神ともに在ます

マタイ1:22-25

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1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
1:24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。

 今から二千年前、人となってベツレヘムの家畜小屋で生まれてくださったキリストは、「イエス」と名付けられました。「イエス」とは、「ヨシュア」のギリシャ名で、「ヨシュア」には「ヤーウェは救う」という意味があります。イエスは、その名の通り、私たちを罪から救ってくださるお方としてこの世に来てくださいました。天使が「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださるお方です。」と告げた通りです。

 マタイの福音書は、天使のメッセージに続いて、「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』」と、旧約聖書のイザヤ書7:14を引用し、キリストが「インマヌエル」という名前を持つお方であると言っています。「インマヌエル」というのはヘブル語ですので、マタイは読者のために「訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。」という説明を加えています。キリストは「インマヌエル」、「私たちとともにいてくださる神」だというのです。

 では、「神が私たちとともにいてくださる」とは、いったいどういうことなのでしょうか。それは、私たちにどんな意味があるのでしょうか。今朝は、そのことをご一緒に考えたいと思います。

 一、人が神とともにいた時

 神は、もともと「インマヌエルの神」です。神は「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方」「高く聖なる所に住む」お方ですが、それは、神が他の誰をも寄せ付けない、孤独なお方ということではありません。神は、「わたしは、…心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」とイザヤ57:15で言っておられます。聖書は、神ははじめから人とともにおられたと教えています。

 創世記によると神は、人を「神に似た者」「神のかたち」に造られました(創世記1:26-27)。他の動物や植物は「種類にしたがって」造られましたが、人間だけは「神のかたち」に造られました。それは、神が人間とまじわりを持ち、人間も神とまじわりを持つためでした。神が霊であり、人格を持ったお方であるように、神は人間に、他の動物にはない、霊的な部分、神と共通した部分を与え、人格を与えることによって、人が神を知り、神を感じ、神の声を聞き、神の顔を仰ぎ見ることができるようにしてくださったのです。

 その神と人とのまじわりは、創造の第七日目、「安息日」と呼ばれる日に起こりました。神は、七日目には創造のわざを休み、この日を祝福されましたが、それは、七日目にご自分が造られたすべてのもの、とりわけ人間を祝福されたということです。この日に、神は人と語らい、人とのまじわりを楽しまれたのです。私たちが、こうして、一週間に一度、礼拝をささげ、神とまじわるのは、神が、七日目に人と交わり、人を祝福されたということに基づいています。この日は、神にとっては第七日目でしたが、アダムにとっては、第一日目でした。アダムは、六日目の最後に造られ、「夕があり、朝があった。」(創世記1:31)わけですから、アダムが眠りから覚めて最初に迎えた日が安息日だったのです。神から見るなら、それは創造の第七日でしたが、人間から見れば、それは人生の第一日目でした。神は、人類の歴史の第一日目を、祝福ではじめてくださったのです。クリスチャンが、週のはじめの日、日曜日に礼拝するのは、キリストが日曜日に復活されたからですが、それとともに、アダムがその人生の第一日目に神の祝福を受けたように、私たちも週の第一日目に神の祝福をいただき、神とともに一週を始めるためなのです。

 来年、2006年のカレンダーをご覧になって、気がついた人も多いと思いますが、2006年1月1日は日曜日ですね。一週間が、復活の日、礼拝の日からはじまるというだけでもすばらしいのですが、一年が神とのまじわりの日、祝福の日からはじまるというのは、とてもエキサイティングなことです。一年を、神とのまじわりからはじめ、神とのまじわりの中に歩んでいきたいものです。また、1月1日が日曜日なら、うるう年ではない限り、12月31日も日曜日になります。どの年も、神とともにはじめ、神とともに終わる一年であり、また、そうありたいものですが、来年は、まさにそのような年でありたいと思っています。神は、人とまじわるため、人とともにいてくださるために、人を造り、また、そのために一週のうち一日を聖別されました。この神、「インマヌエル」の神に、私たちも、心からの礼拝をささげる者となりたいと思います。

 二、人が神から離れた時

 創世記を続けて読んでいくと、エデンの園でアダムがどんなに幸せであったかが描かれています。神は、そこに手を伸ばせば好きなだけ食べることのできる木の実を無数に植えました。そこには川があり、それらの木にいのちを運んでいました。また、金や宝石類が多く埋蔵されていました。エデンの園は「楽園」でしたが、そこは、人間が何の努力もしなくてよい場所ではありませんでした。そこで何をする必要もない「楽園」は、最初は良くても、やがては退屈な場所になり、人間の精神をむしばむことでしょう。創世記2章にアダムは、動物に名前をつけたとありますが、これは、アダムが、神が創造されたものを観察し、どのように動物を人間に従わせるかを学ぶための第一歩だったことでしょう。アダムは、エデン園で神の創造のわざを学んだのです。神は、また、アダムにエデンの園を守るという仕事を与えました。地上に造られたばかりのアダムに温和なエデンの園の環境が必要だったように、エデンの園にも、その環境を維持するためにアダムの知恵、人間の手が必要でした。そして、神は、アダムに一つの戒めを与えて、神に従うことを命じておられます。アダムとその妻エバは、エデンの園で、神からの守りとともに、神からの責任も与えられ、神とともに生きる喜びを味わっていました。しかし、アダムとエバは神に従うことを選ばず、神との約束を破ってしまいました。神は人とともにおられたのに、人が神を離れたのです。

