3:31 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。
3:32 大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。
3:33 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」
3:34 そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
3:35 神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」
一、礼拝からまじわりへ
昨年、私たちは、神から数多くの恵みをいただきましたが、中でも、全員が受けた大きな恵みは、日英合同で行なった「目的の四十日」プログラムではなかったか思います。実際、多くの人が「目的の四十日で人生の目的を確認できたのが一番良かった。」と話してくれました。人々は、有名な学校に行って、安定した企業に就職し、しあわせな結婚をして、ミリオン・ドラーの家に住むという夢を追いかけるものが人生だと考えています。しかし、人生とは、そういうものではない。地上の70年、80年、90年の間だけのものではない。ほんとうの人生とは、神からいただいた目的を見出し、永遠を目指して生きていくものなのだということを学びました。私たちが神からいただいた目的には、「礼拝」「まじわり」「弟子訓練」「奉仕」そして、「伝道」の五つがあり、昨年は、第一の目的「礼拝」に焦点をあわせてきました。「礼拝」が五つの目的の第一番目にあるのは、それが私たちの人生と生活で第一にすべきものだからです。神は、十戒でも、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と、他のことにまさって、まことの神を正しく礼拝することを第一にするよう、命じておられます。私たちが一週間を礼拝で始めるのは、私たちの生活にとって礼拝が第一であることを覚えるためです。今年は、礼拝で一年を始めることができましたので、ますますそのことを強く心に覚えたいと思います。
「礼拝」については、もっとお話ししたいことがありますが、今年は、第二の目的「まじわり」に進みたいと思います。「まじわり」ということばは、おそらく、教会以外ではあまり使わない、いわゆる「業界用語」かもしれません。私は、サンタクララ教会に赴任した200年9月の最初の礼拝で「クリスチャンのまじわり」についてお話しました。そのメッセージは私のホームページに載っています。そこにもあることですが、「まじわり」という言葉が教会独自の用語だからといって「まじわり」という言葉のかわりに「交際」「つきあい」と言い換えてしまうと、もともとの言葉が持っている大事な意味がなくなってしまうような気がします。クリスチャンの「まじわり」は、たんなる「交際」でも、一般の「おつきあい」とでもないからです。クリスチャンのまじわりは「神の家族のまじわり」です。今年、エペソ2:19「あなたがたは…神の家族なのです。」を標語に選びましたが、この標語を目にし、耳にするたびに、「神の家族」のまじわりについて思い巡らし、神の家族を育てていくために、自分にできることは何かを考え、実践していきたいと思います。
二、開かれたまじわり
今朝の箇所には「神の家族」という言葉そのものは出てきませんが、ここで、イエスは「神の家族」についてとても大切なことを教えておられます。それは、神の家族のまじわりは、肉親のつながり、身内のつながり以上のものだということです。
イエスは民衆にわかりやすく教え、また、さまざまな奇蹟を行われたので、イエスの行く所どこにでも、大勢の人が集まるようになりました。イエスが、あるところで教えておられると、たちまちその家は人で一杯になりました。母マリヤと兄弟たちが、イエスを訪ねてきたのですが、大勢の人のため、イエスに近づくことができませんでした。そこで、人をやってイエスを呼ばせました。ところがイエスは、母と兄弟が来ていると聞いても、教えを中断する気配がありませんでした。それで人々は、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」とイエスに注意を促すほどでした。その時言われたのが「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」ということばでした。イエスはこう言ってから、イエスの教えに聞き入っている人々をさして、「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言われました。これは、イエスが母や兄弟たちに冷たくしたということではありません。イエスがどれほど母マリヤを愛しておられたかは、イエスが十字架の上から語られたおことばによって分かります。イエスは、養父ヨセフがなくなった後、弟たちが一人前になるまで、彼らを養いました。イエスは肉親を軽んじられたのではなく、肉親に、肉親のまじわり以上のもの、神の家族のまじわりを示そうとされたのです。
