5:1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。
5:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。
5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。
5:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。
一、闇の世界
1節に「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた」とありますが、そこは、「ゲラゲサ」と呼ばれていた町だと思われます。ユダヤでは決して飼われることのないブタが飼われていたことから分かるように、そこはまったくの異邦人の地でした。ガリラヤ湖の東側は、西側とは全くの別世界で、人々はまことの神を知らないまま過ごしていました。
ユダヤの人々は「自分たちこそ神の民だ」と自らを誇り、異邦人と呼ばれる人々を軽蔑していましたが、当時のユダヤ人は不信仰で、他の人々に対して誇れるような状態ではありませんでした。けれども、ユダヤ人には、他の人々よりも優れたものがひとつだけ残されていました。それは、唯一のまことの神を知っていたということです。ユダヤには、神を知る知識の光がありましたが、他の国々は霊的には暗黒でした。ゲラサ人の町は、ユダヤの国のすぐそばにありながら、真理の光のない暗闇の世界でした。
まことの神を知らず、暗闇の中にいるのは、イエスの時代の人々だけではありません。こんなに教育が進み、情報伝達が発達している現代でも、まことの神を知らない人が大勢いるのです。昨年のピクニックで、韓国から来たひとりの姉妹が「ずっとキリストの福音を聞いたことがなかった」と話していました。韓国のようにクリスチャンが大勢いて、教会もたくさんある国でも、そうなのかと驚きました。興味や関心がなければ、どんなに情報があふれていても、クリスチャンの善い行いを見ても、証しを聞いてもそれが心に留まることがないのです。
アメリカの南部は「バイブル・ベルト」と呼ばれ、クリスチャンが多く、教会の盛んなところです。とくに、テキサスは「バイブル・ベルトのバックル」と言われるほど、しっかりした教会が多くあるところです。けれども残念に思うのは、韓国語や中国語、ベトナム語やラーオ語の教会が成長しているのに、同じアジアでも日本語の伝道がほとんど進んでおらず、日本語を話すクリスチャンの数も、教会の数も少ないままだということです。教会のクリスマスやイースター、VBSなどの催しの案内に触れ、教会の幼稚園やデー・ケアに子どもを預けている人も少なくないのに、多くの日本人は、福音に対して心を閉ざしているのです。こんなに福音の光にあふれている環境の中にありながら、まだ闇の中に閉じこもっている人が大勢いるのです。
二、死の世界
暗闇では暗闇の力が働き、悪霊たちが力をふるいます。この町の墓場に、悪霊に憑かれた人が住んでいました。この人は人の心を失い、他の人々と隔離され、何の目的もなく朝から晩まで墓場の中を歩き回わっていました。皆さんは、この人のことを考える時、恐ろしいと思いますか、それとも哀れに思いますか。あるいは、自分たちに関係のない物語だと思いますか。私は、この人の姿は、現代の私たちの姿そのものだと思うのです。もちろん、みんながこの人のように狂った生活をしているわけではありません。しかし、普通の生活をしていても、人の心を失い、他の人と真実な関わりを持つことができず、何の目的もなく人生を送っている人々が多くいるように思います。聖書の光に照らすとき、この人とイエスを信じる以前の私たちとにいくつかの共通点があることに気付きます。
第一に、この人も以前の私たちも霊的に死んでいました。この人は墓場に住んでいました。墓場というのは、生きた人間の住むところではなく、死人の住処です。生きた人が死人の住処にいる。これは、この人が「生きながらの死人」であったことを意味しています。身体は生きていても霊的には死んだ者でした。聖書は、生きる意味や目的を見失っている状態、人間として本来あるべき姿を失っている状態を霊的に死んだ状態だと言っています。たとえ、多くの知識があり、仕事をする能力があり、立派な行いができたとしても、霊的に死んでいる人は、神が私たちに与えてくださった本来の生き方をすることができないのです。
戦後、日本にアメリカ軍が駐留していた時のことです。ひとりのアメリカ兵が日本で一番立派な自動車に乗りたいと思いつきました。いろいろな自動車を探したのですが、アメリカにあるような立派な車はありませんでした。ところがある日、アメリカのキャンピング・カーのようなものを見つけました。屋根や窓がついていて、しかもそれが日本の古代建築のようになっていました。金色の装飾が施され、それはアメリカのどんなキャンピング・カーよりも豪華なものでした。このアメリカ兵はその車がたいへん気に入って、「ぜひこれに乗りたい」と掛け合いました。車の持ち主は「これは普通の人は乗れないんです」と渋ると、「普通の人が乗れないなら、なお、乗ってみたい」とそれに乗りました。天井が低いので寝そべって乗り、窓からVサインを出して町を一周したというのです。お分かりですね。このアメリカ兵は霊柩車に乗って町をひとまわりしたのです。これは笑い話ですが、現代の多くの人々は、死人を乗せる乗り物に乗って、墓場に向かうような生活をしているのかもしれません。それでいて、自分の姿に気付いていないとしたら、それほど不幸なことはありません。
第二に、この人も以前の私たちも自分の力以上のものに支配されていました。この人は自分の意志や理性でなく、悪霊の力に左右されていたのです。自分では、自由、気ままに生きているつもりでいたのでしょうが、実は、悪霊に縛られていたのです。聖書は、神から離れた人は、自分以上の霊的な力に縛られていると教えています。エペソ2:1-2に「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」とあります。これは私たちが悪霊憑きであったと言っているのではありません。「悪霊に憑かれる」というのは完全に悪霊の支配にある状態を言います。けれども、キリストによって解放されるまで、私たちはなんらかの形で悪霊の影響のもとにあったのです。ドラッグやアルコール、ギャンブルなどにのめりこんでいる人を見ると、その人たちが、その人たち以上の力に支配されていることがよく分かります。アルコール依存症の人は「酒を止めようと思えばいつでも止められる」と言うのですが、実際は酒にコントロールされていて、自分では止めることができないでいるのです。劣等感や虚栄、ひがみやねたみ、怒りや思いわずらいといったものに束縛されている人もなんと多いことでしょうか。
