2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
今日は、クリスマス。クリスマスが日曜日になったのは、前回は1994年で、9年ぶりです。この次、クリスマスが日曜日になるのは6年後の2011年になります。クリスマスが日曜日だと、祭日が一日減って損をしたような気持ちになる人もありますが、日曜日、礼拝の日に「クリスマス」をお祝いできるのは、二重の祝福をいただけるようにも思え、とても幸いなことです。今日は、今年最後の礼拝でもありますから、一年の感謝も込め、いつもの二倍、三倍の大きな感謝を神にささげたいと思います。
さて、今年のクリスマスは、イエスのお名前をいくつかとりあげて学んできました。最初に「イエス」というお名前、次に「インマヌエル」というお名前、そして「王」というお名前について学びました。今日は、それぞれの意味をおさらいしませんが、皆さんは、しっかりと理解しておられると思います。イエスにつけられたお名前は、他に120以上もありますので、ぜひそれらを学んでいただきたいと思っています。私たちは、「イエスのお名前によって祈ります。」と、イエスのお名前を唱えて祈っているのですから、イエスのお名前を多く知れば知るほど、また深く知れば知るほど、より良く祈ることができると思います。
今朝は、「キリスト」というお名前について学びますが、私たちは「イエス・キリスト」と呼びならわしていますので、「『イエス』はファースト・ネームで、『キリスト』はラスト・ネームでしょう?」と思っている人も少なくないと思います。イエスは確かにファースト・ネームですが、キリストはラスト・ネームではありません。当時はラストネームというものはなかったのです。イエスも出身地がナザレでしたので、「ナザレのイエス」と呼ばれたり、養父がヨセフでしたので、「ヨセフの子イエス」などと呼ばれました。では、「キリスト」とはいったい、どこから来た、どういう意味の名前なのでしょうか。
一、イエスは「キリスト」
「キリスト」という名前は、ヘブル語の「メシア」から出たもので、「油注がれた者」という意味があります。日本語で「油を注ぐ」というと、「火に油を注ぐ」などという言い方があり、何か危険な響きを感じます。私は、ガソリンを身体にかけて焼身自殺をした人のことを思いだしたりしてしまいます。しかし、聖書でいう「油」は「灯油」でも「ガソリン」でもなく、「香油」のことですので、ご安心ください。香油は、古代にはたいへん高価なものでしたが、神聖な儀式の時にはふんだんに使われました。そして、香油を注ぐということには、およそ三つの意味がありました。
第一に、それは「きよめる」という意味があります。旧約の時代に、人々は神殿で礼拝をしましたが、神殿には、洗盤、祭壇、机、燭台、香壇などのさまざまな器具がありました。こうしたものは、香油を注がれ、きよめられたのです。祭司が身につける装束ばかりでなく、祭司自身にも香油が注がれました。罪ある人間は、きよめられなければ、神に近づくことも神に仕えることもできないからです。らい病人も、その病気がいやされた時は、きよめのため、香油をからだに注ぎかけられました。「油注ぎ」は「きよめ」を表わし、したがって、「油注がれた者」、「キリスト」には「きよめられた者」「聖別された者」という意味があります。
そして、「油注ぎ」の油、香油は、聖霊を指し示しています。聖霊は「神の霊」「主の霊」とも呼ばれ、人間の内面で働いてくださる神です。神殿のさまざまな器具や、祭司、またらい病人に香油が注がれて、それがきよめられるというのは、香油そのものに物をきよめ、人をきよめる力があるからではなく、香油が指し示している聖霊なる神がそのことをしてくださるからなのです。
イエスが「キリスト」と呼ばれるのは、この聖霊の油そそぎによって、人間のどんな罪からも完全にきよめられたお方だからです。イエスが聖霊によっておとめマリヤから生まれたということがそのことを示しています。聖書は、キリストは「女のすえ」から生まれると預言しています。つまり、天使のように天からやってくるのではなく、人間となって生まれて来るのです。また、キリストは「アブラハムの子孫」として生まれるとも預言しています。世界中にはさまざまな民族がありますが、キリストは、アメリカ人でも、日本人でもなく、アブラハムの子孫、つまり、ユダヤ人として生まれるのです。そして、キリストは「ダビデの子孫」として生まれると約束されていました。イエスの養父となったヨセフも、母マリヤもダビデの家系で、イエスはダビデの子でした。しかし、イエスがアブラハムの子孫、ダビデの子であっても、もし、ヨセフとマリヤの子として生まれたのなら、イエスはキリストではありません。なぜなら、男女を父親、母親とする者はすべて、アダムとエバが罪を犯して以来、その先祖から引き継いで来た罪の性質を持って生まれてくるからです。罪を持っている者は、他の人をその罪から救うことは出来きませんから、イエスはキリストでなくなります。イエスは、聖霊によってマリヤに身ごもることによって、人として生まれながら、一切の罪からきよめられ、私たちをその罪から救うことがおできになったのです。イエスこそ、いっさいの罪からきよめられた、キリストです。
