あわれみの心

マルコ6:30-34

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6:30 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
6:31 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
6:32 そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

 一、キリストを知る

 今週ロンドン・オリンピックが始まります。オリンピックの開会式ではギリシャの選手たちが一番はじめに入場します。それはオリンピックがギリシャで始まったからです。その起源はとても古く、聖書には競技場で走ったり、レスリングやボクシングで力や技を争ったりする選手たちのことが、いくつかの箇所に書かれています。コリント第一9:24-27はそのひとつで、そこには、信仰の生活においても、ゴールを目指し、賞を受けられるようにしなさいと教えられています。どんなことにおいても、ゴールを持つことは大切ですが、信仰ではなおのことです。「ゴールを目指しなさい」と教えた使徒パウロは、自らもゴールを目指してその人生を走りぬいた人でした。ピリピ3:13-14で「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている」と、言っています。

 では、私たちの信仰のゴールは何でしょうか。それは「キリストを知ること、キリストに似ること、キリストを伝えること」だと言われます。キリストに似ることも、キリストを伝えることも、キリストを知ることからはじまります。「自分はもう知っている」と思ったところで、信仰の成長が止まってしまうからです。キリストは、私たちが少し勉強してそれで知りつくすことのできるような小さなお方ではありません。聖書は「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(コリント第一8:2)と戒めています。人間の努力だけで神を知ろうとするのは、海の水をバケツで汲みつくそうとするようなものです。私たちは、謙虚に主を知る恵みを与えてくださいと祈り、主を知る知識を追い求めたいと思います。

 先月教団の夏期修養会がありましたが、私にとって、修養会はなにより、みことばを聞く良い機会です。ふだんは説教する立場にありますので、聞く立場に身を置くのはとてもうれしいのです。それともう一つは他の地域のクリスチャンに会うことです。そうした方々とは年に一度、修養会が行われる7月のはじめにしかお会いしませんので、「まるで七夕のようですね」と冗談を言いながらも、その顔を見るだけでも、とても励まされます。ある教会の伝道所で中心的な働きをしている姉妹に今年も会いました。彼女は、私がアメリカでの奉仕をはじめて間もないころ、ネービーのチャプレン付きの兵士と結婚してアメリカにやってきました。先輩の婦人に連れられて教会に来て以来、休ます礼拝と聖書の学び会に来て、素直に信仰を持ちました。教会で「12ステップ」のデボーションを翻訳出版するときには、かなりの部分をワードプロセッサーでタイプしてくれました。やがてご主人が除隊して引っ越し、別の教会に移りましたが、その教会が伝道所をはじめるとき、彼女は伝道所のリーダーのひとりに選ばれました。彼女は、自分が教えられたように、新しい人たちを教えたいと、私から習った教材を送って欲しいと頼んできました。その教材の他、いくつかのものを送りましたら、「聖霊について教えているものがあれば、それも送ってください」と、また頼まれました。彼女は、とても静かで、おとなしい人ですが、その内側に、主を知ることに対する熱心と飢渇きを持っています。彼女は「わたしには、もっと主を知りたいと思うのになかなかそれが満たされないという不満があります。修養会で『聖なる不満』という言葉を聞きましたが、これは『聖なる不満』でしょうか」と話してくれました。神は、この人のように、「聖なる不満」を持って、キリストを知ることを求める人を喜び、祝福してくださることでしょう。

 二、キリストの心を知る

 「キリストを知る」というのは、たんに「キリストについて」数多くのデータを蓄えることとは違います。「キリストについて」知っていることと、「キリストを」知っていることとは別の次元のことです。

