10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
10:44 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。
10:45 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
一、十字架の予告
今年の「レントの黙想」ではマルコの福音書の通読によって、イエス・キリストのご生涯と十字架への足跡をたどっていますが、わたしは、今回の黙想から、イエスが、終始「神のしもべ」としての道を歩まれ、弟子たちにも、同じ「しもべ」の道を歩むよう教えられたことが心に留まりました。そして、そのことが、すべて、イエスがご自分の十字架を予告しておられる箇所に出てくることを、新しく発見しました。
マルコの福音書では、イエスが三回、ご自分の十字架を予告しておられます。第一回目はマルコ8:31-9:1です。この箇所では、「あなたこそキリストです」と告白した弟子たちに、イエスが「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえる」(マルコ8:31)と話されました。「人の子」という言葉は「キリスト(メシア)」を表わす用語です(ダニエル7:13)。イエスはご自分を「人の子」と呼ぶことによって、ご自分がメシアであることを弟子たちにお示しになりました。それとともに、「人の子」を「ひとりの人間」という意味でもお用いになりました。メシアである「人の子」が、ひとりの人間、「人の子」となって、神のみこころに服従し、多くの苦しみを受ける、と仰ったのです。イエスが神と等しいお方でありながらその立場を捨て、神のしもべとなって、十字架の道を歩み通すという覚悟を、弟子たちに示されえました。
ペテロは、イエスの予告を聞くと、それに反対し、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言って、イエスをいさめました(マタイ16:22)。それに対してイエスは「サタンよ、引き下がれ」と言ってペテロを叱責しました。ペテロは「メシアだったら苦しむはずはない」と考えたのですが、イエスは「メシアだからこそ苦しまなければならない」と言われたのです。この時の弟子たちは、イエスがイザヤ書53章に示されている「苦難のしもべ」であることが、まだ分かっていなかったのです。
そして、ご自分の十字架を予告されたイエスは、弟子たちにも、それぞれ自分の十字架を背負って、イエスに従うよう求められました。イエスを信じるとは、イエスに従うこと、そしてイエスに従うとは、イエスが、神のしもべとなって、そのみこころの道を歩んだように、わたしたちも「しもべ」となることです。
十字架の予告の第二回目はマルコ9:30-32にあります。イエスは「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」(マルコ9:31)と言われました。ところが、この時も、弟子たちは、イエスの言葉を理解せず、「だれが一番偉いのか」という論争をしていました。これは、主が教えられた「しもべ」の道とはほど遠いものです。イエスは、このとき、弟子たちに「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」(マルコ9:35)と教えて、小さな子どもを抱き上げ、「だれでも、このような幼な子のひとりを、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そして、わたしを受けいれる者は、わたしを受けいれるのではなく、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」(マルコ9:37)と言われました。大人と子どもが立って並べば、大人のほうが背が高いに決まっています。しかし、大人がみな座っている中で、子どもがイエスに抱かれれば、子どもがいちばん高くなります。イエスは、こうした実物教材によって、いちばん低い者が、イエスにあってはいちばん高い者になることを教えられたのです。イエスは、このときも弟子たちに、「しもべ」となる道を示されました。
二、三度目の予告
第三回目の予告はマルコ10:32-34にあります。このとき、イエスと弟子たちは、過越の祭が行われるエルサレムに向かっていました。イエスはエルサレムに顔を向け、はっきりと、こう言われました。「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に引きわたされる。そして彼らは死刑を宣告した上、彼を異邦人に引きわたすであろう。また彼をあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう。」(マルコ10:33-34)イエスは何も包み隠すことなく、ご自分の苦難の時と場所、そしてその状況のすべてを明らかにされました。弟子たちは、この言葉をはっきりと聞きました。
そうであるのに、弟子たちの間で、「誰が一番偉いのか」という議論が蒸し返されていました。ヤコブとヨハネが、イエスが王座に就く時、自分たちを右大臣、左大臣にして欲しいと願い出たからです。ヤコブとヨハネがしたことを聞いた他の弟子たちはみな「憤慨」しましたが、それは、イエスのことを思ってではなく、まだ年若いヤコブとヨハネが、年長の自分たちを差し置いて、先にイエスに願い出たということに腹を立てたからでした。使徒たちみんなが、そろいも揃って、そんな状態でした。
弟子たちは、もう一度「しもべ」の道を教えられる必要がありました。弟子たちの多くは漁師でしたが、舟を置き、網を捨てて、イエスとともに宣教活動をするようになりました。それは大きな変化でした。たしかに、その日常や働きは変化しましたが、彼らの生活の原理、行動の規範は、まだ変化していませんでした。まだこの世の原理の中に生きていたのです。
イエスはご自分を信じる者に変化を求められますが、それは外面のものではありません。今まで教会と縁もゆかりもなかった人が、毎週教会に通うようになり、教会の活動に参加するようになる。それは、その人にとって大きな変化でしょうが、イエスが求めておられるのは、そうした外側のことではなく、内面のことなのです。イエスは信じる者が、この世にあっても、この世の原理によってではなく、神の国の原理で生きることを求めておられるのです。それは、やがてはその人の言葉や態度、行いを変えていくものですが、まずは、人の理性や意志、感情という内面の変化から始まらなければならないのです。その変化がなければ、外面だけが変化しても意味がないのです。
