みこころのままに

マルコ14:32-36

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14:32 さて、一同はゲツセマネという所にきた。そしてイエスは弟子たちに言われた、「わたしが祈っている間、ここにすわっていなさい」。
14:33 そしてペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれたが、恐れおののき、また悩みはじめて、彼らに言われた、
14:34 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい」。
14:35 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、
14:36 「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。

 あるとき、こんな質問を受けました。「先生、『主の祈り』はどうして『主の祈り』なんですか。これは弟子たちが祈る祈りなんですから『弟子の祈り』と呼ぶほうがよいのではありませんか。」そのときは、「なるほど、そうかもしれませんが、これは『主』が教えてくださっという意味で、『主の祈り』と呼ばれているのです」と答えたように思います。しかし、今、考えてみると、「主の祈り」は「主が教えてくださった祈り」であるとともに「主が祈られた祈り」でもあると思うのです。

 一、御心を求める祈り

 「主の祈り」が「主が祈られた祈り」であるというのは、主がこの祈りを弟子たちに教えられた状況から分かります。弟子たちが主イエスに「わたしたちにも祈ることを教えてください」と願ったのは、主イエスが祈りを終えられたすぐあとでした。ルカ11:1に「また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、『主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください』」とある通りです。

 弟子たちが主イエスから学んだのは、主イエスの精力的な宣教活動だけではありません。おそらく弟子たちに最も深い感銘を与えたのは、主イエスの祈りの姿だろうと思います。あの忙しい宣教活動の中でも、主イエスは決して祈りの時間を削ることをしませんでした。大勢の人々がご自分のまわりに押し寄せてくる中でも、主イエスはひとり退いて、父なる神との時間を過ごされました。弟子たちが「わたしたちにも祈ることを教えてください」と言ったのは、主イエスの祈りの姿に心を打たれたからだろうと思います。弟子たちは「主イエスは何を祈っておられたんだろう。主が祈られた祈りを自分たちも祈ってみたい」と願ってのことだったと思います。「主よ、…わたしたちにも祈ることを教えてください」という言葉には、「イエスさま、今、何を祈っておられたのですか。わたしたちにもあなたが祈っておられた祈りを教えてください」という願いが含まれていたと思います。「主の祈り」は、今しがた、イエスご自身が祈っておられた祈りだったと思います。

 主の祈りの最初の三つの願いは、「御名をあがめさせたまえ」、「御国を来たらせたまえ」、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」ですが、このことを第一に祈る人は多くはないと思います。主イエスから祈ることを教えられなかったら、わたしたちは、ふつうは、自分のために祈りはじめることでしょう。もちろん、自分の必要のため、救いのため、守りのため祈っていけないというわけではありません。「主の祈り」の残り三つの祈りでは、「我らの日毎の糧を今日も与えたまえ」、「われらの罪をも赦したまえ」、「われらを試みに会わせず、悪より救いい出したまえ」と、まさにわたしたちの必要、救い、そして守りを求めています。けれども、祈りは、自分のことだけで終わてはいけないのです。それ以前に神のことを思うものでなくてはなりません。しかし、神の御名があがめられること、神の国が来ること、神のみこころがなされることを、ひたすら祈られたのは、主イエスがはじめてでしょう。主イエスのようにそれを第一にして祈った人は他にはいないと思います。主イエスは、そのなすことすべてにおいて父なる神の御名をあがめ、御国の来ることを願い、御国のために骨身を惜しまず働かれました。そして、なによりも、父なる神の御心に従い、御心を実行するためにその生涯をささげられたのです。「御名をあがめさせたまえ」、「御国を来たらせたまえ」、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、まさに主イエスご自身が祈っておられた祈りでした。

 主イエスは、わたしたちが、主イエスと同じ思いを持ち、神の御名、御国、御心を求めて生きる者となるよう願われ、主の祈りを与えてくださったのです。主イエスは、わたしたちの口に祈りの言葉を授け、それによって、わたしたちの内面に主イエスと同じ思いを育てようとされました。

 きょうは「主の祈り」の「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という部分を学ぶのですが、主イエスが、まず、そのように祈られたことを知るとき、この祈りがわたしたちのものとなります。わたしたちもそれを祈ることができるようになります。では、主イエスがどのようして父なる神の御心を求められたかを学びましょう。

