神の右の座に

マルコ16:15-20

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16:15 それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
16:17 信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
16:18 その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」
16:19 主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。
16:20 弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた

 一、イエスの栄光

 使徒信条はこう言います。「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。」これは、ピリピ2:6-11と同じように、イエスのご生涯とみわざをアルファベットの “V” の文字で表しています。

 ピリピ2:6-8にこうあります。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」これは使徒信条では、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり」と言い表されています。イエスが降誕から十字架まで、天から地へ、地から陰府へと一歩一歩、くだっていったことを描いています。“V” の字の左半分、下降線を描いているのです。

 続くピリピ2:9-11にはこうあります。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」この部分は、使徒信条では、「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と言い表されています。これは、イエスが、死に勝利し、復活し、天に帰り、天の御座に着座したこと、“V” の字の右半分、上昇線を描いています。

 この “V” は “Victory”(勝利)の “V” です。神の御子イエスが人となり、苦しみを受け、死を味わうという下降線を辿ってくださった。それによって、罪のために神から遠く離れ、どん底にいたような私たちも救われたのです。イエスは死者の中からよみがえり、天にのぼり、もといた天に帰りました。イエスは “V” の字の上昇線を辿って天の御座に着きました。それによって、イエスを信じる者もまた、イエスの復活の命、つまり、永遠の命を受け、イエスがそこにおられる天に国籍を持つ者となったのです。

 イエスが “V” の字の下降線を辿ったのが私たちの救いのためであったように、“V” の字の上昇線を上っていったのも、私たちのためでした。イエスおひとりが栄光を受けるためではありません。イエスは私たちにも同じ栄光を与えてくださるのです。十字架の前夜、イエスは、「わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするため」(ヨハネ14:3)天に帰るのだと弟子たちに語っています。そして、「父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください」(ヨハネ17:24)と祈ってくださいました。「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と信じ、告白する者には、イエスの復活の勝利や天の栄光がその人のものとなるのです。イエスが死に打ち勝った勝利は、同時に、イエスを神の御子、救い主、主と信じる者の勝利なのです。聖書は言っています。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(ヨハネ第一5:5)この勝利は、イエスの復活と昇天によって確かなものとなっているのです。

 二、イエスの主権

 イエスの天の御座は「神の右の座」と呼ばれています。ルカ22:69では「だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます」と、イエスご自身が宣言しています。ローマ8:34、エペソ1:20、コロサイ3:1、ヘブル1:3、ヘブル10:12など、多くの箇所は、キリストが「神の右の座」に着いておられると言っています。この「右」というのは何を意味するのでしょうか。

 聖書に「主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする」(詩篇118:16)、「まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を延べ広げた」(イザヤ48:13)とあるように、「右」は「力」を表します。神はその力ある手で信頼する者を救うと約束されました。イザヤ41:10に「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」とあり、同じく41:13には「わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う」とあります。神は、助けを求めて差し出す私たちの手をご自分の右の手で、しっかりと握りしめ、決して離さないと言われるのです。もし、私たちが自分で神の手を握りしめているだけなら、信仰が弱くなって、手を離してしまうこともあるでしょう。しかし、神が私たちの手を握りしめていてくださるなら安心です。親が子どもの手をしっかり握って一緒に歩けば、子どもが迷子にならないのと同じです。詩篇に「あなたの右の手で救い、私に答えてください」(詩篇60:5、108:6)とあるように、私たちも神の力ある右の手を求めて、信仰の手を差し出したいと思います。

 このように、「右」という言葉は「力」を表します。ですから「神の右の座」というとき、それは、神のすべての力が働く、最高の権威の座であることが分かります。イエスが「神の右の座」に着いたのは、神の全能の力、主権のすべてが、イエスに与えられたことを意味します。「神の右の座」は、王座です。それは、イエスがあらゆるものの主であると宣言しているのです。