 創世記3:7に「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」とあります。神とともにあった時、人は、自分が「神のかたち」に造られたことを喜んでいたのですが、神から離れた時に見たのは、神の形を失った自分の惨めな姿でした。神とともにいた時には、人はエデンの園を歩き回られる神と出会い、神の声を聞き、神に語りかけていたのに、神から離れた時、彼らは神を避けて、木の間に身を隠しています。神とともにあった時、アダムは「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」と言ってエバを喜んだのに、罪を犯してからは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と、エバを「この女」と呼んでいます。夫は妻をかばわなければならないのに、アダムは自分の犯した罪をエバのせいにしているのです。「あなたが私のそばに置かれたこの女」という言い方には、「神がろくでもない女を私に与えたので、こんなことになったのです。神さまにも責任があるのではありませんか。」という響きがありますね。アダムは、神に対して悔い改めるどころか、自分の責任をエバになすりつけ、神にまでなすりつけているのです。アダムが神の戒めを破ったこと自体が罪ですが、アダムが自分の罪を認めようとしなかったことに、もっと大きな罪があるように思います。

 人はこのようにして神に対して罪を犯す時、かならず、他の人に対しても罪を犯します。神の栄光をないがしろにするとき、かならず、他の人を、しかも身近な人を傷つけるのです。心が神から離れる時、他の人からも心が離れていきます。神とのまじわりが損なわれると、かならず、それは、人とのまじわりを損ないます。本来は愛し合わなければならない夫婦の間にひびが入り、親が子を傷つけ、創世記4章のカインとアベルの物語にあるように、兄弟で殺し合いをするようになってしまうのです。そして、このようなことは、聖書が書かれた何千年も前から、今にいたるまで、続いています。人類は、失敗から学び、歴史から教えられてきたはずなのに、すこしも良くなっていないのです。相変わらず、自分を正しいとして他を退け、人と人の関係がどんどん冷たくなっていくばかりです。世の終りには、人々の愛が冷えると聖書は言っていますが、まさに、今がそのような時代です。それで、「こうしたら、夫婦が円満になる。」「こうしたら、家庭はうまくいく。」「こうしたら、職場の人間関係は良くなる。」「こうしたら、友達をたくさんつくることができる。」などなどのテクニックが教えられるようになりました。そうしたものは全く役に立たないというわけではありませんが、決して根本的な解決を与えるものではありません。日本では数年前から「いやし」ということばが流行っていて、「これがあなたをいやす。」などと言われるのですが、そうしたものは私たちの心に、社会に、ほんとうのいやしを与えるものではありません。ほんとうの解決は、人が神に立ち返ることにあります。人が神に立ち返り、神に近づく時、互いの距離も近づいていくのです。これは、以前ルツ会で「夫婦の関係」について話した時に使ったフラッシュ・カードですが、夫婦の関係を三角形で表してあります。神が三角形の頂点にあり、夫と妻はそれぞれ三角形の左と右の角にいます。結婚はたんに人間社会が作り出した制度ではなく、神が、創造のはじめに定められたものです。ですから、どの国、どの民族、どの社会でも結婚は神聖なものとみなされています。すべての結婚は、神に対する責任があるのです。夫婦の関係は相互の関係だけではなく、そこには、神との「三角関係」があるのです。夫と妻のそれぞれが、神に近づいていくことによって、夫と妻は互いに近づいていきます。夫婦が神への信頼を深めれば深めるほど、互いの信頼が深められていきます。このことは、夫婦の関係だけでなく、すべての人間関係に当てはまります。人は、神から離れることによって、自らに悲惨を招きました。それで聖書は、いたるところで「神に立ち返れ。」「神に近づけ。」と教えているのです。人々は、目新しい教えを求めて、この聖書のメッセージから離れて行きました。しかし、私たちのかかえている問題は、神に立ち返ることによってしか解決することはできません。私たちは、そのことを自分の体験からも、他の人の経験からもよく知っていますね。神は、私たちとともにいることを望んでおられるお方、私たちが神とともにいることを願っておられるお方です。この「インマヌエル」の神に、立ち返り、近づこうではありませんか。

 三、人とともに神がいる時

 人は神を離れました。では、神も、まったく人から離れてしまわれたのでしょうか。いいえ、神は、罪を犯したアダムにさえ、ご自分のほうから「あなたは、どこにいるのか。」と呼びかけてくださいました(創世記3:9)。神は、アダムの子孫からアブラハムを選び、アブラハムの子孫を神の民としてくださいました。神の民、イスラエルがエジプトの奴隷から救われた後、神は、イスラエルに、神の住まいとなる幕屋を作るように命じました。人々は、エジプトか持ってきた金銀、宝石をささげ、それによって、幕屋を作りました。イスラエルは、荒野を転々としましたが、イスラエルの行く所どこにでも神の幕屋は共に行き、イスラエルは神の幕屋を中心にして、各部族ごとに整然と宿営したのです。神は、常に、イスラエルとともにおられ、イスラエルの中心におられました。そして、イスラエルは「神ともに在ます。」ということを全世界にあかしするはずでした。

