2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
聖書では、イエス・キリストはいくつもの名前で呼ばれています。今年のアドベントは、マタイの福音書から、そのお名前を拾い出して、その意味を考えています。最初にとりあげたのが、マタイ1:21の「イエス」というお名前でした。「イエス」には「神は救う」という意味がありましたね。イエスは、私たちをその罪から救ってくださるお方です。先週はマタイ1:23から「インマヌエル」というお名前をとりあげました。「インマヌエル」とは、「神、われらと共にいます」という意味で、これは、イエスが私たちと共にいてくださるお方であることを教えてくれました。今朝は、イエスが「王」と呼ばれていることの意味をご一緒に考えてみましょう。
一、王であるイエス
今から二千年前、イエス・キリストがお生まれになった時、東方の博士たちがエルサレムにやってきて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」(マタイ2:2)と尋ねました。彼らは、キリストが「王」であることを知っていました。当時、ユダヤにはヘロデという王がいました。彼は、エドム人で本当ならユダヤ人の王になることなどできなかったのですが、ローマの元老院にとりいって、ユダヤ人の王という称号を手に入れたのです。聖書は、救い主は、ダビデの子孫から、王として生まれると預言しているのですが、ユダヤではダビデ王朝が滅びて久しく、ローマ帝国の属国となり、その手先であるヘロデが「ユダヤ人の王」となっていたのです。しかし、神は、その約束を忘れず、イエスは、聖書の預言のとおり、王として生まれてくださいました。マタイ1章に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」が書かれていますが、この系図はイエス・キリストがアブラハムの子孫、ダビデの子孫として生まれた、正真正銘の「王」であることを証明しています。マタイ1章の系図は、私たちにとっては、なかなかなじめない箇所ですが、この部分はイエスが王であるということについてとても大切なことを伝えているのです。
イエスは、おおやけの生涯に入られてから、ご自分が王であることをさまざまな形で示されました。マタイ5〜7章にある「山上の説教」は、イエスが王として、その国民に憲法を与えている部分であると言うことができます。イエスは、ご自分の教えを、たんなる教師としてでなく、「権威ある者」として語り、聞く者にそれを受け入れ、実行することを要求しておられます。
イエスは五つのパンと二匹の魚で五千人以上の人々に食べ物を与えるという奇蹟を行いましたが、この奇蹟はイエスが「王」であることを示すものでした。王には、その国民にパンを与えるという責任があるのですが、イエスは、この奇蹟によって、ご自分が王であることを示されたのです。それで、パンの奇蹟を体験した人々は、イエスを王にしようとイエスの後を追いかけたと、ヨハネ6:15には書いてあります。イエスは、確かに王でした。しかし、イエスはこの世の王とは違います。それ以上のお方でした。パンの奇蹟を体験した人たちは、イエスをまことの王として受け入れたのではなく、イエスを王として立て、ローマ帝国に刃向かい、民族の独立を勝ち取ろうとしただけだったのです。イエスがいれば、ローマを奇蹟によってやっつけることが出来、戦いで傷ついた兵士をいやしてもらえ、籠城してもいくらでも食べ物を増やしてもらえるので困らないと思ったのでしょう。イエスが持っておられる神の力を政治的、軍事的に利用しようとしたのです。彼らは自分たちの思い通りになる「王」を求めたにすぎませんでした。イエスは、そうした人々とは一線を引き、彼らから遠ざかりました。
イエスが自分たちの思いどおりにならないことに不満を持った人々は、イエスに反対する人々と手を組んで、イエスをローマ総督に訴えました。ローマ総督ピラトは「あなたはユダ人の王ですか。」とイエスに尋ねました。イエスは、それを否定なさらず、「わたしの国はこの世のものではありません。」と答えられました。ピラトが「それでは、あなたは王なのですか。」と再び聞くと、イエスは「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。」と答えておられます(ヨハネ18:37)。イエスは、はっきりとご自分を王とされました。ご自分をこの世の王にまさる、王の王として示されたのです。ピラトは、イエスとの対話の後、「過越の祭りに、私があなたがたのためにひとりの者を釈放するのがならわしになっています。それで、あなたがたのために、ユダヤ人の王を釈放することにしましょうか。」と群衆に向かって語っています(ヨハネ18:39)。ピラトはイエスこそ「ユダヤ人の王」だということを直感的に知ったので、イエスのことを、わざわざ「ユダヤ人の王」と言ったのかもしれません。ピラトは「さあ、あなたがたの王です。」と言って、イエスを群衆の前に引き出しましたが、群衆は「十字架につけろ。」と叫び続け、ピラトはその声に屈し、ついにイエスを彼らの手に渡してしまったのです。