 今は、インターネットで何でも調べられる時代になりました。グーグルの検索機能を使えば、かなり専門的な知識を手に入れられます。インターネットにある記事だけを使って学位論文を書いた人もいるほどです。しかし、そういう方法で得た知識というのは、断片的なもので、基礎から積み重ねて、系統的に学んで得た知識にはかないません。「木を見て森を見ない」という言葉がありますが、インターネットの世界はまさにそうです。聖書や信仰のことは、あちらで少し、こちらで少し勉強してきたというのでなく、教会で指導を受けてしっかり学んでいないと、神の救いの計画の大きな全体像を見失ってしまいます。聖書を学んでいながら、聖書の大切な真理を見落としてしまいかねません。

 キリストは生きておられるご人格です。ですから、キリストについてのあれこれの知識を数多く持てば、それでキリストを知ったことになるわけではないのです。人格であるお方を知るためには、人格をもってしなければなりません。言い換えれば、キリストを知るとは、キリストのお心を知ることです。そして、キリストのお心を知るには、私たちの頭脳だけでなく、私たちの心を働かせることが求められているのです。英語で "heart-to-heart relationship" といえば、お互いに心うちとけた間柄という意味になりますが、キリストは私たちに対するお心をすでに示しておられます。キリストは私たちの罪を悲しまれますが、私たちの悔い改めを喜んでくださいます。キリストは私たちの自己中心を戒められますが、私たちの祈りを受け入れてくださいます。キリストは私たちの冷淡な心を嫌われますが、私たちの神への情熱を認めてくださいます。"heart-to-heart"、キリストのハートには私たちのハートを、キリストの真実には私たちの信仰を、キリストの愛には私たちの愛をお返ししたいと思います。それが、「キリストを知る」ことです。

 このように「キリストを知る」、「キリストの心を知る」ことによって、私たちははじめて「キリストに似る」ことができるのです。ピリピ2:5に「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」と教えられています。これは、文語訳では「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」となっています。キリストの心を自分の心にするというのは、心臓移植にたとえることができます。「キリストの心臓(ハート)を私たちの心臓(ハート)として移植する」ということです。キリストに出会うまで、私たちのハートは死んだ状態でした。キリストを信じる前にも、私たちには良いものに感動し、美しいものにあこがれ、気の毒な人々に同情する心もありました。しかし、それは自分を中心としたもので、人間のことだけでした。神の愛に感動することも、キリストの麗しさにあこがれることも、神のことばを喜ぶこともありませんでした。神の目から見るなら、また、神に対しては、私たちのハートは冷たく固まっていたのです。神は、石のように固い心を取り除き、柔らかく温かい心を与えると約束しておられましたが、それを、キリストのハートを移植することによって実現してくださったのです。

 臓器移植では拒否反応が起こり、それを克服することが課題ですが、キリストのハートを頂く場合も同じです。私たちの中に残っている古いものがキリストのハートに対して拒否反応を起こすことがあります。それさえなければ、キリストのハートが私たちの全身に新鮮な血液を巡らせ、私たちはキリストのいのちと恵みに満たされ、成長することができます。「キリストを知る」とは「キリストの心を知る」ことであり、「キリストの心を知る」とは「キリストの心を持つ」ことです。そのようにして私たちはキリストを知り、キリストに似ていくのです。

 三、あわれみの心

 このようにキリストの心に近づくとき、私たちはキリストの心が「あわれみ」で満ちているのを見るでしょう。キリストの心は、じつに「あわれみの心」です。

 今朝の箇所では、イエスが伝道旅行から帰ってきた使徒たちに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言って、弟子たちを人里離れたところに行かせたことが書かれています。町や村のあるところだと、そこに人々が集まってきて、弟子たちが休みをとることができなかったからです。イエスは、弟子たちに休息を与えるとともに、弟子たちといっしょに静かな時を過ごし、弟子たちをさらに深く教えるつもりでした。ところが、群衆は、弟子たちの船が到着する前に、ガリラヤの岸辺を歩いてその場所に先回りしていました。イエスが船をおりると、大勢の人々がイエスを待ち構えていたのです。それで、イエスは弟子たちとだけで過ごす計画を変更して、人里離れたその場所でも、群衆を教え始められました。