ローマ12:2はこう言っています。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。」ここで「心」と訳されている言葉は「理性」と訳すことができます。信仰者は、神の国に生きる者とされたのですが、なお、この世に生きていますから、この世の原理で物事を判断してしまうことがあります。「善悪」よりも「損得」で物事を判断したり、霊的な祝福よりも物質的な利益を優先させたりしてしまいます。そんな時、たとえ損をしても善を選ぶ、物質的な利益を捨ててでも霊的な祝福を選ぶことができるためには、神の恵みによって新しくされた「理性」と「意志」が働かなくてはならないのです。
「この世」は目に見えますが、「神の国」はかならずしも目に見えるとはかぎりません。それで、信仰者といえども、ついつい、この世の原理で行動してしまいます。そして、せっかく「この世」から救われたのに、「この世」と「妥協」してまうのです。ローマ12:2で使われている「妥協」という言葉には「同化される」という意味があります。それは「この世」半分、「神の国」半分といった生易しいものではなく、せっかく「光の子」とされたのに「この世の子」に逆戻りしてしまうことを言っています。信仰者は、「この世」に「同化される」のではなく、キリストに似たものへと「造りかえられる」者でなければなりません。それが、ローマ12:2が教えていることなのです。
貪欲や不品行などといったことは、誰もが「この世」のことと分かりますが、「人の上に立つこと」は誉められること、望ましいことと考えられています。たしかに、職場で昇進していく人は、それにふさわしい能力を持ち、また、努力もしているわけですから、より高い地位に就くという形で報われて良いわけです。しかし、地位や名誉、権力そのものが目的となり、地位を得るためには他の人を蹴落としてもよい、権力を保つためには誰が死んでもかまわないというのは、「この世」の原理であり、信仰者が生きる「神の国」の原理ではありません。
これは、わたしが実際に体験したことですが、日本で、地方の教会から東京の教会に転任になった牧師に「ご栄転おめでとうございます」という祝辞が届きました。わたしはそれを知って「何かおかしい」と思いました。それは、まだ「この世」の原理でものを考え、行動しているからだと思います。教会は「神の国」を目に見える形で表わすところなのですから、「この世と妥協する」、つまり、「この世に同化される」のでなく、神の国を宣べ伝える者として、自らが「神の国」に生きる者でありたいと思います。教会は、「この世」とは別の原理が働くところであること、また、教会にはこの世と違うあり方が求められていると、イエスは教えておられるのです。
三、しもべの道
では、教会での原理とは、どんな原理なのでしょうか。イエスは言われました。「かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。」イエスは「主人」になることではなく「しもべ」となることを、「支配する」ことではなく「奉仕する」ことを教えられました。
もちろん、このことは、教会の中にどんなリーダーシップもいらないということではありません。初代教会では「十二使徒」には全教会を指導するという大きな権限がありました。「監督」と呼ばれる人たちは地域の諸教会を指導していましたし、「長老」と呼ばれる人たちは、それぞれの教会を治めていました。「長老」については次の言葉があります。「よい指導をしている長老、特に宣教と教えとのために労している長老は、二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。」(テモテ第一5:17)「長老に対する訴訟は、ふたりか三人の証人がない場合には、受理してはならない。」(テモテ第一5:19)「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。」(ペテロ第一5:5)長老の中でも御言葉を教える人は「牧師・教師」と呼ばれましたが、この務めに対しても、「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい」(ガラテヤ6:6)と教えられています。
しかし、そのリーダーシップは、人々を支配して、自分の思い通りのことをすることではありません。そのリーダーシップはイエスの願われることを実現するためのもの、教会がこの世に対して神の国の “Outpost”(前線基地)となるためのものでなければならないのです。こうしたリーダーシップを英語では “Servant Leadership” と言いますが、それこそ、わたしたちが目指さなければならないものです。今、「わたしたち」と言いましたが、これはリーダーと、リーダーのもとで働く人々の両方がリーダーシップを達成させるからです。リーダーがいても、そのリーダーシップに従うサーヴァントシップがなければ、リーダーは何もできず、リーダーシップは育たないからです。わたしは年若くして牧師になりましたが、年長の方々がとても謙遜で、よくわたしを支えてくださいました。そうした方々がわたしを牧師として育ててくださったことに本当に感謝しています。
イエスは、このように弟子たちに「しもべ」の道を教えられてから、こう言われました。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」わたしは、この言葉はマルコの福音書で一番大切な言葉だと思っています。イエスは人々から仕えられて当然のお方です。わたしたちが命をささげて愛し、従い通すべきお方です。ところが、イエスは、イエスに仕えることも、愛することもしなかった者たちに仕え、その命を十字架で捧げてくださいました。イエスは、言葉だけではなく、その生き様、死に様によって、「しもべ」の道を示してくださいました。神の御子であるのに「神のしもべ」として生き、「苦難のしもべ」となって、わたしたちを罪から救うために死んでくださいました。「罪人の友」どころか「罪人のしもべ」にさえなられたのです。このイエスを信じる者には「しもべ」の心が与えられ、このイエスに従うことによって「しもべ」の道を歩むことができるようになるのです。
イエスが弟子たちに三度もご自分の十字架を予告されたのは、十字架が決して、偶発的に起こったことではなく、人を罪から救うための父のみこころであることを弟子たちに教えるためでした。そしてイエスが「神のしもべ」として父のみこころの道を歩んだように、イエスに従う者も、同じ「しもべ」の道を歩むことを教えるためでした。「しもべ」となられたイエスを信じるわたしたちは、この「しもべ」の道を、自分の人生の道、生活の原理として歩んでいきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、わたしたちはきょう、「しもべ」の道を進み行かれたイエスのお姿を見ました。イエスを信じるわたしたちに「しもべ」の心を与えてください。イエスに従う者たちに「しもべ」として仕えることを教えてください。「しもべの道」はイエスの十字架と共に明らかにされました。しもべの道は十字架によって達成されます。十字架の意味をさらに知り、それを愛し、それを伝える者としてください。イエスのお名前で祈ります。
3/18/2018