共におられる神

マタイ1:22-23

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1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。

 アドベントの四週間、わたしたちはイザヤ9:6から、救い主が「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」という名で呼ばれていることを学びました。「霊妙なる議士」は救い主の知恵を、「大能の神」はその力を、「とこしえの父」はその愛を、「平和の君」はその恵みを表わしています。救い主はこれらの名に加え、もうひとつの名を持っておられます。それは、イザヤ7:14に「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる」とあるように、「インマヌエル」という名前です。

 一、はじめから共に

 「インマヌエル」とは、マタイが「これは、『神われらと共にいます』という意味である」と解説しているように、「共におられる神」という意味です。「共におられる神」、これは実に、救い主にふさわしい名前です。救い主がどんなに素晴らしいお方であっても、わたしたちの手の届かないところにおられたなら、わたしたちは救い主の知恵に導かれ、その力に助けられ、その愛に支えられ、その恵みに生かされることはないでしょう。しかし、救い主イエス・キリストは「インマヌエル」、「共におられる神」、わたしたちと共にいて、わたしたちを導き、助け、支え、生かしてくださるお方です。

 救い主は「共におられる神」と呼ばれますが、じつは神はもとから「共におられる神」でした。創世記にあるように、神は人を「神に似た者」「神のかたち」に造られました(創世記1:26-27)。それは、神が人とまじわりを持ち、人も神とまじわりを持つためでした。神が霊であり、人格を持ったお方であるように、神は人間に、他の動物にはない、霊的な部分や人格の部分を与え、神とまじわることができるようにしてくださったのです。

 この神と人とのまじわりは、創造の第七日目、「安息日」から始まりました。この日は、神にとっては第七日目でしたが、アダムとエバにとっては彼らの人生の第一日目でした。人類の歴史の最初の日は神の祝福から始まったのです。わたしたちが、こうして日曜日の礼拝から一週間を始めるのは、日曜日がイエス・キリストの復活の日だからなのですが、それと共に、アダムとエバが人生の第一日目を神への礼拝で始めたからでもあるのです。何にもまして日曜日の礼拝を優先することがどんなに大事なことかは、このことからも分かります。神の声を聞き、神の顔を仰ぎ見、神を崇め、神の祝福を受けて一週を始める。そこから人としてのほんとうの生き方が始まるのです。

 神がアダムとエバのために造ってくださったエデンの園には、手を伸ばせば好きなだけ食べることのできる木の実が無数にありました。川があり、それらの木にいのちの水を運んでいました。また、そこには金や宝石などが多く埋蔵されていました。エデンの園はまさに「楽園」でした。しかし、ただそれだけでは、「楽園」もやがては退屈な場所となり、人間の精神をむしばんでいくことでしょう。人はただ楽しいことだけを求め、それを得たとしても本当の満足を持つことはできません。人には、神と共に生きるという内面の満足と、神のために生きるという使命が必要です。神とのまじわりとは、わたしたちが神を必要とし、神がわたしたちを必要としてくださるということです。この神とのまじわりが人を生かすのです。

 アダムとエバには神を礼拝するという聖なる義務と共に、エデンの園を守るという使命、責任が与えられました。神がアダムとエバにこうした義務や責任をお与えになったのは、それによって神とのまじわりが保たれるためでした。地上に造られたばかりのアダムに温和なエデンの園の環境が必要だったように、エデンの園にも、その環境を維持するためのアダムの知恵や労働が必要でした。人には、礼拝とともに、学び、働くことが必要です。そうしたものを通して、人は神のために生きる喜びを味わうのです。あらゆるものに恵まれていても、こうした神とのまじわりがなければ、わたしたちのたましいは飢え渇いたままです。神から与えられた使命を見失ったままでは、生きる意味を見出すことができないのです。

