聖霊のバプテスマ

マルコ1:6-11

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1:6 ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

 きょうは、母の日。母の日おめでとうございます。「母親にならない人はいても、母親を持たない人はいない。」ということばがあるように、私たちはみな、母に生んでもらい、この世に生を与えられました。そのことを、神に感謝したいと思います。また、教会には、信仰の母のような人がいて、多くの人は、そうした人々によって、信仰に導かれ、また、信仰を育てられてきたことでしょう。たとえ、「信仰の母」と呼ぶことのできる特定の人がいなかったとしても、教会全体が、実は、「信仰の母」です。母なる教会のゆえにも、神に感謝し、礼拝をささげましょう。

 きょうは、「母」にちなんだメッセージをと思いましたが、「聖霊のバプテスマ」という主題でお話しすることにしました。といいますのは、きょうは、「母の日」であるとともに、「復活節第七主日」で、来週はペンテコステだからです。主イエスの復活から七週たった後、つまり、50日目に、エルサレムでは、「ペンテコステ」の祭がありました。「ペンテコステ」というのは、「50日」という意味です。この時、聖霊が弟子たちにくだり、聖霊によって教会が生み出されました。教会は、信仰者の母ですが、聖霊は、その教会を生み出されたお方であり、教会の母です。ですから、母の日に聖霊のバプテスマという主題でお話ししても、まったく母の日とは無関係ではないと思います。

 「聖霊のバプテスマ」という言葉は、はじめて耳にする人にとっては、おそらく、何のことか、まったく見当がつかないでしょう。「聖霊」という言葉が分からないし、「バプテスマ」という言葉も分からないからです。では、「聖霊のバプテスマ」という言葉を何度も聞いてきたクリスチャンは、それを理解しているのかというと、やはり、少しこころもとない気がします。「聖霊のバプテスマ」を口にする人に、「聖霊のバプテスマとは何ですか。聖書ではどういう意味で使われていますか。聖霊のバプテスマは、私たちにどういった形であたえられるのですか。」と尋ねても、はっきりと答えることが出来る人は多くはないように思います。「聖霊のバプテスマは体験ですから、説明の必要はありません。」と言ってしまえばそれまでですが、聖書は、私たちの霊的な体験について、きちんとした説明をしていますから、自分の受けた体験を聖書によって説明することは大切なことです。そのことによって、私たちは、神が与えてくださった体験を正しく理解し、さらに深い体験へと導かれていくのです。学問は、決して人を救うものでも、人に神の恵みや力を体験させるものでもありません。体験の伴わない、血の通わない、冷たい学問は、逆に、人を生きておられる神から遠ざけることさえあります。しかし、聖書の論理にしたがってものを考え、聖書のことばによってそれを表現できなければ、自分の体験を人に伝えることができません。ですから、私たちは、「聖霊のバプテスマ」について聖書を調べ、聖霊について、絶えず学んでいる必要があります。今朝は、バプテスマのヨハネがどんな意味で「聖霊のバプテスマ」という言葉を使ったのか、主イエスや弟子たちはどうだったかということから、学んでみたいと思います。

 一、裁きとしての聖霊のバプテスマ

 ヨハネは、人々に洗礼を授けていました。彼の授けていた洗礼は、「悔い改めの洗礼」と言って、ユダヤ人でない人、つまり異邦人が、まことの神を信じる時に受けるものでした。人々は、まことの神に背を向け、偶像を拝んでいたことを悔い改め、その罪を洗い流し、偶像の汚れからきよめられるために、全身を水に浸したのです。それをギリシャ語で「バプテスマ」、日本語で「洗礼」と言います。ヨハネは、洗礼を授ける人だったので、「バプテスマのヨハネ」、あるいは「洗礼者ヨハネ」と呼ばれました。ヨハネの洗礼のユニークなところは、この悔い改めの洗礼を、異邦人にではなく、ユダヤ人に授けていたことにあります。ユダヤ人は、すでにまことの神を信じる神の民であって、異邦人のように悔い改めの洗礼を受ける必要はなかったのです。しかし、ヨハネは、名前ばかりは「ユダヤ人」でも、ユダヤ人の先祖、アブラハムが持っていた信仰を失ってしまっている人々に、ユダヤ人としての誇り、神の民という自惚れを捨てて、悔い改めて、もういちどゼロから、神の民として出直すように教えていたのです。ヨハネは、自分のところにやってきたユダヤの指導者に「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。」(マタイ3:7-9口語訳)と言っています。