「油を注ぐ」ということは、第二に「神の選び」を意味します。旧約の時代、祭司は油を注がれ、神に仕える者として選ばれたのですが、祭司の他にも、王や預言者も神によって選ばれ、油を注がれて、その職務に就きました。そして、その「油注ぎ」は「聖霊の注ぎ」を表すものでした。イスラエルの最初の王サウルやダビデは「聖霊の注ぎ」を受けています。サウルは、預言者サムエルから「神があなたをイスラエルの王として選んだ。」との知らせを聞いた後、神の霊が自分の上にくだるという特別な体験をしています(サムエル第一10:6, 10)。サウルがヤベシュの人々を救った時にも神の霊がサウルに激しくくだっています(サムエル第一11:6)。ところが、サウルが神に対する不従順を悔い改めなかったため、「主の霊はサウルを離れ」ました(サムエル第一16:14)。それで神は、エッサイの息子たちの中から、サウルにかわる王を選ぶようにと、サムエルに命じました。サムエルは、エッサイの長男エリアブを見た時、彼が「確かに、主の前で油そそがれる者だ。」と思いましたが、神は、エリアブを選んではおられませんでした。その時神はサムエルに「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」と言われました。次男のアビナダブも、三男もシャマも神が選んだ人物ではありませんでした。最後に八番目の男の子、末っ子のダビデが連れてこられた時、神は「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」と言われました。その時から、主の霊がダビデの上に激しくくだるようになったのです(サムエル第一16:1-13)。一般の仕事では、特別な役職につく人には、誰もが認めることのできる能力や、経歴、人柄などが求められますが、神への奉仕においては、その人の生まれつきの能力や、経歴、人柄だけではなく、「聖霊の注ぎ」が必要なのです。神の選びは、人間的なものによって量られるのではなく、霊的なもので量られるのです。
イエスは、そのような意味で、まさに、神に選ばれ、聖霊を注がれた「キリスト」です。イエスは、およそ三十歳になられた時、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになりました。その時、天が開け、聖霊がイエスの上にくだりました。イエスは、この聖霊の力によって、さまざまな奇蹟を行い、力あるわざをなし、権威をもって人々を教えたのです。バプテスマの時、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という天からの声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子」というのは、詩篇2:7に、「わたしはこれを喜ぶ」というのはイザヤ42:1にあることばです。とくに、イザヤ42:1の「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」ということばは、イエスが「神に選ばれたキリストである」ということを示しています。神ご自身が、イエスはキリストであると、宣言しておられるのです。バプテスマのヨハネも、イエスはキリストであると証言して、「御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。…私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しています。」(ヨハネ1:32-34)と言っています。イエスは、バプテスマの時、香油ではなく、水を注がれたのですが、その水は、「聖霊のそそぎ」をあらわしていました。イエスは、バプテスマの時、「聖霊のそそぎ」という本物の「油注ぎ」を受けていたのです。
