14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊をほふる日に、弟子たちがイエスに尋ねた、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」。
14:13 そこで、イエスはふたりの弟子を使いに出して言われた、「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい。
14:14 そして、その人がはいって行く家の主人に言いなさい、『弟子たちと一緒に過越の食事をする座敷はどこか、と先生が言っておられます』。
14:15 するとその主人は、席を整えて用意された二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために用意をしなさい」。
14:16 弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。
ここには、イエスが弟子たちに過越の食事の準備をさせたことが書かれています。イエスがなさった過越の食事そのものは、「最後の晩餐」と呼ばれ、よく知られていますが、その晩餐の準備について書かれている箇所は、案外、見落とされています。しかし、ここにも大切が意味があります。イエスは、この晩餐のために周到な準備をなさったのですが、それはなぜだったのでしょうか。そのことを、ご一緒に考えながら、この箇所を学びたいと思います。
一、迫る危険
第一に、それは、イエスの身に危険が差し迫っていたからです。イエスがエルサレムにおいでになったとき、群衆は熱狂的にイエスを迎えましたが、ユダヤの指導者たちは、このときすでにイエスを捕まえて亡きものにしょうと計画していました。
ヨハネによる福音書に、イエスが生まれつき目の見えない人の目を開けたことが書かれていますが、そのときすでに、ユダヤの指導者たちは、「もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出す」(ヨハネ9:22)ことを決めていました。また、イエスがラザロを生き返らせたとき、彼らは議会を召集して、「この日からイエスを殺そうと相談し」(ヨハネ11:53)ていました。過越の祭のときには、「そのいどころを知っている者があれば申し出よ」(ヨハネ11:57)という指令がすでに出ていたのです。イエスはまるで「指名手配」の犯人のように扱われていたのです。
それにもかかわらずイエスは過越の祭のとき、エルサレムに登られました。イエスは日中、公然と神殿で人々を教えましたが、群衆がイエスを取り囲んでいて、ユダヤの指導者たちはイエスに手を出せないでいました。しかも、イエスと弟子たちは夕方になるとエルサレムを離れ、近くで野宿していました。その居所をつかむこともできませんでした。いよいよ過越の祭りが近づいたとき、指導者たちはあせりました。マルコ14:1-2にこう書かれています。「さて、過越と除酵との祭の二日前になった。祭司長たちや律法学者たちは、策略をもってイエスを捕えたうえ、なんとかして殺そうと計っていた。彼らは、『祭の間はいけない。民衆が騒ぎを起すかも知れない』と言っていた。」過越の祭りの前に策略を用いて決着をつけようとしていたのです。それは、イエスが野宿している場所を見つけるために、弟子のひとりにイエスを裏切らせるという、最も卑劣な「策略」でした。そして、その時が迫っていました。イエスはそんな緊迫した中で、弟子たちと過越の食事を共にしょうとされたのです。
過越の食事はエルサレムの街の中で行われることになっていましたので、イエスは、この日ばかりはエルサレムにとどまっていなければなりません。それはとても危険なことでしたので、どこで過越の食事をするかは、秘密にしておかなければなりませんでした。それで、イエスは弟子たちに準備を命じたとき、「市内に行くと、水がめを持っている男に出会うであろう。その人について行きなさい」(13節)という謎めいたことを言われたのです。ユダヤの国では水汲みは女性の仕事でした。「水がめを持っている」女性はどこにでもいましたが、「水がめを持っている男」はめったにいませんでした。これは、その場所を知られないで過越の食事をするために、あらかじめ打ち合わせてあったことだったのです。
