来て、休め

〜南カリフォルニア・クリスチャン・リトリート〜

マタイ11:25-30

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11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 一、安息の命令

 朝の挨拶では「おはようございます」の他に、「よくお休みになれましたか」と言います。聖書も、私たちに休むことを教えています。私たち日本人は勤勉を旨としてきましたので、「休む」ことと「怠ける」ことを混同し、休むことをしないで働き過ぎ、バーンアウトしてしまうことがよくあります。

 そうした反省から、日本でも「働き方改革」ということが言われるようになりました。日本のある会社では「昼寝タイム」というのを作っているそうです。また、タイムシェアのレンタカーがあるのですが、それをどこかへ行くためではなく、昼寝をするために使う人が増えているのだそうです。昼寝専用のスペースを提供する商売もあると聞きました。

 神は私たちに「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」(出エジプト記20:8)と命じておられます。神の戒めの中に、わざわざ「休む」ということが命じられているのは、なぜでしょうか。私たちにとって働くことは喜びであり、生きがいです。しかし、いつしか、それが自分はこれだけの働きをしたという誇りとなり、神への信頼を失うことがあります。安息日の戒めは、自分の働きをやめることによって、自分を支えているのは自分の働きではなく、神の恵みなのだということを覚えるためにあるのです。

 また、アダムが罪を犯して以来、人は「顔に汗を流して糧を得」(創世記3:19)なければならなくなりました。労働に苦しみが加わりました。神は、私たちを労働の苦しみから救い、癒やすために、安息日を与えてくださいました。私は、安息日の戒めがどんなに必要で、どんなに意義深いことかをもっと理解したいと願っています。こうしたリトリートは安息を体験するためにあるのですから、こうした場で、皆さんといっしょに安息の意義を考えてみたいと思っています。

 聖書は勤勉を教えています。安息日の戒めにも、「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない」とあります。六日間、きちんと働きなさい。しかし、一日は、きちんと休みなさいと命じられているのです。それはからだの面だけでなく、たましいの面でもそうです。

 もし、人が休まないで働き続けたら、仕事の能率はうんと下がります。現代、子どもたちの学力が落ちているのは、子どもたちが夜遅くまで起きていて、十分に睡眠をとっていないことが原因のひとつであると言われています。大人はもっと睡眠不足です。休みを十分にとらないので、仕事の能率が落ちていくのです。怠けていては仕事が進みませんが、きちんと休むことによって、かえって仕事が進み、楽しく働くことができるのは事実です。

 では、「休む」のは能率良く働くためにだけあるのでしょうか。「働くために休む」ということは間違ってはいません。しかし、「休むために働く」というのも成り立ちます。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない」というのは、「安息日を安息日として守ることができるために、六日の間きちんと働いておきなさい」ということだと思います。

 私は、ある人から、土曜日には教会に着ていくものを用意し、バッグに必要なものを入れ、献金も用意し、おまけに、車をガレージにバックで入れておくのだと聞きました。日曜日の礼拝に力づけられて月曜日から土曜日を過ごすのですが、その人にとって、月曜日から土曜日は、同時に、次の礼拝のための準備の日々なのです。この人は「安息日を守るために働いている」と言ってよいと思います。

 そう考えると、私たちの人生のすべては、永遠の安息に入るための準備の期間なのかもしれません。七日ごとの安息日は、私たちがやがて永遠の安息に入ることの「しるし」です。永遠の安息は、主が再び天から来られる時に与えられます。私たちは毎週の礼拝で「マラナ・タ(主よ、来てください)」と祈り、主が「しかり。わたしはすぐに来る」と答えてくださるのを聞きながら、その日を待ち望んでいます。月曜日から土曜日が日曜日のための準備であるように、私たちの地上の歩みと、そこで守る礼拝は、永遠の安息のための準備でもあるのです。私たちは主がくださる安息によって日々を歩むとともに、永遠の安息を目指して日々の務めに励むのです。

 二、安息の内容

 では、安息とは何でしょうか。何もしないでのんびりしていることでしょうか。普段できない、スポーツや旅行などを楽しむことでしょうか。いいえ、神の民にとって、旧約時代にも、新約時代にも、礼拝を捧げることが安息でした。神のことばを聞き、それを通して神と出会い、神と共に一日を過ごすことの中に安息を味わいました。

 聖書で、神がくださる安息を最もよく描いているのは詩篇23篇だと思います。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」天では、この通りのことが成就します。黙示録7:17にこうあります。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」安息とは、羊飼いであるキリストの牧場に憩い、いのちの泉から水を飲み、神の慰めを受けることなのです。主と共にいることの中に安息があります。この安息によって私たちは、主に癒やされ、養われ、生かされ、主をほめたたえることができるようになるのです。

