16:13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
16:20 そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。
一、イエスの問い
夏休みも終わりに近づき、旅行中だった人たちも帰ってくるようになりました。日本で家族親族と過ごした人、ヨーロッパの珍しい風景を楽しんだ人、アメリカの国立公園やキャンプ場で自然に親しんだ人など、それぞれに良い体験ができたことと思います。旅行中や滞在中に日本の教会、外国の教会、またアメリカの他の州の教会に出席した人は、それぞれ礼拝の形式は違っても、おひとりの神、おひとりの救い主を、おひとりの聖霊によって真剣に礼拝している姿にも触れることができたと思います。私はみなさんに「他の教会に出席したときにはその教会の礼拝プログラムを、私の分ももらってきてください。」とお願いしています。礼拝プログラムをみると、その教会がどんな教会か見当がつきます。礼拝の順序、集会・行事予定、その他のアナウンスメントからいろんなことを学ぶことができます。
この夏もいくつかの礼拝プログラムをもらいましたが、その中のひとつにオレゴンの教会のものがありました。そこにこんな文章がありました。「クリスチャンの信仰にとって最大の敵は、キリストの教えは素晴らしいと言いながら、キリストがすべてのものの主であることを否定する人たちです。アメリカでは、何百万という人が、まさにこの日に、自分たちは熱心なクリスチャンであるが聖書にあるがままのイエス・キリストは信じないと明言しているのです。」この文章が何を言おうとしているかお分かりですね。多くの人はイエスが愛について、赦しについて、勇気や希望について教えていることは喜んで受け入れるのですが、イエスがご自分について教えておられること、つまりイエスが神であり、主であるということは受け入れないということなのです。
イエスの教えの素晴らしさについては、詳しく説明する必要はないでしょう。イエスが信仰について、愛について、希望について教えたことは、それまでの誰も教えたことのなかったもので、いつの時代にも、世界中の人々に感動を与えてきました。キリスト教に反対する人でさえ、イエスの教えを賞賛しています。どれだけ多くの文学がイエスの教えに感化されて書かれ、音楽や芸術作品、建築物が作られてきたことでしょうか。イエスの教えなしにはこの二千年間の文化、政治、社会を語ることはできないでしょう。
しかし、イエスの「教え」の素晴らしさを認めるだけでは、人は救いにいたることはできません。聖書は究極の救いを「永遠のいのち」という言葉で表わしていますが、永遠のいのちは「教え」そのものの中にはないからです。イエスはヨハネ5:39で「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」と言われました。これは、聖書をたんに「教え」や「規則」の本として扱っていた人々に対して言われたことばで、イエスはここで聖書をキリストを証言するものとして読み、聖書によってキリストを見出すのでなければ、聖書の中に「永遠のいのち」を見つけることはできないと言っておられるのです。なぜなら、イエスが真理であり、道であり、いのちであり、「永遠のいのち」はイエス・キリストにあるからです。
「わたしが、真理であり、道であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)ということばほど、多くの人をキリストに導いたことばはないでしょう。みなさんの中にもこのことばに導かれて信仰を持った人が多くいると思います。「真理」、「道」、「いのち」。これは誰もが求めているものです。自分はなぜこの世に生まれてきたのか。何のために生きているのか。死んだらどうなるのか。人は人生の真理を求めています。「そんなことは分からなくても、健康でお金があれば楽しく生きていけるじゃないですか。」と言う人もいるでしょうが、人のたましいは人生の真理を発見するまでは、ほんとうの平安を得ることはできないのです。日本で有名なタレントが、じつはドラッグの常用者で、六日間逃げ回ったあと、自首したということがニュースになっています。たとえお金があっても、真理から離れた人生はむなしいのです。
また、多くの人が道を求めています。人生の確かなガイドラインを求めています。今から一世代前は信仰を持つようになった年齢が16歳から18歳というのが一番多かったのですが、最近では30歳台が一番多いと言われています。その人たちの多くはティーンエージャーのころ「30歳以上の人の言うことは信じるな」という考え方に影響されて、親や教師、人生の先輩の意見などに見向きもしませんでした。そして教会から離れた生活をしてきました。しかし、その人たちが30歳台になって結婚し、子どもを持つようになったとき、自分が子どもに与えるべきバックボーンを持っていない、子どもに何を教えたらいいのか分からないことに気づくのです。そして、道を求めて教会に戻ってくるので、30歳台の人たちが信仰に入るケースが多いのです。この人たちの子育ての悩みはじつは「自分育て」だったのです。ですから、若い両親の多くはたんなる「子育て教室」をしている教会ではなく、自分たちの霊的な求めに答えてくれる教会に足を運び、そのような教会が若い世代を多く導くようになっています。