 二、御心を問う祈り

 主イエスは、つねに父なる神の御心を求めながら生きられましたが、とくに父なる神の御心を求め、御心を問われた時がありました。それは、ゲツセマネの園での祈りの時でした。主イエスは弟子たちとの「最後の晩餐」を終え、「ゲツセマネの園」と呼ばれるオリーブ畑にやってきました。主イエスと弟子たちは、このときエルサレムでは誰の家にも泊まらず、野宿をしていました。ゲツセマネは一夜を明かす場所だったようです。弟子たちはそこに着くとすぐに眠り込んでしまいました。しかし、主イエスはただひとり起きて、父なる神に祈られました。それは十字架を前にした苦しい祈りでした。主イエスの額から汗がしたたり落ち、それには血が混じっていました。

 「ゲツセマネ」という言葉にはアラム語で「油絞り」という意味があります。オリーブ畑の真ん中にはオリーブの実を絞って油をとる機械が置かれていましたが、主イエスのたましいは、まるで、油絞りの機械にかけられたオリーブの実のように、砕かれ、絞られたのです。主イエスが流された血の汗は絞られたオリーブからしたたる油のようでした。

 主イエスの祈りは「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください」というものでした。「杯」とは主イエスが飲まなければならない十字架の苦しみを意味しています。主イエスは、ご自分が、同胞ユダヤ人から棄てられ、異邦人の手に引き渡されて苦しみを受けるということを、早くからご存知でした。エルサレムに向かうときに、弟子たちにそのことを予告しておられます。最後の晩餐のとき、主イエスには苦しみの杯を飲む覚悟ができていました。なのに、なぜ、この期におよんで「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたのでしょうか。

 十字架を目前にしておじけづかれたからでしょうか。いいえ。ユダヤ教の反対も、ローマ帝国の権威も恐れなかったお方に、そんなことはありえないことです。もし、主イエスの十字架がたんなる殉教であるなら、主イエスはこうも苦しみはなさらなかったでしょう。主イエスが負われる十字架は、全人類の過去、現在、未来の罪とそれに対する裁きという、とてつもなく大きいものでした。罪を知らないお方が、罪びとの罪を背負われるのです。「罪」そのものになって、神から見捨てられ、呪われたものとさえなるのです。神を「父よ」と呼んで、父なる神との愛のまじわりの中におられたお方、神と「ひとつ」であるお方が神から引き離されるのです。この苦しみはわたしたちには完全には理解できません。けれども、神の愛から引き離されることがどんなに苦しく、恐ろしいことかは、神の子どもとしていただき、神の愛の豊かさを味わう者となった後には、わたしたちにも、ある程度は理解できると思います。

 主イエスは神の愛から引き離されることの恐ろしさを知っていました。それで、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られたのです。主イエスは十字架が御父の御心であることを知っておられましたが、それでもなお、御父に訴えています。それが御心だと知りながら、なお、それを変えてくださいと祈るのは、神の御心に対する「反抗」のように見えます。しかし、ここに祈りの本質があります。

 P. T. フォーサイスは『祈りの精神』という本の中で「祈りは神の愛される反抗である。…神への愛の反抗である」と言っています。フォーサイスがこう言ったのは、わたしたちが、よく祈りもしないで、ものごとの表面だけを見、「これが神の御心だ」と簡単に決めてしまうことへの警告です。たとえば、病気の人が自分の病気は神の御心なのだから、いやしてくださいと願ってはいけないと考え、貧しい人が、この欠乏は御心なのだから、必要を満たしてくださいと祈ってはいけないと考えるとしたら、それは、神の御心を受け入れているのではなく、たんに物事を「運命」として受け入れているだけです。「御心」は「運命」とは違います。運命は祈ったり、願ったり、努力したりしても変えられないものです。そこにはあきらめしかありません。しかし、神の「御心」は、わたしたちがそれを知ることができるよう祈り、それが成就するようにと願い、また、努力したりできるものです。世界は「運命」によって支配されているのではなく、神の愛の「御心」によって導かれています。このことを信じる人は、御心を求めて祈ります。苦しみからの解放を求めます。現状に満足しないで向上を目指します。御心を信じ、それを求める人は、祈る人です。そして祈る人はあきらめない人です。