イエスの十字架の上には罪状書きが掲げられました。皆さんは、十字架の絵や、シンボルに、INRI(インリ)と書かれているのを目にしたことがあると思います。それは、ラテン語で "Iesus Nazareth Rex Indaeorum"(ユダヤ人の王ナザレ人イエス)ということばの略号です。この罪状書きを見たユダヤの祭司長たちは「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称していたと、と書いてください。」と申し立てましたが、ピラトは「私の書いたことは私が書いたのです。」(ヨハネ19:21-22)と言ってそれを突っぱねました。ユダヤ人の指導者のために、罪のない人を十字架に追いやらざるを得なかったピラトの、せめてもの抗議だったのでしょう。しかし、ピラトのおかげで、私たちは、十字架を思うとき、イエスを「王」として仰ぐことができるのです。「イエス君の御名に」(新聖歌142)という賛美の三節目に
救いの十字架に 掲げし御名をとありますが、そのとおり、私たちは犯罪人として十字架に死なれたイエスが、すべての名にまさる名を持つ「王」であると言い表わし、その御名を愛し、その御名を賛美しているのです。
万(よろず)の国民 今なお愛す
「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」という罪状書きは、ローマのことば、ラテン語だけでなく、ヘブル語やギリシャ語でも書かれました。それは、誰もがそれを読むことができるためでした。この罪状書きは、イエスが王であることを、ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、つまり、全世界の人々に示すことになったのです。これは、やがて「イエスは王である。」「イエスは主である。」というメッセージが、全世界に宣べ伝えられることの予告となりました。後に、ユダヤ人はクリスチャンを訴えて「彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしているのです。」(使徒17:7)と言いました。この訴えには、ユダヤ人のクリスチャンに対する悪意や、クリスチャンが政治的な陰謀をたくらむ者たちであるという誤解がありますが、クリスチャンがイエスを主とし、王としていることは事実でした。私たちは、アメリカ市民、あるいは、アメリカに住む者として、国家の権威に従い、社会の秩序を守りますが、同時に、私たちは天に国籍を持つ者、神の国の国民として、王であるイエスに仕えているのです。
ヨハネの黙示録では、イエス・キリストは「王の王、主の主」(黙示録19:16)と呼ばれています。このように、聖書は、いたるところで、イエスが王であると言っています。
二、王への礼拝
イエスが王であるなら、では、私たちは、イエスに対してどうあるべきでしょうか。
第一に、イエスを礼拝することです。現代では、王様のいる国、「王国」が少なくなりましたが、それでもまだ「王国」は残っています。ヨーロッパでは、デンマーク、ノルウェー、オランダ、スウェーデンが王国です。アジアでは、ブータン、カンボジア、ネパール、タイが王国です。オーストリアの近くには、トンガ王国という小さな国があります。中東のバーレーン、ヨルダン、サウジアラビアなども王国ですね。現代では「王様」といっても、庶民と変わらず、人々に親しまれるようになりましたが、かつては「王」は特別な存在でした。古代では、王は神の子とされ、礼拝されたのです。聖書には、東方の博士たちが、幼子のイエスを「ひれ伏して拝んだ」(マタイ2:11)とありますが、これは王に対して敬意を表す最高の方法でした。博士たちは「黄金、乳香、没薬」などという高価なものを贈りましたが、これもまた、王に対してするのに、ふさわしいささげものだったのです。東方の博士たちは、幼子イエスについてくわしい知識はありませんでしたが、彼らはイエスを王として、それにふさわしい仕方で礼拝したのです。私たちは、イエスが「王の王、主の主」であることをもっとよく知っています。では、その知識にふさわしく、イエスを礼拝しているでしょうか。イエスに最大の愛を、最高の敬意をあらわし、最も良いものをささげているでしょうか。
第二次大戦中から戦後にかけてホィートン大学の学長であったレイモンド・エドマン博士は、世界各国で用いられた人で、ある時、チベット王国を訪ねたことがあります。そのころ、チベットはまだ王国でした。エドマン博士は、王様に会う前に、どうやって王様に礼をするのか、何度も何度も練習させられたそうです。エドマン博士は、説教しながら亡くなられたのですが、最後の説教の中で、その時のことに触れ、「地上の王に会うのでさえ、そのように心備えをしなければならないとしたら、まして、天の王、王の王、主の主であるお方にお会いして礼拝するのに、私たちはどんな準備をしているでしょうか。」と話しました。そう話しながら、エドマン博士は天を見上げたまま、御国に召されていきました。エドマン博士の目には、王の王であるお方の栄光の姿が見え、エドマン博士はそのまま栄光の王のもとに帰っていったのでしょう。私たちの礼拝が、私たちの王にささげるのに、ふさわしいものであるよう、心から願います。