 信仰者もまた、世にあってさまざまな苦しみや悩みを受けます。四方八方がふさがってしまったかのような窮地に立たされることもあります。しかし、たとえ八方ふさがりでも、信仰者には上が開いています。天が開いているのです。「天が開いている。」これは苦しみの中で行き場所がないように感じるとき、大きな慰めです。救いです。神は信仰をもって天を仰ぐ者を必ず顧みてくださいます。ステパノは人々が敵意をむき出しにして彼に押し迫ってきたとき、天を見上げて言いました。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」(使徒7:56)ステパノは神の右におられるイエスに力づけられ、また、神の右におられるイエスを証しして、天に凱旋しました。私たちも、困難の中でこそ、天の御座を見上げ、救いを受ける者となりたいと思います。

 三、イエスの宣教

 イエスは神の右の座に着いておられる王なるお方です。では、イエスは、その御座から、どのようにご自分の国を治め、導いているのでしょうか。イエスの最初の弟子たちは、イエスの昇天に際して、イスラエルの復興を期待しましたが、イエスは、そのことの前に、福音がエルサレムからはじまってユダヤ、サマリア、地の果てまでも広がり、国境や人種を越えて、神の国が全世界のすべての人に及ぶと言いました(使徒1:6-8)。実際、ごくわずかな年月の間に、福音は様々な民族や階層の人々に伝えられ、各地に教会が生まれ、神の国は広がっていったのです。イエスが天に帰り、その御座に着く目的のひとつは、世界宣教がなされ、それによって神の国がひろがっていくためだったのです。

 イエスはヨハネ14:12で「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです」と言いました。イエスが天に帰ったあと、弟子たちはイエスが行ったよりも「さらに大きなわざ」を行うようになるというのですが、いったい、イエスが行うよりも大きなわざというものがあるのでしょうか。誰もイエスがなさった以上のことができるはずがありません。けれども、それがあるとしたら、それは世界宣教だと思います。イエスはご自分で、また、十二弟子や七十二人の弟子たちを通して、ユダヤの各地に宣教しましたが、それでもすべての町や村を巡ることはできませんでした。また、イエスの宣教はユダヤに限定されていました。地上のどこかにいて、同時に全世界を行き巡ることは不可能だからです。しかし、天の王座に着いた後、イエスは、ご自分を信じる者に聖霊を注ぎ、その人たちをご自分の証し人にすることによって、全世界への宣教を開始したのです。

 イエスは復活ののち、弟子たちに「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と命じ、それから「天に上げられ、神の右の座に着」きました(マルコ16:19)。イエスは宣教を弟子たちに委ねました。しかし、それは、弟子たちに宣教を丸投げして、ご自分はそこから手を引くということではありません。マルコ16:20に「主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」とあるように、イエスご自身が、弟子たちとともにいて、宣教しておられるのです。

 マタイ28:18-20では、イエスは弟子たちに、宣教の命令とともに二つの約束を与えました。一つは「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」で、ふたつ目は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」です。イエスが「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています」と言ったのは、イエスが神の右の座に着くことを指しています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」というのは、たとえ、イエスが天に帰っても、その神の右の座から、絶えず弟子たちに力を注ぐという約束です。マルコは、このイエスの約束が果たされたことを、「主は彼らとともに働き」との言葉で言い表したのです。

 イエスは今も、神の右の座に座しておられます。初代教会が、その御座を仰ぎ、そこから力を得、導きを得たように、今日の私たちも、神の右に座しておられるイエス・キリストにまっすぐ目を向け、このお方によって、大きなわざを行う者となりたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま。あなたはイエス・キリストをあらゆるものにまさる最高の座に引き上げてくださいました。それは、私たちがイエス・キリストを主とあがめ、主に信頼し、主のわざを行うためです。それなのに、私たちの目はしばしばこの世のものを見て恐れ、不安になります。そのようなとき、主が絶えずその御座から力を注ぎ続けておられることを思い起こさせてください。その御座を仰ぎ見て、力を受けることができますよう、導いてください。すべてのものの主であるイエスのお名前で祈ります。

4/14/2019