 皆さんも神を信じるまでは、心のどこかに満たされないものを感じ、生きることの虚しさを感じていたことと思います。しかし、神を信じ、救い主イエス・キリストを受け入れたとき、心に満たしを感じ、生きる目的を与えられ、学び、働くことの意味を知りました。イエス・キリストを信じた瞬間に、いままで抱えて問題が一挙に解決したとか、状況が一変したということがなくても、「神が共にいてくださる」ということが分かっただけで、問題に潰されることなく、困難な状況を乗り越えることができたことと思います。神が共にいてくださる人生の幸いを、この年の終りに、もう一度感謝したいと思います。

 二、罪びとと共に

 さて、エデンの園の環境を守るのに、人の手が必要だったように、神と人とのまじわりを保つのにも、人間の側の神への愛や従順、信頼や誠実が必要です。ところが、アダムとエバはそれを失くし、罪を犯してしまいました。それまで神の顔を仰ぎ見て礼拝していたふたりは、罪を犯した後「神の顔を避けて、園の木の間に身を隠し」ています(創世記3:8)。では、神もまた人の顔を避け、人から身を隠されたのでしょうか。いいえ、神は、アダムとエバに「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけておられます。罪を犯して、神から遠ざかっていく人間を、ご自分のほうから探し求めてくださったのです。人が神から去っても、神は決して人から去っては行かれません。わたしたちの神、わたしたちの救い主は罪びとを追いかけ、罪の深みにまでも降りてきてくださるお方なのです。

 そのことは、救い主が家畜小屋で生まれたことの中に表わされています。イエスがお生まれになったのはふつう「馬小屋」と言われていますが、当時、馬は兵士が乗るもので、民衆はロバに乗りました。農耕には牛が使われましたので、イエスは「牛小屋」で生まれたというのが正確かもしれません。牛小屋は日本の東北地方では「べこ小屋」と言います。ある人が東北でこどもたちに聞きました。「みんな、べこ小屋って、どんなとこだ?」こどもたちは口々に答えました。「きたねぇとこだよ。」「暗いよ。」「くっせぇよ。」そんな汚くて、暗くて、臭いところに、イエスは生まれてくださったと、その人はこどもたちに話したそうです。べこ小屋の汚さ、暗さ、臭さは、そのまま人間の心の汚さやこの世の暗さ、罪が放つ悪臭を表わしています。しかし、救い主は人を愛して、そんなところにまでも来てくださったのです。

 1963年のことですが、東京都台東区入谷町で当時四歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、身代金が要求されるという事件が起こりました。吉展ちゃんはその日のうちに殺され埋められました。犯人の小原 保が捕まったのは、二年後でした。その時、犯人の母親トヨさんは、次のように話しました。

「村越様、ゆるしてください。わしが保を産んだ母親でごぜえます。…保が犯人だというニュースを聞いて、吉展ちゃんのお母さんやお父さんにお詫びに行こうと思ったけれど、あまりの非道に足がすくんでだめです。ただただ針のむしろに座っている気持ちです。

 …保よ、だいそれた罪を犯してくれたなあ。わしは吉展ちゃんのお母さんが吉展ちゃんをかわいがっていたように、おまえをかわいがっていたつもりだ。おまえはそれを考えたことはなかったのか。

 保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやるから。それで、わしも村越様と世間の人にお詫びをする…。どうか皆様、ゆるしてくださいとは言いません。ただこのお詫びを聞き届けてくださいまし。…」
トヨさんは「保よ、おまえは地獄へ行け。わしも一緒に行ってやる」と言いました。罪を犯した息子であっても、そこが地獄であっても付き添ってやりたいという母親の愛を感じる言葉です。救い主は、母親の愛に勝って深くわたしたちを愛してくださっています。わたしたちが自分の罪のために苦しむのを「自業自得だ」と冷たく見放しはなさいません。その苦しみを共にするために、この世に来てくださったのです。

