11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
今年の教会標語は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」です。マタイ11:27から取りました。今年の最初の礼拝で、このみことばをとりあげた時、「『くびき』ってどんなものですか?」という質問がありました。その時、「それは動物の首にかける木ですよ。」と説明したのですが、耳で聞くよりも目で見たほうがわかりやすいので、くびきをつけた牛の写真をお見せしましょう。このように、二頭の牛の首に木をかけ、その真ん中に鋤などをつけて田畑を耕したり、荷車をつけて荷物を運んだりするのです。これが「くびき」です。
その時、「先生が肩にかけているのは何ですか。」という質問もありました。これは、「ストール」というもので、主イエスからいただいたくびきを表わしています。ストールは、主イエスの弟子となって、主から学び、学んだことを他の人に教える責任が私に与えれていることを表わしています。私は、ストールを身につける時に、そのことを思って身が引き締まる思いがします。しかし、実は、私ばかりでなく、主イエス・キリストを信じているひとりびとりも、同じように「くびき」を与えられているのです。私は「クリスチャンです。」と言いながら、もし、キリストのくびきを負わないでいるなら、その人は、本当の意味では「キリストの弟子」として、キリストに従っているとは言えないのです。キリストの弟子となるために、キリストから学ぶために、キリストのくびきを進んで負う必要があるのです。
「わたしのくびきを負って、私から学びなさい。」このみことばが今年の標語として選ばた時、私は、「どのようにしてくびきを負えばよいのだろうか。」と考えて見ました。そして、その時、教えられたことは、「自分の足りなさを知る」「人とくらべない」「キリストと共にくびきを負う」ということでした。
一、 自分の足りなさを知る
私は、日本では、聖書学校で教えていましたが、その学校で外部から講師を招いて特別講座をすることになりました。確か、堀越暢冶先生が講師だったと思うのですが、その時、私は事務的な仕事をしていて、最初の講義に遅れてしまいました。その時、私の心の中には「堀越先生の話は何度も聞いているから、遅れてもいいや。」という安易な考えがあって、ぐずぐずしていたのです。先生から学ぼう、この講義で神から教えていただこうという気持ちがなかったのです。恥ずかしいことですが、「自分はもう知っている。分かっている。」という思いがありました。遅れて講義に出ましたが、その時、先生のお話を聞きながら、「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(コリント第一8:2)という聖書のことばを示され、良く分かってもいないのに、分かったつもりでいた自分の高慢を示されました。
ガンジーは「明日死ぬかのように生き、永遠に生きるかのように学べ。」と教えました。ほんとうにその道を究めた人、優れたものを持っている人は、皆、自分の足りなさを知って学び続ける人です。決して、「自分はもう分かっている。」というような態度をとりません。高い水準を目指せば目指すほど、自分の足りなさがわかってくるからです。使徒パウロは殉教を覚悟した手紙の中でさえ、「書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。」(テモテ第二4:13)と言っています。パウロは死ぬまぎわまで、学び続けた人でした。パウロは、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」(ピリピ3:12)と言っています。パウロほど博学で、しかも、神の啓示を直接受けた人でさえ、そう言っているのなら、まして、私たちは、「もうこれで十分」などと言うことは決してできないはずです。
作者は不明ですが、こんなことばがあります。
私は学んだ…年寄りの足元は最も学ぶ場所であることを。
私は学んだ…あなたの手に抱かれている赤ん坊を通して深い平和を。
私は学んだ…人を助ける方法がなくても、人のために祈ることができるということを。
私は学んだ…神が一日ですべての被造物をお造りにならなかったのなら、私も一日で事を完成させることができるはずがないことを。
私は学んだ…まだまだ、学ぶことがたくさんあることを。
私たちは、何かを少しかじり知っただけで、すぐ人に「教えてやろう。」とする態度をとってしまいます。それで聖書は、「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。」(ヤコブ3:1)と戒めています。教会に、本当の意味でみことばを教えることのできる人が多くいれば、それはすばらしいと思いますが、「私はなんでも分かっている。誰からも教えてもらう必要がない。」という意味での「教師」ばかりがいる教会は、決して主に喜ばれる教会になることはありません。動物がくびきを負うためには、まず、首をたれて、身を低くしなければなりません。そのように自分の足りなさを素直に認め、教えられやすいものとなりたいと思います。
