1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
1:4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
1:7 ソロモンにレハベアムが生まれ、レハベアムにアビヤが生まれ、アビヤにアサが生まれ、
1:8 アサにヨサパテが生まれ、ヨサパテにヨラムが生まれ、ヨラムにウジヤが生まれ、
1:9 ウジヤにヨタムが生まれ、ヨタムにアハズが生まれ、アハズにヒゼキヤが生まれ、
1:10 ヒゼキヤにマナセが生まれ、マナセにアモンが生まれ、アモンにヨシヤが生まれ、
1:11 ヨシヤに、バビロン移住のころエコニヤとその兄弟たちが生まれた。
1:12 バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ、サラテルにゾロバベルが生まれ、
1:13 ゾロバベルにアビウデが生まれ、アビウデにエリヤキムが生まれ、エリヤキムにアゾルが生まれ、
1:14 アゾルにサドクが生まれ、サドクにアキムが生まれ、アキムにエリウデが生まれ、
1:15 エリウデにエレアザルが生まれ、エレアザルにマタンが生まれ、マタンにヤコブが生まれ、
1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。
1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。
新しい本を手にした時、みなさんは、「この本にはどういうことが書いてあるのだろう」と、まず最初のページを大きな期待をもって開くことでしょう。もし、最初のページが難しかったり、退屈だったりしたら、そこから先は読まなくなるかもしれません。本を書く人がいちばん苦労するのは、その本の書き出しをどうするかということで、最初のページをできるだけ興味深くしようと、たいへんな努力をするそうです。ところが、新約聖書の最初のページは、いきなり「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」とあって、「アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、…」と、まるで親しみのない人々の名前がずらずらと並べられています。「聖書を読んでみよう」と意気込んで、新約聖書を開いたら、いきなり、知らない人々の名前がならんでいて、戸惑ってしまったという人も少なくないかもしれません。
では、新約聖書の第一ページ目は、読者の興味をつかむのに失敗した、無意味で退屈なものなのでしょうか。そうではありません。この系図は、よく読むと、とても興味深く、大切なことをいくつも含んでいます。今朝は「イエス・キリストの系図」が私たちに、語りかけ、伝えようとしていることの中から三つのことを学ぶことにしましょう。
一、キリスト実在の証明
「イエス・キリストの系図」は、イエス・キリストについて三つのことを証明しています。まず、第一に、それは、イエス・キリストが実在の人物であることです。マタイの福音書や新約聖書に書かれているイエス・キリストのストーリーが、決して夢物語でも、作り話でもなく、イエス・キリストの生涯と教えの正確な記録であることを、この系図は私たちに教えているのです。
ユダヤの人々にとって、系図は戸籍のようなものでした。もし、イエスに系図がなければ、イエスは戸籍をもたない架空の人物ということになってしまいます。昔話の桃太郎や、かぐや姫には、系図も戸籍もありません。しかし、実在のイエスは系図を、戸籍をもっています。イエスは、ヨセフとマリヤが人口調査のために、本籍地であるベツレヘムに来ていた時、そこで生まれ、その時、ヨセフ、マリヤとともに戸籍に登録されました。イエスは「むかし、むかし、あるところに」生まれた物語の人物ではなく、皇帝アウグストの時代、クレニオが総督であった時、ベツレヘムで生まれたお方です。アブラハム以来、四十人以上の先祖をたどることができる実在の人物です。物語の中のヒーローはどんなに強くても、私たちを救うことはできません。この地上に生まれ、生き、死なれ、そしてよみがえられて、今も生きておられるイエス・キリストだけが私たちを救うことができるのです。