 ヨハネは、「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(8節)と言いました。この時、ヨハネが意味した「聖霊のバプテスマ」とは、いったい何だったのでしょうか。それは、マタイ3:11-12を読むと良くわかります。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」マタイでは、「聖霊のバプテスマ」が「聖霊と火とのバプテスマ」と言い替えられています。そして、それが、麦の脱穀の様子にたとえられています。どういうことかと言いますと、古代のユダヤでは、麦と籾殻を分ける時には、風の吹く小高い丘の上に立ち、麦と籾殻のまざったものをシャベルのようなものですくって、それを空中に放り投げるのです。麦は足下に落ちますが、軽い籾殻は風に飛ばされ遠くに落ちます。そのようにして、麦と籾殻とを分けるのです。麦は倉に納め、殻は火で焼かれます。麦は、神に信頼し、神に従う人々を表わし、籾殻は、そうでない人々を表わしています。今は、真実も偽りも、善も悪も入り混じった時代ですが、やがて、真実と偽り、善と悪とがはっきりと区別される裁きの時がやって来ます。聖霊の「霊」というのは、「息」あるいは「風」という言葉で表わし、また火が聖霊のシンボルとして使われますので、「聖霊と火とのバプテスマ」というのは、神の裁きを表わしています。したがって、「私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」(8節)というのは、「神の裁きの時が近づいている。聖霊と火のバプテスマでわれわれを裁くお方がもうすぐ来られる。だから、今、悔い改めなさい。」というメッセージだったのです。

 バプテスマ、洗礼に、「裁き」という意味があるのをご存知だったでしょうか。主イエスは、ルカ12:50で、「わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」と言っておられますが、それは、イエスが受けようとしておられた十字架の刑罰を意味しています。ヤコブとヨハネが、イエスがイスラエルの王になったら、ひとりを右大臣、ひとりを左大臣にしてくださいと頼みに来ました。その時、主は、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」(マルコ10:38)と言われ、十字架の死を「わたしの受けようとするバプテスマ」と呼んでいます。実は、キリストを信じてバプテスマを受けた者は、それによって、キリストとともに十字架の上で死んだのです(ローマ6:3-4)。そこで、罪の裁きを受けたのです。一度裁かれたものは、再び裁かれることはありません。バプテスマのヨハネは、「悔い改めのバプテスマ」によって、やがて来る聖霊と火のバプテスマ、裁きのバプテスマに備えよと、教えました。今、私たちには、悔い改めだけでなく、イエス・キリストを信じる「悔い改めと信仰のバプテスマ」があります。最終的な神の裁きが来る前に、真剣に悔い改めましょう。イエス・キリストに信頼し、従いましょう。その時、イエス・キリストへの信仰を言い表わして受けたバプテスマは、私たちを、裁きから救うものとなるのです。

 二、恵みとしての聖霊のバプテスマ

 イザヤ40:7に「主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。」とあり、マラキ3:2-3には「まことに、この方は、精錬する者の火…のようだ。…銀を精錬し、これをきよめる者として座に着く。」と言われていますが、バプテスマのヨハネは、こうしたことばに基づいて、聖霊のバプテスマを、神の裁きという意味で使いました。たしかに、バプテスマには、神の裁きという意味があり、キリストを信じて受けるバプテスマにも裁きという意味が残っています。しかし、主イエスがヨハネからバプテスマを受けた時、聖霊がくだったのですが、天からの風も、火も現れませんでした。むしろ、聖霊は、柔和な鳩のような姿で、現れています。イエスも、ヨハネと同じように悔い改めを教え、また、神殿から商売人を追い出すなどして、神の民を裁きました。しかし、「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」(ヨハネ12:47)と言われ、裁き主としてよりも、救い主として、人々にご自分を現わされました。

 主は、弟子たちに聖霊のバプテスマを約束されましたが、主が約束された聖霊のバプテスマは、ヨハネが意味したものとは違っています。使徒2:2-3に、弟子たちが受けた聖霊のバプテスマの様子が描かれています。そこに、「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」とあります。ヨハネが、「聖霊と火のバプテスマ」と言ったように、弟子たちが聖霊のバプテスマを受けた時も、風と炎が現われました。しかし、その風は、籾殻を吹き飛ばすような風ではなく、その炎は、吹き飛ばされた籾殻を焼き尽くす火ではありませんでした。使徒2:5-6に「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。」とあるように、風の響きは、人々を散らすものではなく、人々を集めるものでした。また、弟子たちの上に現われた炎は、人々を焼き尽くすものではなく、人々のこころを暖めるものでした。弟子たちは、聖霊の力によって、大胆に神のことばを語りました。その時、イエスに対して「十字架につけろ」と叫んだ人々、イエスに対して冷い心しか持っていなかった人々が、次々と悔い改め、信仰を告白し、バプテスマを受けていったのです。聖霊は、弟子たちにも、弟子たちのメッセージを聞いた人々にも働いてくださいました。使徒ペテロは、イエスを信じてバプテスマを受けた人々に「そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)と約束しました。これは、イエスを信じる者のうちには、聖霊がとどまってくださるということを意味しています。聖霊は、救われた者のうちにとどまって、救いの保証となり、信仰を支え、キリストに仕え、キリストをあかしするための原動力となってくださるのです。