 ところが、そのイスラエルが神から離れてしまったのです。彼らは、まことの神をないがしろにし、外国の神々を慕いました。人々が神から遠ざかるにつれ、イスラエルに不道徳がはびこり、社会は混乱し、国家は衰え、そして、ついにイスラエルは滅ぼされてしまったのです。しかし、そんな時にも、神は、イスラエルを見捨てず、イスラエルに「わたしに帰れ。」と呼びかけ、「わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。」(出エジプト6:7、レビ26:12、エレミヤ7:23、11:4、30:22、エゼキエル36:28)と約束してくださいました。神は、神から離れ、罪の中にある人間が自分の力では神に立ち返ることができないことをよくご存知ですから、私たちが神に立ち返り、神に近づくことができるために、救い主を与えると約束してくださいました。

 そして、その約束は、クリスマスに成就しました。ヨハネ1:14に「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とはキリストのことです。「人となって」とは、キリストが赤ん坊になって生まれてくださったことを意味しています。「私たちの間に住まわれた」とある「住まわれた」という言葉は、文字通りは「テントを張る」という意味です。これは、荒野を旅したイスラエルと共に、神の幕屋がいつも共にあったことを連想させます。黙示録にも「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」(黙示録21:3-4)と、「神の幕屋」のことが書かれています。「幕屋」や「テントを張る」という言葉は、キリストが「訪問者」として、ほんの少しだけ私たちを訪れてくださったというのではなく、「住人」として、私たちとずっとともにいてくださるということを表わしています。キリストは、復活の後、天に昇り、今、キリストの姿は、地上では見ることはできません。しかし、キリストが天に昇られる前、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束されたように、キリストは、天におられると同時に私たちとともにいてくださるのです。

 キリストは、キリストを受け入れた人の心を宮としてそこにいてくださいます。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)とキリストは言われました。「ともに食事をする。」というのは、古代では「和解」のしるしでした。キリストは、神から遠く離れて、神に敵対していた私たちの罪をゆるし、私たちを受け入れ、私たちとの間に変わらない、愛と信頼の関係を結んでくださるのです。「インマヌエル、神が私たちとともにおられる」と呼ばれるキリストは、もうすでに、私たちの世界に来てくださいました。今度は、私たちが、キリストを心に迎え入れる番です。その時、コリント第二6:16に、「私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。『わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』」とある聖書の約束が成就するのです。

 キリストは私たちとともにいてくださるお方です。しかも、ただ、ここにいてくださるだけというのではなく、私たちを知り、愛し、私たちを導き、私たちに力を与えてくださるお方として、私たちとともにいてくださるのです。日本で長い間宣教師として働いておられたメリー・フォックスウェル先生は、ご自分の本の中に、こんな話を書いています。あるグロッサリ・ストアで、三歳と五歳の子どもと、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて買い物に来ていた母親がいました。それは、三人目の赤ちゃんが生まれてからはじめての、子どもたちを連れての買い物でした。チェックアウトのため順番を待っていると、三歳の子どもがグレープ・ジェリーの瓶を落とし、こなごなに砕けたガラスのかけらが飛び散り、床にジェリーが流れ出しました。それを始末するだけでも大変なのに、五歳の子が突然「バスルールに行きたい。」と言い出し、赤ちゃんまで、おなかがすいたのか泣き出す始末でした。その時、このチェックアウトの列の先頭にいた女性が、振り返って言いました。「あなた、私と順番をかわりましょう!先に、チェックアウして!私も、五人子どもがいて、大変なのが良く分かるわよ!」この母親は、彼女と同じ経験をした人、彼女の気持ちがわかってくれる人が側にいたため、その人に助けてもらうことができたのです。同じように、キリストは私たちの労苦、重荷、必要をすべて知っていてくださるお方です。そのようなお方が、私たちの側に、いつもいてくださる、それはなんと幸いなことでしょうかと、メリー・フォックスウェル先生は、その文章を結んでいます。あなたの側に、このような救い主が常にいてくださいます。あなたはその方をご存知でしょうか。私たちとともにいてくださる神、「インマヌエル」の神、イエス・キリストを見出してください。このお方を心に迎え、このお方とともに人生の歩もうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは、あなたから遠く離れていました。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。」とのおことばの光に照らされる時、あなたから、あなたのお心から遠く離れた者であることに気づかされます。しかし、あなたは、そんな私たちにも、「あなたはどこにいるのか。」「わたしに帰れ。」「わたしはあなたとともにいる。」と呼びかけ、招き続けてくださいました。あなたが私たちとともにおられることを望んでおられるように、私たちもあなたとともいることを願います。私たちの心と生活にあなたをお迎えします。私たちに、ともにいてくださるあなたを、どんな時も忘れることのないよう、導いてください。私たちの「インマヌエル」、イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/11/2005