イエスが王であるなら、第二に、私たちはイエスに服従しなければなりません。私たちは、民主主義の国に生きています。それで、知らず知らずのうちに神の国も「民主主義」のルールで成り立っていると勘違いをしてしまうことがあります。神の国は「民主国家」ではなく、イエス・キリストが王として治める「君主国家」です。神の国のルールは、私たちが決めるのではなく、イエスがお決めになるのです。私たちは、イエスからおことばをいただき、それに従うのです。政府の要職にある人たちは、"Minister" と呼ばれ、「人々に仕える者」という意味だとされていますが、"Minister" というのはもともとは「王に仕える者」という意味でした。教会でも聖職者は "Minister" と呼ばれますが、それは、聖職者が「王であるイエスに仕える者」だからです。イエスが弟子たちに進んで人々の「しもべ」になるようにと教えられましたから、聖職者は自分のために権威を振り回すべきではありませんが、だからと言って、王であるイエスのみこころを人々に伝えないで、教会が何事も人間の意見、考えだけでものごとを進めていったなら、そこは神の国ではなく、この世となにも変わらない人間の国になってしまいます。神の国、イエス・キリストの王国では、人々が何をしたいか、何をしたくないかということで、また多数決だけでものごとが決まるのではありません。そこではイエス・キリストが「王」であり、私たちは王のご命令に従うのです。もし、あなたが「イエスは主です。」と告白しているクリスチャンなら、まず、教会の中でイエスを主として仕えることを学びましょう。そうするなら、毎日の生活の中でイエスを主とすることを身に着けることができます。その日々の生活が積み重ねられて、イエス・キリストを自分の人生の主とすることができるようになるのです。ユダヤの人々は神の民であるのに、自分たちの王であるイエスを自分の気にいるような王にしたてようとしました。イエスがそれを拒否なさると、今度はイエスを亡き者にしてしまいました。もし、クリスチャンが、口では「イエスは王である。主である。」と言っても、実際の生活の中では、イエスに従うよりも自分の主張を通そうとするなら、イエスは自己実現を助けてくれるお方にしてしまうことになるのです。そこでは、イエスは王でも、主でもなく、自分が王になり、主になり、イエスをしもべにしてしまっているのです。そのような罪を犯すことがないように、私たちは、イエスが王である神の国に生きる、神の民であることを、礼拝のたびごとに、深く心にきざみつけていきたいと思います。
イエスが王であるなら、第三に、私たちはイエスのお生まれを告げ知らせるべきです。私たちは、イエス・キリストが救い主であるという知らせのことを「福音」と言っています。ギリシャ語で「ユアンゲリオン」と言いますが、これは、もともと、世継ぎとなる王子が生まれた時、王子の誕生を告げ知らせる「おふれ」をさすことばでした。「福音」とは、何よりもまず、王の誕生を告げ知らせるメッセージなのです。イエス・キリストが生まれた時、その誕生を知らせる「おふれ」を伝える人がいなかったので、神は、天使を使わし、「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10-11)と告げさせています。ルカ2:10で使われている「知らせに来た」という言葉は、「ユアンゲリオン」の動詞の形で、「おふれを告げる」ということを表わしています。神は、神の民に、神の御子の誕生を、天使によって正式に伝えているのです。王の「おふれ」を聞いた人たちは、それに聞き従わなければなりません。福音は私たちにとって「良い知らせ」であるだけでなく、それは、「権威ある神のことば」であって、私たちはそれに心して耳を傾け、守りおこなわなければならないものなのです。
神は、最初、福音を天使たちに伝えさせましたが、今は、ご自分の民にそれを人々に告げ知らせるようにとの役割を与えておられます。クリスチャンは、王の伝令、使者の役割を与えられているのです。「御子が生まれた。このお方は、あなたを、罪と死とあらゆる闇の力から救い出してくださる王である。このお方に身を寄せなさい。このお方の国民となり、このお方に従いなさい。」と、私たちは人々に福音を伝えるのです。
今、上映されている「ナルニア国物語」では、ナルニア国は本当の王ではない魔女によって治められ、そこにいる生き物は百年もの間、雪と氷と、恐怖に閉じ込められていました。しかし、ナルニアのほんとうの王、アスランが来ると、ナルニアは長い冬から解放され、そこに再び春がやってくるのです。この映画の原作は、英国のクリスチャンの作家 C.S.ルイスが聖書を題材に書いたもので、彼は、ナルニア国の王、ライオンの中にキリストの姿を描いています。ナルニア国の物語のように、今日人々は、ほんとうの王でないものに支配されています。まことの神ではなく、この世の神、サタンを王にしています。お金や財産、地位や名誉を主人にして、その奴隷になっています。人々のたましいは不安や恐怖、ねたみや憎しみに支配されています。このようなものは、あなたの本当の王、ほんとうの主ではありません。ほんとうの王はイエス・キリストです。キリストが来られる時、偽りの王は逃げていき、私たちは、私たちを縛っていたものから解放されます。私たちの王、イエス・キリストが生まれました。このお方があなたの王です。この素晴らしいメッセージを、私たちも力強く、伝えていこうではありませんか。
(祈り)
王なる神さま、あなたの御国を治める王なるイエス・キリストを感謝いたします。イエスを王として、こころから礼拝し、よろこびをもって仕え、そして、その福音を大胆に伝えていく私たちとしてください。王なる主イエスのお名前で祈ります。
12/18/2005