 もし、「聖霊のバプテスマ」が籾殻を火で焼き尽くすような、神のさばきという意味でしかないなら、なんと恐ろしいことでしょう。聖書には、「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。…その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(ペテロ第二3:7,10)とあります。やがて、世の終わりに、神の裁きとしての「聖霊と火のバプテスマ」がやってくるのです。しかし、イエス・キリストは、その日が来る前に、神の恵みとしての「聖霊のバプテスマ」を与えてくださいました。聖霊が主イエスにとどまり、主イエスが荒野での誘惑に打ち勝ち、力にあふれて伝道なさったように、また、ペンテコステの日に、弟子たちが聖霊に満たされて、神のことばを語ったように、現代のクリスチャンも、同じ聖霊を受け、同じ恵みにあずかることができるのです。

 あなたは、もう、この恵みにあずかっているでしょうか。聖霊は、イエス・キリストを信じる者に与えられます。あなたは、イエス・キリストを信じているでしょうか。私がこう質問しますと、「はい、信じています。」というかわりに、「私は洗礼を受けています。」と言う方があります。洗礼を受けることは大切なことです。しかし、あなたは、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを罪からの救い主と信じてバプテスマを受けたでしょうか。あなたのバプテスマは、イエス・キリストへの信仰と結びついているでしょうか。水のバプテスマは受けても、聖霊のバプテスマを受けていないということはないでしょうか。聖霊を持たない信仰生活ほど、みじめなものはありません。それは本当の意味では、信仰生活ではなく、たんなる宗教生活でしかないのです。また、聖霊をいただいていても、聖霊に満たされているでしょうか。聖霊を消している、聖霊を悲しませているというような状態ではないでしょうか。もし、そうだとしたら、聖霊をいただきながら、聖霊の新鮮な息吹も、聖霊の光と暖かさも受けることができないのです。それは、神が与えてくださっている恵みの時代、聖霊の時代に逆行していることになります。

 ブルックリン・タバナクルという教会があります。この教会で毎週火曜日に行われている祈祷会には、座る場所がなく、立ってでも良いからと、多くの人が押し寄せているそうです。礼拝ではなく、祈祷会が満席なのです。なんとうらやましい話でしょう。この教会の牧師、ジム・シンバラ師は、何冊かの本を書いていますが、そのうちの一つ "Fresh Wind, Fresh Fire" という本は、日本語にも『神よ。私の心に聖霊の火をともしてください』という題で訳されています。この本は、現代のクリスチャンが、健康の問題、経済上の問題、社会の問題、家庭の問題など、多くの問題を抱え、それを解決できないでいるのは、そこに聖霊の恵みと力を求めないからだと言っています。聖書が書かれて、何世紀も経っていますが、神のことばは一文字たりとも変更されていません。聖霊の恵みと力は、昔も今も変わりません。聖霊は、私たちの諸問題を解決しようとして待ち構えておられるのだから、諸問題の中で聖霊のお働きを求めなければならないと、この本は言っています。聖霊が働かれる時、私たちは、不可能を可能にする神の力を見ることができます。人生のどんな問題が押し寄せてきても、聖霊の力をいただいているなら、それに打ち勝ち、前進することができます。あなたは、そのような聖霊の働きを求め、それを体験しているでしょうか。キリストを信じた者には聖霊が宿っておられます。しかし、聖霊の助けを求めることがなければ、聖霊の恵みは私たちのものにはなりません。聖霊を求めましょう。聖霊は、私たちの命のない宗教生活を、生き生きとした信仰生活に変えてくださいます。私たちの冷え切った心に、神への愛を燃え立たせてくださいます。信仰生活に、喜びと力があふれてくるのです。

 聖霊の風と炎、それは、麦と籾殻を区別します。聖霊が働かれる時、私たちのうちにある籾殻は吹き払われます。それは、一時的には、痛みを覚えることかもしれませんが、麦は残るのです。神のために実を結んだものは、永遠に残るのです。聖霊の風を、息吹を求めましょう。そして、聖霊の炎を求めましょう。「火事だ!」というと、多くの人がそれを見ようと集まってくるように、私たちも、神のために燃えているなら、いいえ、聖霊の新鮮な息吹で燃やされているなら、そこに人々がやってきます。神は、救われる人々を起こしてくださるのです。ものが燃えるためには、新鮮な空気が必要です。燃える心は、さらに新鮮な聖霊の息吹を求めます。そして、さらに、神のために燃えて、輝いていくことができるのです。「神よ。私の心に聖霊の火をともしてください。」との祈りを、私たちの祈りとしましょう。

 (祈り)

 私たちに聖霊を遣わしてくださった、父なる神さま、あなたの裁きとしての「聖霊のバプテスマ」が、主イエス・キリストによって、恵みとしての「聖霊のバプテスマ」に変えられ、聖霊の恵みが備えられていることを感謝します。私たちは、こんなに豊かな恵みの時代に生きているのに、聖霊の恵みを求めることの、なんと少ないことでしょう。この恵みの時代も、やがて終わりを告げ、世界が「火のバプテスマ」を受ける時がやってきます。その前に、この恵みの時代に、聖霊によって、生かされ、力づけられる私たちとしてください。人間の努力や能力ではなく、聖霊の力によってイエス・キリストをあかしをしていくことのできる私たちとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/8/2005