最近、イエスの兄弟ヤコブの骨壷が発見されたというニュースがありました。そのニュースの中で「これはキリストの実在を示す最初の証拠である」などと言われていました。まるで、キリストの実在を示すものが今まで何も無かったような言い方でしたが、イエスが、この地上に生まれ、生き、死なれたことは、これまでも数限りない証拠で証明されてきました。イスラエルに行くと、いたるところに、イエスの足跡を見ることができます。ローマに行けば、地下墓所の壁にに、キリストを描いたものが残っています。ローマのクリスチャンたちは迫害を逃れて地下墓所で礼拝を守り、そこにキリストを表すものを書き残したのです。イエスが実在のお方でなければ、新約聖書も、教会も生まれませんでした。新約聖書は、紀元一世紀の貴重な歴史資料ですが、聖書だけではなく、ローマの歴史家たちが書き残したもの、たとえばタキツゥスの「年代記」、ストニウスの「皇帝列伝」、プリニィの著作にもキリストへの言及があります。タキツゥスは「キリストはティベリウスの代に、総督ポンテオ・ピラトによって死刑にされた」と書いています。これらの歴史家たちはクリスチャンを弁護するためにそう書いたのではなく、客観的な歴史の事実を書き残そうとしたのです。イエスの歴史性は、証明された事実で、それを否定できるものは何もありません。イエス・キリストは歴史上の人物です。いや、もっと正確に言えば、イエスは人間の歴史を越えた方であり、人間の歴史をつくり出した方と言うことができます。イエスこそ世界の歴史の中心です。世界の歴史は、キリストを境にして、B.C. (Before Chirsit) と A.D. (Anno Domini) に分けられています。"History" は、 His story つまりキリストを物語るものであると言うことができるほどです。
二、イエスがキリストであることの証明
第二に、この系図は、イエスこそ、キリストであることを証明しています。
イエスの時代の前にも、またその後にも、「わたしこそキリストである」と名乗り出た者が大勢いました。その多くは、人々を集め、ローマに対して反乱を起こしましたが、みな滅びてしましました。キリストの先駆者となったバプテスマのヨハネが現れた時も人々は、「彼もまた『自称キリスト』のひとりだろう」と思っていました。それで、バプテスマのヨハネは「私はキリストではない。キリストは私のあとから来られる。」と言ったのです。バプテスマのヨハネは、「聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」と、神からの示しを受けていました。イエスがヨハネのもとにやってきて、ヨハネからバプテスマを受けた時、聖霊が鳩のようにイエスの上にくだりました。それを見たバプテスマのヨハネは、イエスこそキリストであることを知り、あかししたのです。自分をキリストであると名乗り出るものがキリストなのではなく、神によって遣わされ、聖霊によってあかしされた者がキリストなのです。
イエスは盲人の目を開け、足のきかない人を立たせ、死人さえも生き返らせましたが、それは、キリストが来る時、そのような奇蹟を行うと預言されていたとおりでした。もし、自分がキリストであるという人がいたなら、その人は、イエスがしたように、盲人の目を開け、足のきかない人を立たせ、死人を生き返らせるという奇蹟ができなくてはならないのです。そればかりではありません。キリストは人間の罪のために十字架につけられ、死んで、三日目によみがえりました。これもまた、聖書に預言されていました。イエスの他、罪人のために死んだ人がいるでしょうか。イエスの他に、死んで、しかし、死に打ち勝って、よみがえった人がいるでしょうか。イエスだけが聖書の預言のとおりの生涯を送り、それを成就したお方です。
イエスは、数々の奇蹟だけでなく、その誕生においても、ご自分がキリストであることを証明しています。イエス・キリストの系図は、キリスト誕生の預言であり、この系図はイエスがキリストであることを物語っています。イエス・キリストの系図は「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(1節)ということばで始まっています。アブラハムとダビデのふたりが、特別扱いされていますが、それは、キリストがアブラハムの子孫から、またダビデの後継者から出るとの約束があったからです。イエスは、今から二千年前に生まれましたが、そのさらに二千年前、神は、数多くの民族の中からアブラハムを選び、彼に「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:2-3)と言われました。これは、すべての人を祝福するキリストがアブラハムの子孫から出るとの預言でした。イエスが生まれる四百年ほど前に、釈迦や孔子が生まれています。釈迦も孔子も偉大な人物でしたが、彼らは、神から遣わされた救い主ではありませんでした。なぜなら、救い主はインドからでも、中国からでもなく、ユダヤから出ると、預言されているからです。