二、人と比べない
主イエスのくびきを負うためには、自分の足りなさを認めるとともに、自分を人と比べないことも大切だと思います。どんなことでも、人と比べるのは愚かなことです。比べた相手が自分よりも優れていると思うと劣等感を持ち、比べた相手が自分よりも劣っているように見えたら優越感を持つようになります。そして、劣等感も優越感も、非生産的で、そこからは何の努力も生まれてきません。自分はだめだと悲観すれば少しも成長しませんし、自分は大丈夫と安心すれば、そこで成長が止まってしまいます。成長が止まるどころか、自分より優れていうと思う人をねたんだり、自分より劣っているように見える人をさげすんだりすることによって、「後退」してしまうのです。自分を人と比べることは無意味なことなのに、私たちはその失敗をくりかえしてしまいます。自分と人と比べるだけでなく、自分の子どもと他の子どもとをくらべて、子どもに無理なことを強いることもあります。劣等感や優越感を持つことは、すべての人を愛し、人それぞれに良いものを与えておられる神を信じることと矛盾します。神を正しく知ることによって、自分を正しく知り、人を正しく理解できるようになり、劣等感や優越感から解放されたいと思います。
霊的な成長、信仰の成長においては、そのペースは人によって皆違います。信仰を持って間もなく神との深いまじわりに導かれる人もあれば、長い年月の後にやっと霊的なことに目覚める人もあります。いつまでたっても霊的に成長しない場合、どこかに致命的な問題があるのかもしれませんから、自分を点検してみる必要がありますが、ゆっくりでも、正しい方向を目指しているなら、大丈夫です。かならず、目標にたどりつきます。聖書は「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。」(ピリピ2:13-14)と教えています。人とくらべて「自分はだめだ。」とばかり言うことは、つぶやき、疑うことになります。「神がしてくださる。」との信仰を持ちましょう。
自分を卑下するのと逆に、自分の過去の業績を誇る人もいます。「わしが若いころはこんなこともした。あんなこともした。」と言うのを聞くことがありますが、そんな時、私は「では、今はどうなんのですか。」と聞いて見たい気持ちになります。神は、私たちの「今」をご覧になるお方です。過去、どんなに神に反逆していたとしても、今、神に立ち返っているなら、神は、その人の過去を一切赦して、成長へと導いてくださいます。しかし、過去にどんなに神に従順であったとしても、今日という日に、今という時に、心をかたくなにしているなら、そのような人は、決して成長することはないのです。自分の成長を点検するのに、人とくらべる必要はありません。今年の自分と去年の自分を比べれば良いのです。去年よりも今年、少しでも信仰的に成長していればそれを感謝しましょう。しかし、去年よりも今年、信仰的に後退しているなら、決して誇ることはできません。自分の知識や能力、また過去の業績を誇ってはいても、今という時に停滞したり、後退している人は、ゆっくりでも前進している人にかならず追い抜かれてしまいます。聖書に「先の者があとになり、あとの者が先になる」(マタイ19:30)と言われている通りです。
パウロは、「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:13-14)と言っています。パウロは、他のどの使徒たちもすることができなかった大きな事業をなしとげました。どの使徒にもまさって、神のみこころの奥義を知ることをゆるされました。しかし、彼は、自分を人と比べて誇りませんでした。人に目を向けるのでなく、目指すべきゴールをしっかりと見つめて走り続けました。信仰の競走では、人より先に走るか、後を走るかということが問題なのではありません。自分のペースを乱さずに前進しているかどうかが問題なのです。信仰の競走は、他の人とではなく、自分自身との競走なのです。
私たちが負わなければならないくびきはひとりひとり違っています。私たちは自分自身のくびきを負うのであって、他の人のくびきではありません。主が自分に与えてくださったくびきをしっかりと負い、主イエスに学び、信仰を成長させていかなければならないのです。
三、キリストと共に
キリストのくびきを負うためには、「自分の足りなさを知る」こと、「人と比べない」こと、そして、「キリストと共に」それを背負うことが大切です。
