ひとりになる訓練

マルコ1:35-39

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1:35 朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1:36 すると、シモンとその仲間とが、あとを追ってきた。
1:37 そしてイエスを見つけて、「みんなが、あなたを捜しています」と言った。
1:38 イエスは彼らに言われた、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教を宣べ伝えよう。わたしはこのために出てきたのだから」。
1:39 そして、ガリラヤ全地を巡りあるいて、諸会堂で教えを宣べ伝え、また悪霊を追い出された。

 マルコによる福音書に繰り返し出てくる言葉があります。マルコでは60回以上使われており、1章だけでも10回出てきます。たとえば、マルコ1:20では「そこで、すぐ彼らをお招きになると…」、マルコ1:21「そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた」、マルコ1:29「それから会堂を出るとすぐ…シモンとアンデレとの家にはいって行かれた」などです。それは「すると、すぐに」という言葉です。これは、イエスがじつに精力的に働いておられる様子、父なる神から与えられた使命を果たしておられる様子を描いています。

 ところが、きょうの箇所では、イエスが、人々から離れ、弟子たちをも置いて、ただひとり神の前に出ておられたことが書かれています。イエスの、あの精力的な働きの力の源は、神の前に「ひとりになる」ことにあったのです。もし、わたしたちが、神のためにより良く働きたい、イエスのように自分の人生に与えられた使命を果たしたいと願うなら、「ひとりになる」訓練が必要です。言い換えれば、「ひとりになる」訓練ができていない人は、決して、神からの使命を果たすことができないということです。

 一、「ひとりになること」と日本人

 けれども、「ひとりになる」訓練は、日本人には難しい訓練です。欧米人は「個人志向」だが、日本人は「集団志向」だと言われます。学者たちは、それは日本人が農耕民族であったことから来ていると言います。農業、とくに稲作の場合、共同作業が求められます。ひとつの水源から、それぞれの田んぼに水をひくのに、自分のところだけ先に水をひくなどといったことは禁じられていました。そうした集団のきまりを破ることは、他のどんなことよりも厳しく罰せられました。逆に、集団のきまりさえ守っていれば、個人の道徳は問題にされません。たとえば、飲んだくれで、家族を泣かせるようなことをしていても非難されることはありませんが、村の祭礼に出てこないなどということがあれば、たとえ、その人が立派な人格を持ち、人々に親切だった人であっても、村八分にされたのです。

 日本が「先進国」の中で唯一の「非キリスト教国」であるのは、こうした精神風土が原因であると言われています。日本では「信仰」もまた、個人の意志によるのでなく、集団が決めるのです。地方では、ある町に住めば、自動的にその町の神社の氏子になり、誰もが神社への分担金を、自治会を通して払わなければなりません。神道は「地域の宗教」なのです。そして神道が「地域の宗教」なら、仏教は「家の宗教」です。たいていの家庭はどこかのお寺の檀家になっていて、その家に生まれた者は、個人の信仰に関係なく、その家の宗派を引き継ぐことになっています。

 神道が「地域の宗教」、仏教が「家の宗教」なら、キリスト教は「個人の宗教」と言ってよいかもしれません。イエス・キリストを信じる信仰は、個々人が神の前に立ち、神との信頼の関係を結ぶものだからです。家族の全員が同じ時にバプテスマを受ける場合でも、ひとりひとり個別に信仰の証しが求められます。クリスチャン・ホームで育ち、親の信仰を引き継ぐ場合でも、明確な救いの確信が求められます。友だちがバプテスマを受けるから「わたしも一緒に」ということだけでは、バプテスマを受けることはできません。誰であっても、聖なる神の前に「ひとりになって」、「自分の」罪を認め、恵みの神に「自分の」救いを求める必要があるのです。