さらに、人々が求めてやまないのは「いのち」です。何をどのようにしたら良いか分かっていてもそのための力がない。それが人々の現状です。日本では今「○○力」というのが流行語になっているようです。ずいぶん失礼な話ですが、就職できない人は「就職力」がないから、結婚できない人は「結婚力」がないからで、きれいになれない人は「美人力」が足りないからというのです。ある政党では選挙ポスターに「日本を守る責任力」と書いているほどです。この言い方にならえば目的と意味のある人生を生きる力は「人生力」とでも言えば良いのかもしれませんが、こういう言葉が作られるということは、それだけ日本の人々が、自分たちの内面に力がないこと、無力感を感じているからではないかと思います。「元気」という言葉も良く使われますが、それもまた人々が「元気」を無くしているからでしょう。「力」や「元気」、そのみなもとは「いのち」です。そして、その「いのち」はキリストから来るのです。
人々が求めている真理、道、いのちはすべてイエス・キリストにあります。イエスが真理であり、道であり、いのちです。多くの人が聖書によってこのイエスに導かれ、イエスに出会い、真理を発見し、道を見出し、いのちに生かされています。なのに、イエスの時代にも、現代にも、聖書を学びながら、真理を見出せない、道をつかめない、永遠のいのちにいたることができない人がいるのはなぜでしょうか。それは聖書をキリストを証言するものとして読まないからであり、聖書の主題がキリストであることを見落としてきたからではないかと思います。聖書を読み、イエスの教えたこと、なさったことを学ぶ人には、当然のように「いったいこのお方はどなたなのだろう。」という疑問が起こってくるはずです。その疑問は、じつはイエスから私たちへの「あなたはわたしを誰と言うか」との問いかけなのです。せっかく聖書を読みながらそこにキリストを見ていない、教会に来ていながらキリストに出会っていない、クリスチャンと呼ばれながらキリストを知らないとしたら、そこには真理も、道も、いのちもないわけですから、それほど残念なことはありません。ひとりびとりが聖書を正しく学び「あなたはわたしを誰と言うか」というイエスの問いに真剣に取り組むことができるよう、心から願っています。
二、弟子たちの答
イエスはご自分がキリストであることをさまざまな形で、弟子たちに教えてこられました。そのひとつは奇跡によってでした。イエスは、目の見えない人の目を開き、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、足の効かない人を立ち上がらせ、「らい病」の人をきよめ、死んだ人さえ生き返らせました。こうした奇跡はキリストでなければできない奇跡であり、キリストが来るときこうした奇跡を行うと預言されていたものでした。イエスはこうした奇跡を行うことによってご自分がキリストであることを示されました。また、人の罪を裁いたり、赦したりすることは神のほか誰もできないことですが、イエスは、ご自分が裁きの座について人々を裁く、しかも、その裁きの基準はイエスのことばを守り行ったかどうか、イエスを愛し、イエスに仕えたかどうかによると言われました(マタイ10:32-33、25:31-46)。そして、信仰をもってイエスに近づいた人々に「子よ。あなたの罪は赦された。」(マルコ2:5)「あなたの罪は赦されている。」(ルカ7:48)「娘よ。あなたの信仰があなたをいやした。」(マルコ5:34)と言われ、イエスと一緒に十字架にかかった強盗には「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と約束しておられます。先ほど見たように「わたしが、真理であり、道であり、いのちなのです。」ということばは、イエスが究極のお方であることをはっきりと語られたものでした。
今朝の箇所で、イエスは、弟子たちをピリポ・カイザリヤというユダヤから遠く離れたところに導いて、弟子たちに教え続けてこられたことの最後のまとめをしています。いわば学期末試験ようなものです。この試験にはふたつの質問がありました。第一問は13節にあるように「人々は人の子をだれだと言っていますか。」というものでした。「人々はイエスのことをどう言っているか。」という客観的な質問です。これに答えるのにはリサーチをしてその結果を報告すれば良いだけです。当時、イエスをヘロデに首をはねられたバプテスマのヨハネの生き返りだと言う人、旧約の預言者エリヤの再来だと考える人、またイエスが人々をあわれんでよく涙を流されたので、「涙の預言者」と呼ばれたエレミヤのようだという人がいました。それで、弟子たちはイエスに「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」(14節)と答えています。
