御国が来ますように

マルコ10:13-16

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10:13 イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
10:14 それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
10:15 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」
10:16 そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。

 一、罪びとの救い主

 イエスは子どもを愛されました。それは、子どもに罪がないからでしょうか。いいえ、子どもにも罪があります。子どもは生まれつき、わがままで、自己中心です。赤ちゃんは、お腹がすいた、おしめが濡れた、眠くなったと言っては、ところかまわず泣き出します。お母さんが忙しいから、夜中でみんなに迷惑がかかるからなどと、「空気を読む」赤ちゃんなどいません。赤ちゃんは、時とところをかまわず泣いて自己主張をします。

 もう少し大きくなると、言葉と行動で自己主張をします。こどもが早くから覚える言葉は "mine" です。「これはぼくのだ」「わたしのよ」と言っておもちゃの取り合いをするようになります。家中のものがみんな「ぼくのもの」「わたしのもの」なのです。母親が他の人の赤ちゃんを抱たりすると、その赤ちゃんを押しのけて、自分が抱かれようとします。「お母さんは、わたしのものよ」と主張しているのです。

 もちろん、子どもの自己主張のすべてが罪であり、悪であるとは言えないと思います。子どもは自己主張をしながら、自分というものを確立していくからです。いわゆる「反抗期」というものがなくて、手のかからない「良い子」と思われた子どもが、おとなになっても「自己」が確立していないために、さまざまな問題を引き起こすことがあります。2歳ごろの第一次反抗期や思春期の反抗期は、親も子もつらいでしょうが、通らなければならないものだと思います。

 しかし、いつまでも反抗期というのも困ります。わがまま、自己中心を続けていて、「自己」が確立するわけがないからです。悪くすると、そういう人は「サイコパス」(psychopath)と呼ばれる、精神病質者になるかもしれないのです。口が達者で表面は魅力的でも、自尊心が過大で自己中心的、罪悪感がなく、他者に冷淡で共感せず、慢性的に平然と嘘をつき、自分の行動に対する責任を全く取らない、そんな傾向の人が増えているのは、子どもからおとなへの成長の過程にさまざまな問題があるからかもしれません。

 「天国ではだれがいちばん偉いのですか」という質問があったとき、イエスは小さい子どもを弟子たちの真ん中に立たせて、「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう」(マタイ18:3)と言われました。ここは新改訳聖書では「あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り」と訳されています。「心をいれかえる」ことは「悔い改める」ことそのものなので、そう訳されているのでしょう。子どもにも罪があります。しかし子どもは素直に罪を認めます。悔い改めます。悪いことをして叱られたとき、おとなが「ごめんなさい」を促すと、たいていは素直に「ごめんなさい」と言います。ところがおとなは自分の罪を認めようとはせず、それを隠したり、言い訳けしたり、ごまかしたりします。そんなおとなたちに、イエスは、子どものような素直な悔改めの心を求められたのです。

 イエスは言われました。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:32)「自分は正しい。完全ではなくても、悔い改めなければならないような人間ではない」と言って頑張っている人ではなく、自分の罪を知り、それを認め、心から悔い改める人のところに、主イエスは来てくださいます。イエスが子どもを愛し、受け入れたことが聖書に数多くしるされているのは、イエスが悔改めてイエスに近づく者を決してお見捨てにならないことを教えるためなのです。

 二、悔い改めと神の国

 そして、イエスは、悔い改める者に「神の国」を約束されました。イエスは「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)と言われましたが、この言葉は、「子どものように、心をいれかえる、つまり、素直に悔い改めるなら、天国にはいることができる」という約束でもあるのです。マルコ10:15も同じです。「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」とありますが、これも「だれでも幼な子のように神の国を受けいれるなら、必ず、そこにはいることができる」との約束なのです。「よく聞いておくがよい」と訳されているところは、原語では「アーメン、わたしはあなたがたに言う」となっています。これは、主イエスがとても大切なことを語られるときに使われる言い回しです。幼な子のように悔い改めることによって神の国に入るというのは、「アーメン」なこと、真実で、変わらない真理、確かな約束なのです。

 では、聖書が言う「神の国」とはどのようなものなのでしょうか。聖書は、それを将来のものであり、また同時に、現在のものでもあると言っています。

 聖書は、まず、「神の国」は将来のもの、世の終りにやってくる、神の永遠の支配だと教えています。ヨハネの黙示録に次のように書かれています。

わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」(黙示録21:1-4)
何度読んでも、心が熱くなる言葉です。人類の歴史で、憎しみや妬み、犯罪や不道徳、戦争や内乱がなかった時代はありませんでした。罪や悪、不義や不正、暴力や圧迫が支配しない国もありませんでした。しかし、人類の歴史は、罪と悪の勝利で終わるのではありません。人類の歴史やわたしたちの人生の終着点は死と痛みではありません。神がご支配される永遠の「神の国」、死も悲しみも、叫びも痛みもない、幸いが待っているのです。「神の国にはいる」とは、この「神の国」を相続することです。永遠の「神の国」がわたしのものとなること、わたしが「神の国」の国民、いや、それ以上に「神の国」ある神の王子、王女となるのです。