第三に、「油を注ぐ」というのは「神を喜ばせること」を意味します。嫌な臭いをかぐと気分が悪くなり、良い香りをかぐと気持ちが良くなるように、香油には人の心を喜ばせる作用があります。旧約の時代、穀物のささげものをする時には、それに乳香を加え、焼きました。そのかおりが天にのぼる時、神はそのかおりを喜んでくださるのです。
イエスがバプテスマを受けた時、天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」という声がありましたが、まさに、イエスは、神が喜ばれる神の子であり、また、神を喜ばせることに専念した神のしもべでした。イエスは、その生涯を、ご自分を喜ばせるためにではなく、神に喜ばれることのために用いられました。エペソ5:1-2に「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」とあります。このことばの通り、イエスは、あの十字架の上で、私たちの罪のためにご自分のすべてをささげてくださいました。イエスは、香油を注がれた供え物が祭壇の上で完全に焼き尽くされるように、ご自分を私たちの救いのために使い果たしてくださったのです。ご自分を神に喜ばれるいけにえとささげられたイエスこそ、油注がれた者、「キリスト」です。
天使は、クリスマスの夜、「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と宣言しました。きよい神の子として生まれ、聖霊のそそぎを受け、ご自分を神にささげられたお方、このイエスこそキリストです。それで、私たちは、「イエスはキリストです。」という信仰を込めて、このお方を「イエス・キリスト」と呼ぶのです。
二、「キリスト」への信仰
ベツレヘムに生まれたイエスがキリストなら、私たちは、このお方に対してどう答えるべきでしょうか。イエスがお生まれになった時、人々は、イエスに対してどう応答したでしょうか。マタイ2章には、四種類の反応を見ることができます。
第一は、ヘロデの反応です。東方の博士たちがエルサレムにやって来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」と言っているという知らせは、ヘロデの耳にも達しました。マタイ2:3によると、それを聞いたヘロデ王は「恐れ惑った」とあります。なぜなら、ヘロデ王はエドム人であるのに、ローマの元老院に取り入って、「ユダヤ人の王」という称号を得たからでした。彼は、猜疑心の強い人物で、自分の王位を狙うものは、自分の息子であっても、次々に殺していきました。それで、人々は「ヘロデの息子になるくらいなら、ブタになったほうがましだ。」と言ったほどでした。このヘロデが、「ユダヤ人の王」誕生の噂をだまって見過ごすはずはありません。彼は祭司長たちや律法学者たちをみな集めて、「キリストはどこで生まれるのか。」(マタイ2:4)と問いただしました。東方の博士たちは「ユダヤ人の王はどこにおいでになりますか。」と尋ねたのですが、ヘロデは「ユダヤ人の王」を「キリスト」という言葉で置き換えています。「自分こそユダヤ人の王だ。」という思いからそう言ったのでしょうが、ヘロデも「ユダヤ人の王」が聖書が預言している「キリスト」であることを知っていました。もし、まことの王、キリストが生まれたのなら、ヘロデはその方に王座を譲らなければならないのに、彼は、自分の王座を保つために、本当の王を亡き者にしようとしたのです。ヘロデは、ひそかに博士たちを呼び、キリスト誕生を知らせる不思議な星を見た時間をつきとめ、それが二年前であることを知りました。ヘロデは博士たちに「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」と言いましたが、実際は、ベツレヘムの二歳以下の男の子を皆殺しにする計画を立てていたのです。油そそがれたお方、キリストを殺そうとするとは、なんと恐ろしい罪でしょうか。クリスマスを祝う人々には、まさかヘロデのような恐ろしい思いはないと思いますが、イエスを自分の人生の主として受け入れようとしない頑固な思いはあるかもしれません。自分の人生の主は自分であると、自分を王さまに、女王さまにして、ほんとうの王であるキリストを、人生にお迎えしていないということはないでしょうか。このクリスマスが、あなたの心の王座から偽物の王を追い払い、本物の王、キリストを迎え入れる時となるよう、願っています。