イエスの用心深さは、決して臆病から出たものではありません。イエスは、早くから、ご自分が十字架で死なれることを予告しておられ、過越の祭の直前にも「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」(マタイ26:2)と弟子たちに告げておられます。イエスは決して十字架を恐れ、それを避けようとされたわけではありません。しかし、この時、イエスが危険にまきこまれれば、弟子たちも同じ目に遇います。イエスは、弟子たちが守られ、この晩餐が妨げられることなく行われるために、周到な準備をなさったのです。
「神が助けてくださるから」危ないことをしてもよいとか、適当な準備だけでもなんとかなると考えるのは、決して信仰的な考えではありません。イエスほど父なる神に信頼された方はありませんが、同時に、イエスほど、物事によく備えられた方もありません。イエスは、みこころを成し遂げるためには大胆に、しかし、弟子たちを守り、育てるためには、細心の注意を払われました。わたしたちもあらゆる事において、このイエスに倣いたいと思います。
二、晩餐の大切さ
イエスが晩餐の準備を周到になさったのは、第二に、この晩餐が重要なものだったからです。わたしたちは大切なものをいいかげんには扱いません。細心の注意をもって扱います。銀行のデポジットボックスに預けたり、鍵のかかる戸棚にしまったりします。もし、それを送る場合は、厳重に梱包して、保険をかけるでしょう。普通の封筒に入れて、メールボックスに入れておくようなことはしません。同じように、イエスがこの晩餐のために周到な用意をされたのは、とりもなおさず、この晩餐がどんなに大切なものであるかを物語っているのです。
この晩餐は「最後の晩餐」と呼ばれますが、じつは、それは「最初の晩餐」でもあったのです。この晩餐は「過越の食事」でした。「過越」というのは、イスラエルをエジプトの奴隷から解放した神の救いのみわざのことです。エジプトの王、ファラオはイスラエルを解放しなかったため、エジプトに神からの災いを招きましたが、その最後の、そして最大のものが、エジプト中の長子という長子が、ファラオの子から家畜の子にいたるまで、一夜にして死ぬという災いでした。そうなれば当然、イスラエルの長子も死ぬことになるのですが、神は子羊をほふり、その血を家の入り口に塗るよう、イスラエルの人々に指示されました。すると、災いは小羊の血が塗られた家を「過ぎ越した」のです。「過越」という名は、そこから来ています。ユダヤの人々は、神の救いのみわざを覚えるため、毎年「過越祭」を祝い、過越の食事を守ってきました。
けれども、イエスが過越の食事をなさったのは、それがユダヤの習慣だったからだけではありません。この過越に新しい意味を与えるためであり、新しく定められた晩餐を弟子たちに託すためでした。イスラエルがエジプトで奴隷だったことは、全人類が罪の奴隷であることの象徴でした。イスラエルがエジプトから解放されるため屠られ、血を流した「子羊」は、全人類が罪から救われるため流された、罪のない「神の子羊」、イエス・キリストの血をあらかじめ表わすものでした。
旧約時代には罪の赦しのために数多くの動物犠牲がささげられましたが、イエスは自ら「神の子羊」となり、十字架の上でご自分をささげて、旧約の犠牲を完成させてくださったのです。ですから、イスラエルのエジプトからの解放を記念する過越の食事は、イエスの十字架と復活の後、イエスが十字架の上で成し遂げてくださった、全人類のための罪からの救いを記念するものとして守られるようになりました。イエスが弟子たちと守られた晩餐は、最後の「過越の食事」であり、また、最初の「主の晩餐」なのです。
弟子たちは、イエスの言葉どおり、「主の晩餐」を守りました。初代教会は毎週晩餐式をしました。晩餐式が礼拝であり、礼拝は晩餐式でした。日曜日、つまり、主の日は「パン裂き」の日でした。イスラエルの「過越の食事」がたんなる「食事」ではなく、御言葉と祈りと賛美を伴った、食事を含む礼拝であったように、教会の「主の晩餐」も、イエスへの愛と崇敬、感謝と賛美、悔い改めと服従、信仰と献身によってなされる礼拝でした。