 これは、なんと心踊ることでしょうか。今、悩みを抱え、生きるための苦しい闘いをしている人ほど、「神の国」へのあこがれを強く持つことでしょう。「神の国」の希望があれば、悩みの中でも慰めを受けることができます。最後の勝利が確かであるからこそ、苦しみの中でもくじけずに前進できるのです。

 聖書はつぎに、「神の国」は現在のものだと教えています。神の国は、今、ここにあります。永遠の神の国が、今、すでに始まっているのです。「神の国」の「国」という言葉は、文字通りには「支配」、しかも「王の支配」を意味します。今から二千年前、神の国の王である主イエスがこの世にやってこられたとき、神の国も同時にやってきたのです。イエスは「神の国はもう来ている。それはあなたがたのただ中にある」(ルカ11:20、17:21)と言われました。神の国は、悔い改めてイエス・キリストを受け入れた者たちの中に始まったのです。

 パリサイ人や律法学者は自分たちの正しさを主張し、イエス・キリストを受け入れようとはせず、神の国にはいろうとはしませんでした。ところが、パリサイ人や律法学者が「罪びと」と呼んで蔑んだ「取税人や遊女」が先に神の国を受け入れ、また、神の国に受け入れられました(マタイ21:31)。イエス・キリストは罪びとの救い主であり、神の国は赦しの国です。自分の罪を認め、赦しを願って、イエス・キリストを受け入れる者がそこに入るのです。子どものように素直に、神の国を受け入れる。それが神の国へのただひとつの道です。

 三、御国を求める祈り

 おとなになると、知恵を得、その知恵で罪をごまかしたり、弁解したりするようになります。神に対してもさまざまな「言い訳け」をして、悔い改めを先に延ばします。また、おとなになると、さまざまな問題に対処する「力」を持つようになります。人生を「たくましく」生きていくことは大切なことですが、神との関係や、自分のたましいの問題においても、自分の力でなんとかできると思ってしまうと、それは大きな間違いです。罪を赦され、神との正しい関係に入ることは、決して人間の力でできるものではないからです。さらに、おとなになる過程で、さまざまなネガティブな「体験」によって、神や人への「信頼」を無くしていくことがあります。たとえば、親しい人に裏切られる、何度も約束を破られ、お詫びもしてもらえなかったなどです。相手を信頼して打ち明けたことが、ゴシップとして語られるようになったり、正直に話したらことが誤解の種や非難の的になってしまったということもあるでしょう。そんな体験から「正直者はバカを見る。正直になって損をした」と考えるようになり、神に対しても、正直になれなくなるのです。

 しかし、人はどうであっても、神は違います。神はどこまでも真実です。神は、わたしたちの罪の告白をまっすぐに受けとめ、完全に赦してくださいます。神は、そのおことばの通りのことをしてくださり、その約束を守ってくださいます。人生を生き抜くには「知恵」も「力」も必要でしょう。しかし、人間的な知恵で神に向かっても、神はそれを見抜かれます。自分の力ではどうにもならないこともあるのです。子どもは、おとなのような知恵も力もありませんが、子どもには「信頼する」という力があります。自分ではわからないから父親に聞く、自分ではできないから母親の助けを求めるのです。同じように、神を信じる者も、神への信頼によって人生を生き抜いていきます。おとなになっても、神に頼るという「信頼の力」を失うことなく、それを働かせたいと思います。

 子どもが "mine" という言葉を使って、自己主張をし、自分の世界を作るように、おとなも、「わたしの意見」「わたしの信念」「わたしの人生」などと言って、神のご支配をうけつけようとしないことがあります。主の祈りの「御国をきたらせたまえ」は、英語では "Thy Kingdom come." ですが、多くの人は、無意識でしょうが、"My kingdom come." と祈っているのです。

 しかし、「わたしの国」を主張し、追い求めるところにほんとうの「わたし」はありません。「あなたの国」、つまり「神の国」を願い求めるとき、ほんとうの「わたし」に出会うことができます。そして、そのほんとうの「わたし」は、神を「あなた」と呼び、神との「あなたとわたし」との関係の中で、成長していくのです。

 神のご支配を受け入れるということは、自分を失って、神のあやつり人形になるということではありません。神はどんな人をも、あやつり人形のように操作したいとは願っておられません。ひとりひとりが、その人自身となり、みずからの意志で神を信じ、愛し、神に従うことを願っておられるのです。人は、神の支配を受けてはじめて、本来の自分を取り戻すことができるのです。それは、すべての真実なキリスト者が体験していることです。

 幼な子のように悔い改め、神の愛の支配を受け入れましょう。その神のご支配にとどまりましょう。それが「御国を来たらせたまえ」と祈ることなのです。

 (祈り)

 父なる神さま、「神の国」、あなたのご支配は、すでに主イエス・キリストによってもたらされています。主イエスがおっしゃったように幼な子のように神の国を受けいれ、神の国の幸いを体験するわたしたちとしてください。「御国を来たらせたまえ」と祈るたびに、心を開き、へりくだって、あなたのご支配を迎え入れることができますように。わたしたちの主イエス・キリストのお名前で祈ります。

6/7/2015