 クリスマスの賛美に「みくにをもみくらをも」という歌があります。

御国をも御座をも 降りにしイエス君を 受くる家あらず
住み給え、君よ ここにこの胸に
イエスがお生まれになったとき、宿屋には部屋がありませんでした。それでイエスは汚く、暗く、臭い「べこ小屋」にお生まれになったのです。神の光に照される時、わたしの心も「べこ小屋」のように汚く、暗く、臭いかもしれません。でも、イエスよ、わたしのこの心にお生まれください。そして、わたしをきよめ、照らし、いのちの香りを放つ者としてください。この歌詞はそんな祈りなのです。「こころをきよめてから、身辺を明るくしてから、香り高い人格者になってから、イエスを迎え入れます」というのではありません。それならイエスを迎えるのはいつのことになるか分かりません。おそらく生涯出来ないでしょう。自分に罪があるからこそ、それ赦し、きよめていただく。そのために救い主をお迎えするのです。救い主は、罪あるわたしたちのところにまで降りてきて、罪ある者と「共にいてくださる神」だからです。

 三、永遠まで共に

 救い主は、「インマヌエル」、「共におられる神」です。わたしたち罪ある者と共に、しかも一時的にではなく、永遠までも共にいてくださるお方です。ヨハネ1:14に「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」とあります。「言」とはキリストのことです。「わたしたちのうちに宿った」とは、文字通りは「テントを張る」という意味です。アブラハム、イサク、ヤコブといった信仰の父祖たちはみなテントに住みました。それで「テントを張る」という言葉は、そこに「住む」、「定住する」ことを表わしています。救い主はほんの少しだけ私たちを訪れてくださる「訪問者」ではなく、「住人」として、私たちとずっと共にいてくださるのです。

 キリストは、復活の後、天に昇られる前、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と弟子たちに約束されました。キリストは天におられると同時に、今、私たちとともにいてくださるのです。やがて、救い主をこの目で見る時がやって来ます。その時次の約束が成就します。「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)神はわたしたちのうちに住み、わたしたちは神のうちに生きるのです。

 皆さんの中には、新しい年を迎えようとしているのに、まだ心の痛みや悲しみを拭い切れないでいる人があるかもしれません。まだ解決されていない問題があり、これからの人生の闘いに不安を感じている人もあるでしょう。新年を迎えるにあたって、わたし自身が与えられた御言葉ですが、次の御言葉を皆さんにお伝えしたいと思います。「イスラエルよ聞け。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。気おくれしてはならない。恐れてはならない。あわててはならない。彼らに驚いてはならない。あなたがたの神、主が共に行かれ、あなたがたのために敵と戦って、あなたがたを救われるからである。」(申命記20:3-4)「あなたがたの神、主が共に行かれる」とは、なんと心強い言葉でしょう。「共におられる神」、イエス・キリストが新しい年を「共に」歩んでくださいます。このお方と共に歩むなら、わたしたちは明日を恐れることはないのです。

 「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。」救い主は、赤ん坊となって世にこられました。赤ん坊を怖がる人は誰もいません。赤ちゃんの回りにはみんなが集まってきます。赤ちゃんは無力に見えますが、人を惹きつけ、人の心を素直にし、和らげる大きな力を持っています。貧しい羊飼いたちや、今までイスラエルに縁もゆかりもなかった東方の博士たちでさえ赤ちゃんのイエスに近づくことができたのです。私たちも、羊飼いたちのような素直な心、博士たちのような求める心さえあれば、救い主に近づくことができるのです。救い主イエス・キリストを、自分の心にお迎えするとき、イエスは、どんな時でもあなたと共におられる神、あなたの「インマヌエル」となってくださるのです。

 一年を振り返ると、恵まれた時ばかりでなく、苦しかった時も思い起こされます。もし、その時、イエス・キリストが共におられなかったら、どうなっていたことでしょう。そう思うと、主への感謝があふれてきます。この感謝を忘れず、新しい年に向かって、「共におられる神」、イエス・キリストにいよいよ信頼を寄せていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、「共におられる神」、主イエス・キリストを、あらゆる事柄の中に認めることができますよう、わたしたちの信仰の目を開いてください。わたしたちを求めておられる救い主を、わたしたちも、真剣に、本気で求める者としてください。インマヌエルである主イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/28/2014