 私たちの礼拝は、天にある安息を味わうものです。ヨハネが主の日に聖霊によって天に引き上げられ、天の礼拝を見たように、私たちも、からだは地上にありますが、その霊は天に引き上げられ、天使たち、聖徒たちとともに御座におられる方と子羊イエス・キリストをあがめるのです。私は礼拝の中で捧げられる「私たちの賛美と祈りとが天使たちや聖徒たちの賛美と祈りとひとつとなって、御前に捧げられますように」という祈りを、いつも感動をもって聞きます。教会がこの世にありながらこの世のものではないように、教会の礼拝も地上で行われてはいても地上のものではありません。それは天とつながるもので、私たちはそこで、天の癒しに、本物の安息にあずかるのです。

 アイルランドの詩人トマス・モアは “Come, ye disconsolate” という賛美を書きました。新聖歌443ではこう歌われています。

悩む者よ 疾く立ちて
恵みの座に 来たれや。
天の力に 癒し得ぬ
悲しみは 地にあらじ。
週ごとの礼拝で、また、こうした集まりで、また、主にある者たちが共に祈る場で、「恵みの座」を仰ぎましょう。そして、そこで、天の安息を味わいましょう。

 三、安息への道

 こんなに素晴らしい安息があるのに、私たちはしばしば身も心も疲れ果ててしまうことがあります。教会に行って平安を受けるよりもフラストレーションを感じてしまう、主にある者たちから慰めを受けるよりは、誤解されたり非難されたりして、人間関係に疲れてしまうなどといった残念なことがあるかもしれません。そんなときはどうしたらいいのでしょうか。だからこそ安息が必要なのですが、その安息に近づくために、なお二つのことをお話ししましょう。

 まずは「ひとりになること」です。現状から離れることです。「川の中にいる魚は川が見えない」とは、よく言われることです。問題の中にいる間は、問題を客観的に見ることができず、解決の糸口さえ見出すことができません。現状からいったん離れて、問題を客観的に見る必要があります。

 一時的に現状から離れるのは良いことです。英語では仕事の最中に休憩することを “Let's take a break.” と言い、両手で何かを折るジェスチャーをします。自分を縛っている仕事の鎖を切って自由になるという意味です。私たちは、あれもしなければ、これもしなければと多くのことをかかえ、それに縛られています。また、自分を煩わせている問題に縛られています。ですから。いったんそれを断ち切る必要があります。「安息」は英語で “Sabbath” と言いますが、このもとになったヘブライ語には、「やめる」という意味があります。六日の間やってきた日常のわざをいったんやめて、神のわざ、天のわざ、礼拝をするのでそう言われるようになりました。

 もちろん、すべての人が現状から離れることができるわけではありませんし、また、簡単に離れてはいけない場合もあります。教会で問題があったから、もう教会に行かない。奉仕で躓いたから、それを投げ出す。夫婦で争いごとがあったから別れて暮らすなどです。そのようにしたところで解決にはなりません。しかし、そのような時でも、特定の問題にこだわり続けずに、しかも、それをいい加減に扱うのでなく、そこからいったん離れて、ひとりで神の前に出ることをしなければなりません。

 信仰の世界で「ひとりになる」というのは、どんな人間関係も断ち切ってしまうとこと、「孤独になる」こととは違います。英語で言う “solitude” と “loneliness” とは違います。「あの人のせいで私はこんなに苦しんでいる」などと、自分を他の人の関係の中で考えるのでなく、「私は神の前でこれでいいのだろうか」と、ひとり神と向かいあうこと、それが“solitude”です。「ひとりになる」と言っても、ほんとうは「ひとり」ではないのです。神と「ふたり」なのです。そして、そこで神のことばを聞き、神との関係の中で、自分を再発見するのです。

 「ひとりになること」は簡単そうでいて、簡単ではありません。私たちの多くは、「みんながそうしているから自分もそうする」といった基準で行動します。群がって行動するのは、ある意味で楽です。しかし、神はそこから私たちを引っ張り出し、ご自分の前に立たせようとなさることがあります。ひとり神の前に立つのは、時としてつらいことですが、正直に神の前に出る時、私たちは、神がどんなに恵み深いお方かを、もっとよく知るようになります。安息で満たされる恵みを経験することができます。