 主イエスは、十字架への道がご自分に与えられたものであることを十分に知り、受け止めながらも、なおその道をお与えになった御父の御心を問い続けました。ゲツセマネの祈りは、「御心」は、それを求め、それを問い続けてはじめて分かるものであることを、わたしたちに教えてくれます。わたしたちも、重要な選択を迫られるとき、また、大切な決断が必要なとき、主イエスと同じように、父なる神の胸を叩いて祈りたいと思います。御心は祈りによってはじめて知ることができます。熱心に求め、物事の背後に隠されている御心を悟る者になりたいと思います。

 三、御心に従う祈り

 主イエスは、血の汗を流し、ひたすらに、父なる神の御心を問いましたが、「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と祈ることを忘れませんでした。このことは見逃してはならない大切なことです。もし、「みこころのままに」という思いがなければ、いくら祈りが「神への反抗」だといっても、それはただ自我を押し通すだけのもの、神への挑戦、憎悪の反抗でしかなくなります。主イエスは神の御子、また御子なる神として、父なる神と等しいお方です。ですから、すこし人間的な言い方になりますが、御子イエスは御父の御心を押し切ってそれを変えることもできたのです。御父も、御子への愛のゆえに、御子の要求に譲歩しようとしておられたかもしれません。しかし、御子イエスは父なる神の御心に屈服し、服従されました。フォーサイスは言っています。「神の前に屈服することは、人間に屈することにまさる。…愛するものに屈するのは、敵に屈するのとは大いに異なる。」愛のゆえの屈服ということがあるのです。愛は愛するものに屈服することによって表わされるのです。

 主イエスが「みこころのままに」と仰って、御父に従われ、御父が与えた「杯」を飲む決意をなさったのは、御父のうちにあった罪びとへの愛のゆえだったと思います。御子を信じる者がひとりも滅びず、永遠の命を持つようにと願われた愛に、主イエスは従われたのだと思います。主イエスもまた、罪びとへの愛のゆえに、十字架への道という御心に従われたのです。主イエスは父なる神の罪びとへの愛に、すすんで屈服し、その愛のゆえに十字架への道を受け入れ、その杯を飲まれたのです。

 今朝、学んだことは、第一に、神の御心は、ものごとの表面を見るだけでは分からず、祈りによって神の御心に迫ることによってはじめて分かるということでした。主イエスは、御心を問う真剣で執拗な祈りによって、御心をしっかりと掴みとりました。わたしたちも、主イエスがなさったように、神のご意志の前に出たいと思います。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るとき、神の御心がどのように天で行われているのか、なぜ、それが地上で行われないのか、どうしたら、御心が行われるようになるのか。そうしたことを真剣に考え、また、神に問い、求めていきたいと思います。

 第二に学んだことは、御心を問う者は、示された御心に従う用意がなければいけないいということでした。主イエスには神の御心に従う用意がありました。御心を受け入れるというのは、しかたなく従うこととは違います。神の御心は常に愛です。それは、神の愛に屈服すること、神の愛にこたえるということです。主はゲツセマネの園で「アバ、父よ」と神に呼びかけられました。「アバ」というのは、アラム語で子どもが親しみを込めて父親を呼ぶときの言葉です。主イエスは常に親しみをこめて神に「アバ、父よ」と呼びかけておられました。しかし、このときの「アバ、父」には、「わたしはあなたの子なのですから、わたしの願いを聞いてくださいますね」といった響きはありません。「あなたはわたしの父です。わたしは子としてあなたに従います」という決意が込められているように思います。イエス・キリストを信じ、神の子どもとされた者たちも、神の愛のみこころを信じ、受け入れ、それに生きる決意をもって、神を「父よ」と呼びたいと思います。自分を「しもべ」とすることなしに、イエスを「主」と呼ぶことはできません。同じように、神の御心に従順な子どもになることなしに、神を「父」と呼ぶことはできないのです。「天にまします我らの父よ」という呼びかけと「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りはしっかりと結びついています。神はわたしに対して愛の御心を持っておられる。わたしはその御心に信頼し、従う。そんな信仰をもって御心を求め続けていきましょう。「みこころをなさせたまえ」と祈るたびに、主イエスが父なる神の御心を求め、問い、それに従われたことを思い起こし、その模範に習いたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはわたしたちに、祈りによって御心を問うことを許してくださいました。主イエスの模範によって、そうすることを励ましてくださいました。わたしたちが「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈るとき、そのように祈られた主イエスにならい、また主イエスと共に祈るわたしたちとしてください。わたしたちのうちにいて、わたしたちとともに祈ってくださる主を覚えることができますように。主イエスのお名前で祈ります。

8/16/2015