第二に、祭司長、律法学者たちの反応があります。祭司長、律法学者は「キリストはどこに生まれるのか。」という質問に、すぐさま「それは、ベツレヘムです。」と答えることができました。聖書にはキリストについての預言で満ちているからです。しかし、彼らのうちひとりでも、キリストを求めてベツレヘムに行ったでしょうか。いいえ、誰一人、ベツレヘムに行く者はありませんでした。エルサレムからベツレヘムへは、およそ6マイルしかありません。行こうと思えばすぐにでも行くことができたはずです。祭司長、律法学者には「知識」はありましたが「信仰」がありませんでした。「信仰」に知識は必要です。しかし、どんなに知識だけを増やしても、それが信仰と結びつかなかったなら、何にもなりません。今年、「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3)を標語に掲げてきましたが、「主を知る」ことと、「主について知る」こととは違うのだということを分かっていただけたでしょうか。聖書やキリスト教、また、教会のあのこと、このことを知っているからと言って、それがその人を救うのではありません。神は、私たちに、イエス・キリストへの信仰、キリストを求める心、キリストへの信頼や愛を求めておられるのです。
第三に、民衆の反応はどうだったでしょうか。マタイ1:3に「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」とあります。ヘロデが恐れ惑った理由は分かりますが、民衆までも、ヘロデと同じようだったというのは、意外ではありませんか。民衆はまことの王、キリストを待ち望んでいたのではなかったのでしょうか。残念なことに、キリストを待ち望んでいたのは、わずかな人々で、多くの人々はヘロデがユダヤ人でなくても、ダビデの子孫でなくても、また、彼が人間としては最低の人物であっても、そんなことはどうでも良い。祖父はエドム総督、父はユダヤ行政長官という政治家の家柄があって、ローマの元老院に太いパイプを持つヘロデが、ユダヤとローマの仲をうまくとりもってくれればそれでいいではないかと、考えていたのです。偽者の王ヘロデが本物の王キリストを亡き者にしようとしたように、民衆もまた偽者の平和で満足し、本物の救いを求めてはいなかったのです。世の中では、いわゆる「ブランドもの」の模造品が出回り問題になっています。飾り物やハンドバッグなら、模造品でもかまわないかもしれません。中には模造品のほうが丈夫にできている場合もあるそうです。しかし、たましいの救いは、偽者、模造品では何の役にもたちませんし、かえって有害です。私たちは、本物のキリストを本物の信仰をもって求めたく思います。
第四は、東方の博士たちの反応です。彼らは、キリストがベツレヘムで生まれると知るとすぐに、ベツレヘムに向いました。東方で見た星が再び現われ、彼らを導きました。マタイ2:9-10に「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」とあります。探し求めてきたお方にいよいよお会いできるという、博士たちの喜びが、「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」ということばに見事に表現されていますね。私たちも、この博士たちのように、喜びをもって、クリスマスの中心であるキリストを礼拝しましょう。「キリストはどこに」という質問を、ヘロデ王のように邪悪な動機からではなく、博士たちのように純粋な動機で問いかけましょう。祭司長たちや律法学者たちのように冷たい心でも、エルサレムの人々のように無関心な心でもなく、イエスこそ、きよい神の子、神が選んでくださったキリスト、私たちを愛してご自分をささげられた救い主として、心に受け入れ、愛し、仕えようではありませんか。「いざ、もろとも、主を拝せよ。ベツレヘムに主はあれぬ。彼こそは主の主にませ。行きて拝せよ。行きて拝せよ。行きて拝せよ。神の子を。」今日のクリスマス、この賛美のとおり、私たちの主イエス・キリストに近づき、このお方を礼拝しようではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、聖書の預言の通りに、キリストを与えてくださり、こころから感謝いたします。クリスマスの夜、天使が「この方こそ、主キリストである。」と宣言しました。イエスこそキリストです。私たちは「イエスはキリストである。」と告白し、イエス・キリストのお名前を賛美します。クリスマスを祝うおひとりびとりが、さらにキリストのお名前を深く知り、その名をほめたたえるものとなりますように。私たちの王、インマヌエル、またキリストでる主イエスのお名前で祈ります。
12/25/2005