第一の問題は客観的な問題でしたが、第二の問題は主観的な判断が要求される問題です。それは「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(15節)でした。人々がどう言っているかではなく、「あなたがた」は、「あなた」はどう言うのかと、イエスは尋ねておられるのです。これは信仰なしには答えられない質問です。この質問にペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と答えました(16節)。イエスはこの答えを喜び、ペテロを大いに祝福されました(17節)。イエスはペテロに「このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われました。ここでも、イエスは神を「わたしの父」と呼ぶことによって、ご自分が神のただひとりの子であるとあかししています。そして、イエスが神の子であることは、イエスご自身があかししているだけでなく、父なる神もあかしし、人の心に示しておられると言われたのです。イエスが「神の子キリスト」であることは、父なる神も確認しておられる事実なのです。
イエスは、イエスを神の子キリストと信じる信仰の上に教会が立ち(18節)、この信仰によって天国が開かれるのだと言われました(19節)。「イエスは生ける神の御子キリスト」これが人を救う信仰の基礎です。キリストは今も、私たちを同じ信仰に導こうとして、私たちに同じ問いを問いかけておられます。「あなたは、わたしをだれだと言うか。」この答えは、聖書を正しく学ぶことなしには得られるものではありませんが、その場合、教会で学んだことをそのままくりかえして、「教会ではイエスは生ける神の子キリストである、と教えられています。」と答えるだけでは、「<あなた>は、わたしをだれだと言うか。」という問いへの本当の答えにはなりません。イエスは「あなた」自身の信仰の答えを求めておられます。あなたはイエスの問いにどう答えるでしょうか。
ところでイエスは20節に「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。」とあります。イエスは弟子たちを「イエスはキリストである。」という信仰の告白に導かれたのに、なぜ、イエスがキリストであることを人々に語ってはならないと言われたのでしょうか。イエスは矛盾したことを命じているように見えます。これは何を言おうとしているのでしょうか。じつは、これはイエスがこれから十字架に向かわれることと関係があります。当時、人々は、弟子たちも含めて、キリストは栄光のうちにやって来て、ユダヤを外国の支配から解放すると考えていました。キリストが人々の身代わりとなって受ける苦難についてよく理解していなかったのです。弟子たちは「イエスはキリスト」という信仰を言い表わした後、キリストの十字架の苦難と復活、そして昇天、さらにペンテコステ(聖霊降臨)を体験する必要がありました。それを体験してはじめて、生ける神の子キリストが、人類の罪からの救い主であり、全世界のすべての人の主であるという、さらに完全な信仰へと弟子たちは導かれていくのです。弟子たちはキリストの十字架を目撃し、復活のキリストに出会い、天に帰っていかれるキリストを仰ぎ見、そして聖霊を受けました。そのとき、復活されたイエスが「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ。」と言われとおり、「イエスは生ける神の子キリスト」であると宣べ伝えはじめました。今は、「イエスは生ける神の子キリスト」ということを秘めておくべきときではありません。それを大きな声で語るときです。私たちも、キリストの十字架、復活、昇天、そして聖霊降臨の体験を通って、キリストを伝える働きに加わろうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、今朝、私たちは主イエスの問いかけを聞いています。その問いかけを真剣に受け止める私たちとしてください。イエスが「生ける神の子キリスト」であることが私たちの生活と人生にとってどんな意味があるのかを聖書によって、さらに深く教え導いてください。イエスが「生ける神の子キリスト」であることに確信が持てない人々が、そこいたるよう助けてください。そして、一同が声をそろえて、「イエスこそ真理であり、道であり、いのちです。」と告白することができますように。私たちの主イエス・キリストのお名前で祈ります。
8/16/2009