 日本の神々も、仏教の教えも、「ひとりでいる」ことを求めません。日本では、信仰とは「意志を働かせて決断する」ものではなく、伝統に従い、他の人に合わせていくことだからです。それ以上のことは、「宗教に凝っている」と言われ、人々から敬遠されます。日本でクリスチャンが少ないのは、神が人格であり、信仰とは、この神と人格の関係を持つことであることが理解されていないからだと思います。神は理論でも、アニメ・キャラクターのような「想像上の友だち」でもありません。神は、理性と感情と意志を持った生けるお方です。信仰とは、この神と、人格と人格のまじわりを持つことであり、「ひとりになる」ことは、そのまじわりを深めることなのです。

 先に信仰に導かれた者が、神の前に「ひとりになる」訓練を受けることによって、人々に「人格の信仰」を証しすることができると思います。「日本人に理解されやすいように」と、福音を日本的に変えてしまったのでは、そこには何の救いもありません。神が、日本人にも福音を分からせてくださると信じて、日本人を福音に近づける働きをしていきたいと思います。

 二、「ひとりになること」と現代

 聖書の民、ユダヤの人々は牧畜民族であり、こどものころから「ひとりになる」ことを教えられました。羊を飼うのは、その家の中で一番年若い者の仕事で、人々は少年のころから、ひとりで羊を追って、草のあるところを歩きまわりました。遠くまで行ったときはそこで野宿しました。たったひとりで、何もない、何も聞こえない荒野で夜を過ごすのです。いや、「何もない、何も聞こえない」どころか、羊を狙う野の獣がいて、そのうなり声が聞こえたことでしょう。しかし、ユダヤの少年たちは、野の獣を退治する方法や、非常の場合、羊をほふって食糧にすることなどを教えられていました。ひとりで生きていくことを教えられ、神の前にひとりで立つことを教えられました。

 「アドベントのデボーション」の12月12日のところに、アーモーさんがユダヤの荒野をレイチェルさんといっしょに見ていた時のことが書かれていました。その時、レイチェルさんが目に涙を浮かべたので、アーモーさんがレイチェルさんに「何を考えていたの?」と聞くと、レイチェルさんは「ヨハネがこんな荒野で生涯を過ごしたのかと思って…」と答えました。ヨハネが預言をはじめてからは、大勢の人が詰めかけ、弟子たちもできましたが、ヨハネは、それまでの年月を、荒野で、いなごと野蜜を食べながら、ひとりで過ごしたのです。神の前に「ひとり」になり、神の言葉を聞いたのです。

 文明の結果であるさまざまなものに取り囲まれ、大勢の人々の中で生きているわたしたちは、もはやヨハネのように神の言葉を聞く感覚を失っているのではないかと思うことがあります。神に出会い、神の言葉を聞くことができないためたましいが空っぽになっています。それを人とのまじわりで満たそうとするため、人との関わりに執着し、縛られてしまっているのではないかと思います。人とのまじわりは大切です。しかし、それを神への信頼と同じかそれ以上のものであるかのようにし、それに依存するようになると、信仰の芽はしぼんでしまうのです。

 チャック・スゥンドール先生は「確信を持たない人は自分を忙しくしていないと不安になる。そういう人は自分にへつらう人たちの歓心を買い求める続けなければならない」と言っています。多くの人は、神の言葉によってでなく、人々の評判によって自分を支えようとしています。神の目に映る自分ではなく、人の目に映る自分を見て、自分を支えようとするのです。ほとんどの場合、無意識なのですが、神を喜ばせるためや人の役に立つため、また、自分自身を高めるためというよりは、人々に自分を認めてもらうことのために、大きなエネルギーを費やしています。そのために疲れ果ててしまい、神を見失い、自分を見失うのです。

 現代は、どの国の、どの世代でも、人と人とのつながりが強調されます。日本では、東日本大震災以来、「絆」という言葉が頻繁に使われるようになりました。若い人たちは朝起きたときから寝るまで携帯電話をいじっています。誰かとつながっているためです。人とのつながりは大切です。フェローシップもコミュニティも大切です。しかし、それが神とのまじわりの妨げになり、一種の中毒になっているのも否めない事実です。「キリストよりも、教会というコミュティを信じる」ということが起こってくるのです。今が、このような時代だからこそ、わたしたちは「ひとりになること」をもっと大切にし、その訓練を受けたいと思います。

