですから、キリストを信じ、神に頼ることに抵抗があったことでしょう。けれども彼女は、健康を取り去られてはじめて、自分には神が、キリストが必要だと分かったのです。そして、それが分かった時、彼女に救いが来たのです。
最近「親分はイエス様」という映画ができました。ヤクザだった人々が悔い改めてキリストを信じ、その人生を百八十度変えられ、そのうちの幾人かが牧師になっていくという実話を映画にしたものです。もとヤクザだった人の伝道チームがあってそれは「ミッション・バラバ」というのですが、その代表の鈴木先生がアメリカ大統領の晩餐会に出た時、彼のあかしを聞いたユダヤ人のラビが「私は今晩にキリストに出会った」とあかししたと話しておられました。鈴木先生のあかしにキリストを否定してきたラビさえも、私たちの人生を造り変えてくださるキリストのみわざを認めざるをえませんでした。「ヤクザがクリスチャンに」なるにはいろいろ難しいことが多いでしょうが、しかし考え方によっては、「ヤクザがクリスチャンになるほうが、一般の人がクリスチャンになるよりやさしい」かもしれません。なぜなら、一般の人は自分たちは善良で罪がないと思い込んでおり、それが神に近づくことを妨げているからです。しかし、ヤクザは人生の裏街道を歩き、いろいろな悪いことを重ねて、自分たちが罪人であることを十分に知っていますから、聖書のメッセージが届きやすいかもしれません。自分の罪を知っている人は、それを否定している人よりも神に近いからです。
自分たちは大丈夫、自分たちには知識があってイエスから教えられることなど何もないと言い張っていた人々に、イエスは言われました。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。…あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:39-41)金持ちの青年は、肉体の目は開いていましたが、魂の目は曇っていました。自分の本当の必要に気付かず、それが見えなかったのです。しかし、この盲人たちは自分に足らないものが何かをちゃんと見ていました。あなたはいかがでしょうか。自分の目が「見えていない」ことにお気づきでしょうか。あなたは、自分の本当の必要をご存知でしょうか。
二、キリストを信じる
第二に、金持ちの青年とふたりの盲人は、それぞれのキリストに対する信仰が違っていました。金持ちの青年はイエスを「先生」と呼んでいましたね。彼は、イエスを「偉い先生」か「預言者」としてしか見ていませんでした。しかし、ふたりの盲人は「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」と叫んでいます。イエスを「キリスト」「救い主」として信じていましたのです。神はダビデに、その子孫から、神の民を治める王、つまり救い主が出ると約束されました。ですから「ダビデの子」というのは、救い主キリストを指していたのです。ふたりは、イエスを「ダビデの子」、聖書で約束された救い主として信じました。しかし、それは、盲人たちがやみくもにそう信じたのでなく、彼らの信仰は聖書に基づいていました。ふたりの盲人は、イエスが目の見えない人々の目を開かれたこと、耳の聞こえない人を聞こえるようにしたこと、足のきかない人を立たせ、口のきけない人が話ができるようにされたことを聞いていました。同じハンディキャップを持ったもの同志には、そういう情報というものはまたたく間に伝わるものです。そして、彼らの心の中で、イエスのみわざとイザヤ書の預言とが結びついたのでしょう。「心騒ぐ者たちに言え。『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。』そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。」(35:4-6)救い主がやってくる時、「盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う」ようになるというのです。ふたりは、イエスについて限られた知識しかなかったでしょうが、神のことばによってイエスが約束の救い主であると信じたのです。
先ほど読みましたイザヤ書のことばは、救い主が来られる時、救い主から真っ先に恵みを受けるのは、肉体的に、知的に、社会的に、ハンディのあるものたちだと言っています。これは、ハンディを持った人々には大きな励ましであったことでしょう。ふたりの盲人はイエスが聖書のことばのとおりに、この世で貧しい人々、弱い人々に目を向けてくださったことを聞き、イエスを「自分たち」の救い主として感じ取ることができたのだと思います。イエスを救い主として信じるというのは、単に、「イエスがキリストである」という知識を持つこととは違います。イエスを「私」の救い主として心に迎えることです。