第三に、この人も以前の私たちも自分で自分を傷つけていました。聖書は、この人は「石で自分のからだを傷つけていた」と書いています。文明の歴史は「石器時代」、「青銅器時代」、また「鉄器時代」に区分されますが、この人が持っていた「石」は人類が最初に手にした道具で、文明や科学技術を表わします。人間は、他の動物のような腕力も、脚力もありませんが、道具を使うことによって、何万頭もの馬でなければ引っ張ることができないような重いものを動かすことができるようになりました。機械が人間の腕力の代わりをし、今ではコンピュータが人間の頭脳の代わりを果たすようになりました。科学技術は、人間の心の領域にまで入りこみ、人間がどんどん非人間化されているのを、私たちは目にしています。
どの子どもも携帯電話を持つ時代になりました。親は、それによって子どもと連絡が取れるので、安心していますが、携帯電話によって子どもが犯罪に巻き込まれたり、いじめを受けたりすることもあります。テキスト・メッセージに5分以内に返事を返さなかった、返事に絵文字を使わなかったというのでいじめられるのだそうです。子どもたちは仲間はずれにされないために、一日50通ものメールのやりとりをして、勉強したり、遊んだりする時間が無くなり、夜ふかしして身体を壊しています。携帯電話は、この墓場に住んでいた人が手に持っていた「石」のようなものかもしれません。人間は、今も、文明の道具によって自分を傷つけているのです。そして、自分を傷つけ、それが癒やされないでいる人は、思わぬ瞬間に人を傷つける言葉を口にしたり、とんでもない行動をしてしまい、人を傷つけるのです。そして、人を傷つけると、それを悔やんで、自分もそれによって傷つくようになります。
生きながら死んでいる、身勝手に生きているようで縛られている、そして自分を傷つけ、人を傷つける。それは、遠い昔のゲラサの人だけではなく、現代の私たちも同じだと思います。
三、救い
神から遠く離れ、悪霊にとりつかれ、人を傷つけ自分を傷つけているこの人はどうやって救われるのでしょうか。この人には何の希望もないように見えます。「希望を持て」と言っても無理な状態です。しかし、イエス・キリストが、この人のところに来られました。イエスはユダヤ人の誰もが、汚れた土地として足を踏み入れなかったゲラサ人の地に、ご自分の方から来てくださいました。その町の人たちさえも恐れて近づこうとしなかった墓場にまでイエスは足を踏み入れました。ここに救いの希望があるのです。
イエスは、救いを必要とする人々をいつも心に深く留め、その人の所に来てくださいます。イエス・キリストは救いを必要とする人がどこにいるかご存知で、どこにいようと、その人がいる所まで来てくださるのです。イエスはユダヤ人の誰もが嫌っていたサマリヤの町にわざわざ行かれました。サマリヤのひとりの女性が救われるためでした。エリコの町に行かれた時には、その町で一番の嫌われ者ザアカイの家に泊まりました。ザアカイが救いを求めていたからです。十字架にかけられた犯罪人の一人が死の間際にイエスを信じましたが、イエスはこの人を天国に導くため、その人の隣の十字架にかかられたと言うことができるでしょう。
イエスは、この墓場に住む人から悪霊を追い出し、この人を全く正気に返してくださいました。しかし、町の人たちはイエスに町から立ち去るよう願いました(17節)。この人から追い出された悪霊たちがブタに入ったため、二千匹ものブタが崖から湖に突進して、溺れ死んだからです。町の人たちは、この人が悪霊から解放されたことを喜ぶよりも、失くしたブタを惜しみました。イエスがたったひとりを救うためであっても、ユダヤからこの地まで来られた、その愛を、この町の人たちは理解できなかったのです。
正気に戻ったこの人は、イエスのお伴をしたいと申し出ましたが、イエスは、彼に言われました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。」(19節)この言葉は、この人に新しい使命を与えるものでした。彼は、それまで墓場を歩き回るだけの無意味な人生を過ごしていました。しかし、イエスに出会い、イエスによって救われ、本来の自分に立ち返ったとき、イエスから使命を与えられました。意味ある人生をその日から始めたのです。20節に「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた」とあるように、彼は、自分の家族のもとに帰り、その町で、イエスが自分にしてくださったことを言い広めました。
マルコ7:31に「それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた」とあります。そしてそこで数多くの癒やしをなさったことが、マタイ15:29-31にも書かれています。イエスはデカポリスで多くの人々に伝道することができたのですが、その背後には、イエスから悪霊を追い出してもらったこの人の証しがあったのです。イエスは、ゲラサ人の地で、たった一人の人しか救うことができませんでした。しかし、この一人の人の救いが多くの人々への救いへと広がっていったのです。イエスによって自分一人が救われただけでなく、その救いが他の人へと広がっていく人生。それは、なんと幸いで、意味のある人生でしょうか。私たちも、イエスの救いを受け入れ、それを言い広める幸いな人生を送りたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、あなたは、御子イエスを「世の光」として世に送ってくださいました。そして、「いのち」であるイエスによって私たちを死から命へと移してくださいました。どうぞ、多くの人が私たちを救おうと、私たちのところに来てくださったイエスを認め、信じ、受け入れることができますよう、導いてください。この救いを受けた私たちを、この暗い時代の「光」として用いてください。人を生かす「いのちのことば」を分かち合う者としてください。主イエスのお名前で祈ります。
10/23/2022