 三、「ひとりになること」の祝福

 最後に、「ひとりになること」の祝福についてお話しして終わります。

 第一に、「ひとりになる」ことによって、神に自分を点検していただけます。わたしたちは、神に対して「世界のこの問題はどうなのですか。あの悪い人たちの罪はどうなのですか」などといった一般的な質問や言い訳を申し立てることがあります。もちろん、神はそうしたことにもお答えくださるのですが、神は、もっと、わたしたちひとりひとりに心をかけておられます。神は「世界の問題ではなく、“あなた”の本当の問題を聞きたい。他の人の罪ではなく、“あなた”の罪について論じたい」とおっしゃるのです。そのために、神はわたしたちに「ひとりになる」ことを求められるのです。

 「ひとりで」神の前に出るのは、勇気のいることです。ヘブル4:12-13にこうあります。「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。」

 神の言葉はわたしたちを生かすものですが、同時に、それはわたしたちの内面を見通すものです。人々が神の言葉を避けたり、それを表面的な「お勉強」で終わらせようとするのは、神の言葉によって刺し貫かれるのが恐いからです。確かに神の言葉は鋭い「刃物」です。しかし、それは、傷つけ、殺すための刃物ではなく、外科医が使う刃物のように、いやし、生かすための刃物です。「ひとりに」なって神と、神の言葉の前に立つ時、それはわたしたちをいやすものとなります。ヘブル人への手紙のこの箇所はこう結ばれています。「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(ヘブル4:16)わたしたちは皆、神の御座の前に立たされます。それは、罪あるわたしたちには恐ろしいことです。しかし、その御座は、今、イエス・キリストによって「裁きの座」ではなく、「恵みの御座」となっています。神の御座が「恵みの御座」であるうちに、神の前に立ちたいと思います。

 「ひとりになること」の第二の祝福は、神とのまじわりです。「ひとりになること」(solitude)と「ひとりぼっち」(loneliness)とは違います。実際、わたしたちは「ひとりになること」によって、孤独になるのではなく、神とふたりになるのです。神を「独占」し、神とふたりだけのまじわりを楽しむのです。セミナーやリトリートでは、多くの人が講師やリーダーと個人的な話をしたいというので、食事のときなど、競ってその隣に座ろうとします。それと同じように、神を「独占」したい、神とふたりきりでいたいという思いがあれば、「ひとりになる」訓練は容易いものです。また、逆に、「ひとりになる」訓練によって、神への熱い思いが育てられていくのです。

 「ひとりになること」の第三の祝福は、それによってより良く人々に仕えることができるということです。「ひとりになること」は、他の人との関わりをいったん置いて、ひとりで神のところに行くことです。「いったん置いて」いくだけであって、人との関わりを捨てるわけではありませんし、「人嫌い」になることでもありません。イエスは、誰にも邪魔されない朝に、寂しいところで、神とふたりきりの時を楽しまれました。しかし、そこにとどまってはおられませんでした。そこから立ち上がって、「ほかの、附近の町々にみんなで行って、そこでも教えを宣べ伝えよう」と言って、さらに多くの人々の必要に目を向け、人々に奉仕しようとされました。

 わたしたちは「ひとりになること」によって、人との関わりを、いったんリセットすることができます。自分をも、他の人をも新しい目で見ることができるようになります。そして、そこから、ほんとうの意味で人に仕えることができるようになるのです。

 神は、ご自分の働きのために、「ひとりになる」ことができる人を求めておられます。教会の奉仕であっても、わたしたちは自分のしたことの成果やそれに対する人々の評価を気にすることがあります。しかし、神が求めておられるのは、そうしたものから目を離し、ただ神を慕い求めて働く人です。神とのまじわりのために、それ以外のものを進んで切り捨てることができる人が、ほんとうの意味で神と人とに仕えることができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、御子イエスは、あなたの前で「ひとりになる」こと、いや、あなたとふたりきりでいることの大切さを身をもって示されました。このレントの四十日に、わたしたちに「ひとりになる」ことの訓練を与えてください。そして、この世のことがらへの依存や執着から「独り立ち」できるキリスト者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

2/11/2018