ふたりの盲人は聖書によってイエスがキリストであると知り、キリストを他の誰の救い主でもない、自分たちの救い主だと信じました。そして、それだけでなく、このふたりは、イエスが自分たちを今、ここでお救いになることができると信じました。ふたりの盲人は、イエスに「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられた時、即座に「主よ。この目をあけていただきたいのです。」と答えましたね。これは、イエスが自分たちの目を開けてくださると信じていればこそ出来た返事ですね。皆さんだったら、イエスに「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられたら、どう答えるでしょうか。私は、もし、私が盲人だったらどう答えるだろうかと、考えてみました。おそらく、「杖がほしい」「世話をしてくれる人がほしい」「もっと道を歩きやすくしてほしい」としか言えないだろうなと思ってしまいました。もし、私の目が見えなかったら、ほんとうの願いは「目をあけてほしい」ということだったでしょうね。しかし「それはあまりにも大きいことでそう簡単には起こらない」という概念が私の中にあったのかもしれません。キリストに対する信仰は、そうしたものを乗り越えて、キリストとキリストの救いの力を自分のものにすることなのです。
エリコには盲人はふたりだけではなかったはずです。他にも大勢いたでしょう。他の盲人たちもイエスが盲人の目を開けられたことを聞いていたでしょう。しかし、他の盲人たちは、それを自分のこととして受け取りませんでした。そんな中で、このふたりは、イエスは自分たちのこの目を開けてくださると信じたのです。神を信じるという人に、神はそのような信仰をお求めになります。もちろん、奇跡は神がなさることであって、いつどんな場合でも聖書にある目に見えるさまざまな奇跡が同じように起こるとはかぎりません。しかし、神が、今も、私たちの罪をゆるし、きよめ、新しくしてくださるということ、最悪の問題を最善の結果にしてくださると信じる信仰は、今日も、私たちに求められています。そして、神の救いの力は、そのような信仰を通して、私たちに働くのです。ふたりの盲人は、あの金持ちの青年が見逃していた真理、「神にはどんなことでもできます。」という真理を受け入れたのです。
三、願い求める
第三に、金持ちの青年とふたりの盲人はキリストに対する求め方において違っていました。金持ちの青年は、確かに熱心に、イエスのもとに走りより、ひざまずいて、イエスに問いましたが、躓きを覚えると、たった一度のトライアルだけでイエスのもとから去っていきます。なぜ、イエスの前で正直になれなかったのでしょう。「私には捨てきれないものがあります。どうしたら良いのでしょう」と、もっとイエスに問い詰めなかったのでしょうか。イエスもきっとそうすることを願っておられたに違いありません。ひとつ、ふたつの躓きで主のもとを去ってはいけません。一度、二度の失敗でイエスから離れてはいけません。イエスは「七の七十倍までも人を赦せ」と仰いました。私たちにそう教えられたお方が、七の七十倍までも私たちを赦してくださらないわけがないのです。イエスは、あっさりとイエスのもとを去っていく人ではなく、しつこくイエスを呼び求める人を喜んでくださるのです。
ふたりの盲人は、イエスが救い主であり、自分たちの目を開いてくださると信じた時、誰が止めるのも聞かず、ひたすらに叫び続けました。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」人々が盲人たちを黙らせようとしたのは、当時、ユダヤの指導者たちがイエスをキリストと言い表わす人々をユダヤ社会から締め出そうとしていたからでした。いくら盲人あっても、大声で「ダビデの子イエスよ」と叫ぶのは、トラブルのもとだと、人々は思ったのでしょう。でも、ふたりの盲人には、そんなことなどどうでもよいことでした。彼らは、まわりの人が彼をとりおさえ、黙らせよう、静まらせようとすればするほど、激しく叫びつづけました。そして、その声はイエスに届いたのです。イエスは本気でイエスの名を呼び求める人の声を聞いてくださるのです。イエスを心で信じる信仰を口でも言い表わしましょう。そして、キリストのお名前によって神に祈り求めましょう。ローマ10:13に「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」とあるように、その時、私たちに救いが来るのです。
(祈り)
神様、今朝は、あなたを信じる者たちに信仰のあり方を教えていただくと共に、あなたを求めておられる方々にも、どのようにあなたを求めるべきかというチャレンジを与えてくださいました。どうか、今、あなたを求めておられる方々がイエスを自分の救い主として心に信じ、口で告白して救われますように。信仰を求める中で躓きや、困難、恐れを持つようなことがあっても、あなたに励まされて何度でもそこから立ち上がり、あなたを呼び求めることができますように。私たちの叫びに耳を傾けてくださるイエス・キリストの名によって祈ります。
8/19/2001