神は、多くのユダヤ人の中から、さらにダビデを選びました。そして、ダビデに「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(サムエル第二7:12-13)と約束しました。この約束は、ソロモンによって成就しましたが、それは完全な成就ではありませんでした。ソロモンの後、国は南北に分裂し、北王国はアッシリヤに、南王国はバビロンに滅ぼされ、イエスが生まれた時、ユダヤの王であったのは、ダビデの子孫どころか、ユダヤ人でもなかったヘロデだったのです。「あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(サムエル第二7:16)との約束は、イエス・キリストが復活して、永遠の神の国の王として、神の右の座に着いたことによっ成就しました。このように、キリストはアブラハムの子孫であり、ダビデの子でなければならないのです。誰も勝手に、「われこそはキリスト」と名乗ることはできませんし、また、「彼こそはキリストだ」と言うことはできません。「われこそはキリスト」と名乗る者は、系図によって、その資格を証明しなければなりません。また、「彼こそはキリストだ」と教える者も、系図を示して、その主張の正しいことを証明する必要があるのですが、この系図は、イエスが・キリストであることの証明としてここに書かれています。新約聖書は旧約聖書の続編と言ってもよいもので、旧約聖書に約束され、預言されていたことがどのように実現し、成就したかを書いています。この系図は、イエス・キリストが旧約の約束を成就させたことを物語っているのです。このように考えると、なぜ、新約聖書の第一ページに「イエス・キリストの系図」が掲げられているかがお分かりいただけると思います。この系図は、旧約の預言の成就を示すことによって、旧約と新約とをつなぎあわせているのです。
三、恵みによる救いの証明
「イエス・キリストの系図」は、第三に、人は系図によって救われるのではないということを教えています。
ユダヤの人々はたいへん系図を重んじ、由緒正しい血筋を持っている人だけが、神の前に特別な立場を持つことができると考えていたのですが、この系図は、人は血筋によってその価値が決まったり、神の前に立場を得たりするのではないということを教えています。逆説的なことですが、神は、系図を使って、系図を誇っている人々の間違いを正そうとされたのです。
この系図を見ると、「バビロン移住」ということばが繰り返されています。「移住」といっても、イスラエルの人々が自らの意志でバビロンに行ったのではありません。彼らは罪を犯したため、バビロンによって国を滅ぼされ、捕虜となって無理やり、バビロンに引っ張られていったのです。この系図は「アブラハムからダビデまで」と「ダビデからバビロン移住まで」「バビロン移住からキリストまで」と三区分されています。「アブラハムからダビデまで」は、いわば、上昇過程と言えるでしょう。アブラハムに約束されたように、その子孫は増え広がって一つの国をつくるまでになるのですから。ところが、ダビデから「バビロン移住」までは、下降線です。人々は信仰を失い、神に対して不従順になり、国は乱れ、ついに滅びます。「バビロン移住からキリストまで」は、もっと下降線をたどります。ユダヤにはもはや王は無く、ペルシャやエジプト、ローマといった大きな国に蹂躙されてきました。ダビデの子孫の名前がバビロン移住以降も書かれていますが、この人たちがダビデの子孫であったことに誰が注目したでしょうか。彼らは、まったくの庶民となり、貧しく、苦しい生活を強いられたのです。ここにいたっては、系図も、血筋もまったく無力です。しかし、キリストはそんなどん底の中から、人々を救い出すお方として、生まれてくださったのです。救いは、ダビデやソロモンのように、神の民がもっとも栄えた時代に、彼らの力でもたらされたのではなく、彼らが国を失い、その存在すらも危うくなった時に、ただ神のあわれみにより、神の恵みによってもたらされたのです。この系図は、救いが血筋によらず、ただ神の恵みによってもたらされることを示しています。