 チャック・スゥンドール先生はその本の中に、「確信を持たない人は自分を忙しくしていないと不安になる。そういう人は自分にへつらう人たちの歓心を買い求め続けなければならない」と書いています。多くの人は、神の言葉によってでなく、人々の評判によって自分を支えようとしていると言うのです。神の目に映る自分ではなく、人の目に映る自分を気にするのです。そういう人は、ほとんどの場合、無意識なのですが、神を喜ばせるためや人の役に立つため、また、自分自身を高めるためというよりは、人々に自分を認めてもらうことのために、大きなエネルギーを費やしてしまいます。そのために疲れ果ててしまい、神を見失い、自分を見失うのです。つまり、安息を失うのです。物理的に「ひとりになる」というのではなく、人との関係の中でしか生きてこなかったみずからを反省し、神との関係によって生きることをしていきたいと思います。

 「ひとりになること」(“solitude”)と共に、神の前で静まること、“silence” をも心がけましょう。鳥のさえずりは人を喜ばしい気持ちにさせ、赤ちゃんが母親の胸に抱かれ、心臓の鼓動を聞く時、とても安心するのだそうです。そして、人を最も落ち着かせる音は、「沈黙」という音だと、その専門家は言っていました。けれども、一日中何かの音が聞こえてくる現代では、静かになると、かえって不安になり、ほんの一分以内の黙祷の時でも、ざわついてしまうことがあります。それは、決して健全な状態ではありません。沈黙はすべての人に、とりわけ、この騒がしい時代に必要なものです。

 次をご覧ください。

aspirituallifewithoutsilenceislikea
sentencewithoutspacesthespaceshelpus
makesenseoutofthesentencesilencehelps
usmakesenseoutofourlifewithgod
よく見れば分かるのでしょうが、すぐには何が書かれているか分かりません。では、次はどうでしょうか。
A spiritual life without silence is like a
sentence without spaces. The spaces help us
make sense out of the sentence. Silence helps
us make sense out of our life with God.
スペースを入れると、よく分かるようになります。日本語に訳すとこうなります。「沈黙のない霊的生活は空白のない文章のようなものだ。空白は文章の意味を理解するのを助けてくれる。そのように沈黙は神と共に生きる人生の意味を理解するのを助けてくれる。」このように、沈黙はわたしたちに、人生の意味をより良く理解させてくれるのです。

 人と話していて、自分のほうが一方的にまくし立てていたら、相手の話を聞くことができません。神とのまじわりも同じです。祈りは、神との対話です。神に言いたいことだけ言って終わりではありません。祈りは、神に聴くことでもあるのです。

 マザーテレサがCBSテレビのインタビューに出たとき、こんなやりとりがありました。

―マザー、祈るとき、神様に何と言って語りかけるのですか。
わたしは何も話しません。神に聞くだけです。
―それじゃ、神様はマザーに何と言って話されるのですか。
神は何も言われません。神はわたしに聞いてくださるだけです。
インタヴューした人は、マザーが言ったことが分からなくて困った顔をし、説明を求めました。それに対してマザーは答えました。「もしあなたがこのことを理解できないのなら、わたしは何も説明することはできません。」

 マザーの言葉にはとても深い意味があります。これは、言葉をこえた祈りです。祈りに祈り、ついに言葉が尽きてしまって、沈黙のうちに、神が私の祈りを聞いてくださっているということを確信する、そんな体験です。神とのまじわりを少しでも深めたいという願いのある人であれば、マザーが言おうとしていることが、やがて理解できるようになると思います。

 “Sabbath, Solitude, Silence” ということをお話ししてきました。ある人が「きょうは沈黙の大切さについて話します。その後、皆で沈黙の時を持って、それを体験しましょう」と言いながら、一時間近くも話し続け、とうとう沈黙の時を持てなかったということを聞いたことがあります。今は、メッセージの時間というよりは祈りの時間ですので、もうお話を終えたいと思います。最後に覚えていただきたいのは、主が、このリトリートで、私たちにほんとうの「安息」を与えようとしておられるということです。ギリシャの哲学者は私たちに「賢くあれ」と言い、ローマの軍人は「強くあれ」と言うでしょう。皆さんの同僚は「少しは空気を読みなさい」と言うかもしれません。また雇い主は「さあ、働け。結果を出せ」と求めるでしょう。しかし、主は、私たちに言われます。「休みなさい」と。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。

 (祈り)

 主なる神さま。私たちは、ここでの三日間を通して、あなたの前に出たいと願ってやってきました。私たちの中には、疲れた心で、重荷を背負っている人もあると思います。主は言われます。「来なさい。休ませてあげよう。」私たちは共に、ここで癒やされ、いのちに満たされ、ここから遣わされていきたいと願っています。恵み深い主よ。みことばの約束にしたがい、それをかなえてください。イエス・キリストの御名で祈ります。

8/13/2019