イエスがこの晩餐を切実に待ち望み、周到な準備をして行われたのは、イエスがこれからなし遂げようとしておられる救いを弟子たちに伝えていくためでした。イエスがそれほどに大切にされた「主の晩餐」を軽んじることがないようにしましょう。それを習慣的・形式的にではなく、その意味を知って、守りたいと思います。
三、わたしたちの準備
イエスがこの晩餐を周到に準備されたのは、第三に、主の晩餐にあずかる者もまた十分な準備が必要なことを教えるためでした。イエスは、ご自身で準備されるとともに、「そこにわたしたちのために用意をしなさい」(15節)と言って、弟子たちにも晩餐のための準備をするよう命じておられます。「弟子たちは出かけて…過越の食事の用意をした」(16節)とありますが、こんにちのわたしたちは、どのように主の晩餐に備えればよいのでしょうか。
まずは、晩餐式が、主が定め、主が命じ、主がとり行われる、「主の」晩餐であるということを覚えることです。12節の弟子たちの言葉は、「わたしたちは、過越の食事をなさる用意を、どこへ行ってしたらよいでしょうか」と訳されていますが、これは、正確には、「あなたはわたしたちにどこに行ってあなたのために過越の準備をさせたいとお望みですか」という意味です。英語では、 “Where will you have us go and prepare for you to eat the Passover?” と訳されています。「わたしたち」ではなく「あなた」が主語なのです。このことは、晩餐の主導権が、弟子たちにではなく、イエスにあることを教えています。晩餐式は、主のみこころの通りに守られなければなりません。わたしたちは、そこに主が意図されなかったものを加えることも、主が意図されたことを取り除くこともしてはならないのです。
次に、「場所を整える」ことです。イエスが弟子たちと晩餐を守られたのは「席を整えて用意された二階の広間」でした。「二階の広間」というのは、独立した場所で、そこへは、その家の一階に入らなくても、家の外壁に作られた階段を登って入っていくことができました。そしてそこには、すでに席が整えられていました。礼拝をささげる場所は、清潔で整頓されていなければなりませんが、「主の晩餐」を守るときは、ふだんよりもそのことに心を用いたいと思います。
また、パンと杯を心を込めて準備することも大切なことです。多くの教会では、パンと杯を準備する場所は台所とは別に設けられており、担当の人は祈りをもって静かにその奉仕をします。聖餐のパンやブドウ酒、また、それを入れる容器は、たんに食べ物のひとつ、台所用品のひとつではありません。それは、イエスの十字架を再現するために用いられる聖別されたものです。そのことを思って、細心の注意を払って、準備したいと思います。
しかし、なにより大切なことは、祈りのうちに心備えをすることです。日曜日に週報を手にしてはじめて「きょうは晩餐式だったのか」と気づくのでなく、前の週から、主の食卓に出る心備えをし、聖餐を準備する人、配餐をする人、司式をする人、そして、聖餐にあずかる人々のために祈ってここに集いたいと思います。
イエスが弟子たちと晩餐を守られた「二階の広間」は、弟子たちが復活のイエスに出会い、ペンテコステの日に聖霊を受けたのと同じ場所ではないかと言われています。確かなことは分かりませんので、それぞれが別の場所だったかもしれません。しかし、主の晩餐を守る場所で、わたしたちがイエスに出会い、イエスに養われ、聖霊を受けて、福音の証し人として世に出て行くことは確かなことです。きょうのこの晩餐式が、ひとりびとりの信仰が養われ、教会が建てられ、福音が広がっていくところとなりますよう、共に祈りましょう。また、次の晩餐式に向けて、主にならって、わたしたちもまごころをもってそれに備える者となれますよう、祈りながら、聖餐にあずかりましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたは世のはじめから、全人類のために救いを備え、長い歴史の中でそれを明らかにしてくださいました。主イエスはその救いを成就するために、この世に来られ、十字架でその血を流されました。十字架なしにわたしたちの救いはありません。この晩餐式を通して、ひとりびとりのたましいのうちに、イエスの十字架を描き出し、また刻みつけてください。深いみこころによって晩餐式を備えてくださった主イエスのお名前で祈ります。
3/4/2018