この系図には五人の女性の名前が出てきます。三節に「タマル」、五節に「ラハブ」と「ルツ」、六節に「ウリヤの妻」、それから十六節に「マリヤ」です。聖書の系図は男性の名前だけが書き連ねられ、女性の名前が載らないのが普通です。たとえば、創世記第五章などを見ると、「アダムは、セツを生み、セツはエノシュを生み…」と書いてあります。カソリックの司祭でバルバロという人が訳した聖書では、この、マタイの福音書の系図も「アブラハムはイザアクを生み、イザアクはヤコブを生み…」となっています。これを読んだある人は、「エッ、アブラハムって女性だったんですか」と言ったそうです。もちろん、この「生んだ」は「アブラハムはイサクを出産した」という意味ではなく、子孫を得たという意味ですが、それほどに、ユダヤ人の系図は男性中心だったのです。なのに、わざわざ女性の名前が出てきて、しかも、その女性たちが、それぞれいわくつきの女性だったというのには、理由があります。
まず、タマルですが、彼女は、ユダの嫁でした。タマルは夫が亡くなったために、当時の規定に従って、夫の兄弟に嫁ぐことを待っていたのですが、ユダはその約束を守りませんでした。それで、タマルは遊女のふりをして、舅であるユダと関係を持って子どもをみごもりました。ユダのスキャンダルをわざわざ思い起こさせるようにしてタマルの名前がここに出ています。次の「ウリヤの妻」にはバテシバというちゃんとした名前があるのですが、その名前は使われず、「ウリヤの妻」と呼ばれています。それは、忠実な家臣ウリヤから妻をとりあげて自分のものにし、ウリヤを戦場で殺させた、ダビデの罪を思い起こさせます。これらの女性の名前は、イエス・キリストの立派な系図を汚すかのように見えますが、聖書はわざわざ彼女たちに触れて、アブラハムからキリストにいたる人々の歴史が、このように人間の罪や弱さにまみれたものだということを教えようとしているのです。イエスは、神の子として罪を持たずに生まれましたが、しかし、同時に、人類が、長い歴史の中で積み重ねてきた罪をその身に背負うために、長い世代の系図の終わりに、罪深い人類の子孫として生まれてくださったのです。
そして、この系図は、キリストの救いは、信仰によって受け取るものであることをも教えています。ラハブは、エリコの町の遊女でした。ほんらいは、滅ぼされるべきカナンの女だったのですが、イスラエルから遣わされたスパイをかくまうという大胆な信仰によって救われ、イスラエルの一員となりました。ルツは、イスラエルの会衆に加えられてはならないモアブの女性でしたが、その献身的な信仰によってダビデ王の曾祖母となったのです。そして、最後にマリヤは、当時「異邦人のガリラヤ」と呼ばれた、ガリラヤ地方の一少女にすぎませんでしたが、その従順な信仰によって救い主の母となるという栄誉を得たのです。
この系図は、イエスが、単に、由緒正しい家系に生まれた高貴なお方であるということを言おうとしているのではありません。イエスは、罪にまみれた者、どん底にある者を、救うために世に来られたと言っています。マタイは、ユダヤ人の重んじる系図を冒頭にもってくることによって、イエスはキリストであることを証明しましたが、それと同時に、アブラハムにさかのぼる系図を持たない異邦人も、恵みにより、信仰によって救われると宣言しているのです。人は、系図によってでも、血筋によってでもなく、ただ神の恵みによって救われることを、この系図は証明しています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:12-13)この救い主を心に受け入れ、私たちも神の国に受け入れられる、そのようなクリスマスでありましょう。
(祈り)
父なる神さま、イエス・キリストの降誕を待ち望むアドベントの第一週に、「イエス・キリストの系図」から、イエスがまことの救い主であることを改めて学ぶことができました。このイエスを心に受け入れ、さらに喜び、この救い主をさらに多くの方々に伝えていく私たちとしてください。主イエスのお名前によって祈ります。
12/1/2002