 イエスがご自分の計画を変更してまで、そうされたのはなぜでしょうか。聖書は、群衆が「羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれまれた」からだと言っています。イエスは人々へのあわれみの心からそのことをなさったのです。イエスのあわれみの心について記されているのは、ここだけではありません。マルコ1:41で、イエスがらい病の人に手を伸ばして触れ、そのらい病をきよめられたことが書かれていますが、それは、イエスがらい病の人を「深くあわれんで」のことだったと書かれています。らい病のきよめには、イエスが、メシア(キリスト)として、旧約の預言を成就するため、また、弟子たちにご自分が神の御子であることを教えるためなどといった目的もあったでしょう。しかし、イエスの第一の動機は「あわれみ」からでした。決して、それによって人々を驚かせ、自分が神の子だということを見せびらかすためではありませんでした。イエスはらい病の人をいやすとき、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われましたが、イエスはそのとき、らい病の人に、御自分にいやしの力をあたえただけでなく、ご自分の心、あわれみの心をお与えになったのです。イエスの神の子としての力だけではなく、イエスのお心がらい病の人をいやし、きよめ、回復させたのです。

 イエスがナインという町のやもめの一人息子を生き返らせたのも、イエスのやもめに対するあわれみからでした。ルカ7:13に「主はその母親を見て、かわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた」とあります。らい病の人を「深くあわれんだ」という言葉も、その母親を見て「かわいそうに思った」という言葉も、原語は同じで、この言葉は「はらわたをかきむしられる」という、深い心の動きを指す言葉です。イエスが示された「あわれみ」は、たんなる同情心ではありません。自分が相手の立場に立ち、その人と苦しみを共にすることを意味しています。イエスが息子を亡くしたばかりのやもめをかわいそうに思われたのは、やもめとなり、やがてひとり息子を亡くすことになる母マリヤのことを思われたからでしょう。イエスは、ご自分の心を人々にお与えになっただけでなく、人々の心をご自分の心としてくださるお方です。

 人が人をかわいそうに思うというとき、知らず知らずのうちにその人の上に立って、「おかわいそうに…」と、あわれみをかけてしまうことがあります。そういう場合、同情を受ける側の人は慰め、励まされるどころか、おせっかいを受けているように感じるものです。しかし、イエスは、私たちと同じ立場に立ち、まごころから、私たちのために心を痛めてくださり、私たちの人生の同伴者になってくださるのです。

 「深くあわれむ」、「かわいそうに思う」と訳されている原語は良いサマリヤ人のたとえでも使われています。このサマリヤ人は強盗に襲われ、半殺しにされたユダヤ人を見て「かわいそうに思い」(ルカ10:35)、そのけが人を介抱しました。同じ言葉は、放蕩息子のたとえ話でも使われています。帰ってきた放蕩息子を認めた父親が「彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」(ルカ15:20)とあります。イエス・キリストは罪のない神の御子であるのに、そのあわれみの心のゆえに、罪のために傷ついている私たちのところに降りてこられ、その苦しみと痛みを共有してくださったのです。放蕩息子を迎えた父親のように、イエスもまた、悔い改めた罪人を迎え入れ、しっかりと抱きしめてくださいます。

 「キリストを知る」ことは「キリストの心を知る」こと、そして、「キリストの心」は「あわれみの心」です。このキリストのあわれみの心を求めましょう。心を開いてそれを受け、キリストの心を自分のうちにいただきましょう。そして、キリストに倣う者と変えられ、キリストをあかしする力を受けましょう。

 (祈り)

 あわれみ深い父なる神さま、今朝、私たちにイエス・キリストのあわれみの心を示してくださり、ありがとうございした。キリストはすべてのことを、私たちのために、その深いあわれみの心から行なってくださいました。キリストのみわざを思うたびに、そこにあるキリストのあわれみの心に目を留めさせてください。そして、私たちをいやし、生かす、このキリストの心を、心を開いて受け取り、受け入れ、私たちの心とすることができますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

7/22/2012