神の家族のまじわりというのは、教会の中に親族が数多くいて仲良くしているとか、同じ学校の出身者が何人かいてつきあっている、同郷の人がいて楽しく過ごしているなどということではありません。私は、カリフォルニアに来てはじめて「広島県人会」や「鹿児島県人会」、「沖縄県人会」などがあるのを見て、すごいなあと思いました。日本では、自分がどの県の出身かということはほとんど意識することがありませんでしたから、日本を離れると、同郷の人々が恋しくなるのかなぁと思いました。同郷の人々が助け合うのは麗しいことですが、神の家族は、同郷人の集まりのようなものではありません。日本からの派遣社員の方々、定住の人々、国際結婚をしておられる方々には、それぞれに、共通したものがあり、同じ境遇の人々が集まるのは、必要なことでしょう。しかし、同じ境遇の人しか寄せつけないというのは、神の家族のまじわりではありません。神の家族のまじわりはもっと開かれたものです。
私がまだ神学生のころ、ある教会でサンデースクールや青年会の奉仕をしていたことがありました。その教会はとても家族的で、そのころの日本では珍しく、お互いにファースト・ネームで呼びあうほど、みんなが仲良くしていました。それはそれで素晴らしいことでしたが、礼拝後、すぐに教会員同士でかたまって集まってしまい、新しく見えた方がいても、あまり声をかける人もいなかったのです。もちろん、このことは、後になって改善されましたが、最初、私はとても気になったのを覚えています。教会の兄弟姉妹が仲が良いのは決して悪いことではありません。しかし、それが、外に対して開かれたものでないなら、神の家族のまじわりとしては健全ではありません。リック・ウォレン先生は、「成長している教会は、新しい人にまじわりの手を差しのばす教会だが、成長しない教会は、教会員が自分たちだけでまじわっている教会である。」と言っています。私たちのまじわりは大丈夫でしょうね。新しい方がみえた時、こころから歓迎し、愛餐会の時など、まだ話したことのない人のところに行って、進んで声をかけ、一緒に食事をするということに励んでくださっているので、うれしく思います。ますますそのことに励んでいただきたいと思います。
私は、神の家族のまじわりが「内輪」のまま終わらないようにと願っています。「内輪」でなく、「扇風機」のまじわりになりましょう。この頃は、もう使わなくなりましたが、ぱたぱたとあおいで風を起こす道具を「うちわ」と言いますね。「うちわ」というのは、たいていは、自分のほうに風を送り、自分を涼しくさせるのです。ところが、扇風機は、周りに向かって風を送り出します。私のこどものころ、「首振り扇風機」というものができて、風が一方向だけでなく、四方に送ることができるものが現れました。こどもの頃の私は、どうして首を振るんだろうと、不思議に思い、自分も首を振りながら、それを長いこと眺めていた思い出があります。「内輪」のまじわりというのは、「うちわ」で自分にむかって風を送るようなものです。そこでは、自分が居心地良く居られることが第一になっています。「扇風機」のまじわりというのは、神の家族とされた喜びをまわりに送り出すまじわりです。私たちのうちに神の家族のまじわりが育てられ、それが外側に向かって開かれたものになるよう、心から願っています。
三、みことばによるまじわり
では、どのようにして、神の家族のまじわりは育てられていくのでしょうか。私たちが神のことばに耳を傾け、神のことばがまじわりの中心になることによってです。
母と兄弟がイエスを訪ねてきた時、おそらく、人々は、「イエスのお母さんが来ているって?それはすごい、私たちもお目にかかりたいものだ。」と思ったことでしょう。イエスは当時の有名人になっていましたから、有名人の母親なら会ってみたいと思うのは、昔の人も、今の人も変わらなかっただろうと思います。イエスが地上におられた時でさえ、「あなたを産んだ腹、あなたがすった乳房は幸いです。」(ルカ11:27)といって、母マリヤを特別扱いする傾向がありました。しかし、イエスは、それを否定して、「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:28)と、はっきり語っておられます。イエスは、ご自分の教えに聞き入っている人たちをさして「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と言われました。神のことばを聞き、信じ、それを実行する人々が神の家族であると言われたのです。