聖書は、「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:5)と教えています。「クリスチャンになったら、どんな人生の重荷も、生きる悩みもなくなり、ただ感謝、感謝の楽しい人生になる。」と言う人がいますが、ほんとうでしょうか。主イエスは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われましたが、それはどんな重荷も負わなくてもよいということではありません。主は、このことばに続いて、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:29-30)と言われました。主イエスは、私たちに、自分の重荷と取り組み続けるよう教えておられます。そして、それによって私たちに本物の平安と安息がやってくると約束しておられます。たとえば、人間関係で苦しんでイエス・キリストを信じた人がいたとして、その人が信仰を持ったからすぐに人間関係が良くなるわけではありませんね。しかし、その人と神との関係が深められてくると、今まで重い荷物であった人との関係が、徐々に軽くなっていくのを体験してするようになります。また、病気の苦しみから解放されたいと願って信仰に導かれることも多いと思いますが、信仰を持った後、病気がいやされなかった場合、その人は病気という重荷を相変わらず背負わなければなりません。しかし、神のいやしの力によって、死や病いを恐れない者へと変えられていくのです。さまざまな家庭環境の苦しみから信仰に入った場合、信じたとたんにその人をとりまく状況が変わるとはかぎりません。信仰を持った後も、同じ重荷を負い続けなければならないかもしれません。けれども、その重荷を通してより一層神に信頼し、さらに祈る者となり、神に近づく恵みが与えられるのです。私たちは、イエス・キリストを信じた時に、罪が赦され、神の子どもとされ、新しいいのちを与えられました。しかし、なお、私たちは罪と死が支配するこの世界に生きていています。この世に生きるかぎり、罪との戦いはなくなることはありません。しかし、聖霊の助けによって、私たちは罪に勝利していくことができるのです。重荷は残ります。しかし、その重荷は、もはや私たちを押しつぶしすことはありません。かつては重荷に押しつぶされていた私たちですが、今度は、私たちがその重荷を持ち上げ運ぶことができるようになったのです。
なぜでしょうか。それは、主イエスが私といっしょにその重荷を背負ってくださるからです。ほんとうは私ひとりで背負わなければならないくびきを主イエスがその片方を背負ってくださるからです。若い牛がはじめてくびきを背負う時、農夫は、くびきの片方を、くびきに慣れた牛に背負わせます。くびきに慣れた牛が、はじめてくびきを負う牛をリードし、若い牛が徐々にくびきに慣れていくためです。くびきに慣れた牛は、主イエスの姿そのものです。主イエスは、私たちが背負っている重荷のすべてを背負われたお方です。主が背負われた十字架には、人間の罪、社会の不条理、友の裏切り、人々のねたみ、さげすみ、非難や誹謗、いじめや無視、病気、貧困など、人間が経験するあらゆる重荷が凝縮しています。その肩に十字架を背負われた主イエスは、私たちが人生で背負う重荷のすべてを背負ってくださるお方です。いままでどの人も苦しんだことのない苦しみを通られた主イエス・キリストが、私の負うべきくびきの片方を負ってくださるのです。くびきに慣れた牛が、まだそれになれない牛の横にピタッと寄り添うように、主は、重荷にあえいでいる私たちのすぐそばにいてくださるのです。受ける苦しみがあまりにも大きく、背負わなければならない重荷があまりにも重く感じる時、私たちは主が共にいてくださることを忘れがちですが、主は、苦しむ者の側にこそ、共にいてくださることを忘れないようにしましょう。あなたが、今、誰にもわかってもらえないと思えるような苦痛や重荷をかかえていたとしても、それをひとりで負うのではありません。主が背負ってくださるのです。そのことを信じましょう。
主イエスのくびきを「重い」と感じるのは、自分ひとりでそれを背負おうとするからです。主は「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と言われました。主は、私が負わなければならないくびきを、ご自分のくびきにしてくださいました。ですから、私たちが背負うくびきは自分のくびきでありながら、自分のくびきではありません。それは主イエスのくびきです。主が、「わたしのくびき」だと言ってくださるからには、主イエスがそのくびきを最後まで負ってくさいます。決して私ひとりにそれを負わせることはありません。主のくびきを主とともに喜んで負う者となりましょう。
(祈り)
愛する主イエスさま、本当のたましいのやすらぎは、重荷を放り出し、くびきから逃げ去ることにではなく、あなたと共にそれを負うことによって与えられることを今朝学びました。あなたへの従順の中に喜びがあり、服従の中に自由があります。「わたしのところに来なさい。」と招いておられる主よ、あなたのもとに行きます。「わたしのくびきを負うて、わたしから学びなさい。」と命じてくださった主よ、あなたご自身が負っていてくださるくびきを、私も負います。「わたしは心優しく、へりくだっている」と言われた主よ、私もあなたの前にへりくだり、あなたに信頼します。私のたましいに本物の安らぎを与え、あなたのくびきが負いやすく、あなたの荷が軽いことを体験させてください。私に代わって負ってくださった十字架を覚え、心から祈ります。
3/4/2007