身内や家族がうまくいっているので、自分たちには、神の家族はいらないし、さして大切なものではないと言う人もありますが、はたして、そうでしょうか。親子の愛、肉親のつながりというものは、強いものです。しかし、そこに、神の愛が加えられなければ、親が子を虐待し、子が親を殺すなどという恐ろしいことが起こらないともかぎりません。「骨肉の争い」という言葉があるように、肉親の間で憎みあうということも起こるのです。肉親のつながりにほんとうの愛がやどるためには、肉親もまた、神の家族のまじわりの中に加えられる必要があります。イエスの兄弟たちは、最初、イエスを信じてはいませんでした。イエスに対してとても批判的でした。しかし、イエスの復活の後、イエスの兄弟たちもイエスを信じ、教会に加えられました。使徒1:14に「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」とあります。イエスの兄弟たちもまた、神のことばを聞き、神のことをばを信じ、神のことばに生きる者となったのです。イエスは、母や兄弟たちを、神の家族の中に導き入れたのです。兄弟のひとりヤコブは、後に、エルサレム教会の指導者となり、教えの手紙を書きました。それは「ヤコブの手紙」として聖書に残っていますが、ヤコブはその中で、自分がイエスの兄弟であるということにはひとことも触れず、自分を「神と主イエス・キリストとのしもべであるヤコブ」と呼んでいます。そして、信仰をともにする他のクリスチャンたちに対して「兄弟たち。」と呼びかけています。イエスの兄弟ヤコブは、イエスを肉親として、人間的に知ったのではなく、主として、救い主として知り、イエスを信じる者たちの兄弟姉妹のまじわりの中に導き入れられたのでした。
以前の教会でのことですが、実の姉、妹が教会に来ていました。家もすぐ近くでしたが、どういうわけが仲が悪く、いっしょに教会に来ることはありませんでした。教会に来ても、いっしょに座ることも、顔を合わせることもありませんでした。それぞれ結婚して姓も違いましたので、最初、私はこのふたりが姉、妹であるとは気がつきませんでした。しかし、しばらくしてふたりが、教会で、神のことばに聞き入るようになり、主イエスを見上げるようになって、お互いに反発しあっていた姉、妹が、仲の良い姉妹に変えられていきました。それは、大きな神の恵みでした。他にも、親子が、夫婦が、神の家族のまじわりの中に加えられ、変えられていく恵みを体験していきました。みなさんも同じ体験があると思います。神は、つねに、私たちをこのような恵みのうちに、神の家族のまじわりの中に招いてくださっています。私たちが神のことばを謙虚に、すなおな心で聞く時、すべてのものの主であるお方が、私たちを「あなたはわたしの母だ、わたしの兄弟だ。」と語りかけてくださるのです。たとえ、あなたが孤独の中にいても、差別の中にあったとしても、神は、神の家族のまじわりを用意して待っていてくださるのです。たとえあなたが、多くの親族を持ち、数多くの友人に囲まれていたとしても、そのことが祝福となるために、神の恵みが必要です。地上の関係は永遠の世界には持っていくことができないからです。神は、「あなたがたは…神の家族なのです。」と語りかけてくださっています。このまじわりの中に導かれた私たちは、大きな感謝とともに、「私たちは、神の家族です。」と、応答しましょう。そして、この神の家族のまじわりを、神のことばによって養い、育んでいきましょう。
(祈り)
天でも地でも家族と呼ばれるすべてのものの父なる神さま、私たちは、あなたから遠く離れた者、あなたの敵であったような者ですのに、あなたは私たちの罪を、イエス・キリストの十字架によって赦し、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちを神の家族としてくださいました。この、あなたの大きな愛を、新しい年のはじめに覚えることができ、ありがとうございます。神の家族のまじわりの中にとどまり、あなたの愛をさらに豊かに体験することのできる私たちとしてください。さらに多くの人々を、この神の交わりに招くことができますよう、私たちを導いてください。愛する主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。
1/1/2006