1:14 ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、
1:15 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
一、福音とは
マルコによる福音書は「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(マルコ1:1)という言葉で始まっています。そして、きょうの箇所にはイエス・キリストが福音を宣教された、その第一声がしるされています。「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」福音宣教のはじめが「福音を信ぜよ」なのですから、福音がどんなに大切なものか分かります。では、福音とは何なのでしょうか。
「福音」の文字通りの意味は、「良い知らせ」です。中世の英語で “godspel” と書きます。“god” は “good” のこと、 “spel” は“spell” で「話」ですから、「良い話」、「耳よりな話」、「福音」となります。もっとも、ひとくちに「良い知らせ」といってもさまざまありますが、聖書が言う「福音」は「イエス・キリストの福音」です。そして、「イエス・キリストの福音」という場合、そこにはふたつの意味があります。
第一に、「福音」とは、「イエス・キリストが語られた言葉」ということです。イエス・キリストは、弟子たちとともにガリラヤ、ユダヤをくまなく回って、教えを説かれました。それは、ユダヤの人々が今まで聞いてきた教えとは違っていました。人々は「こうしなさい、ああしなさい」という「律法」を聞いてきたのですが、イエスは「神はあなたを愛し、救ってくださる」という、恵みの言葉、救いの言葉を語られました。良き主、良き師であるイエス・キリストが語られる言葉が「良き知らせ」でないわけがありません。福音は、イス・キリストによって語られたものであるので、「イエス・キリストの福音」なのです。
第二に、「福音」とは、「イエス・キリストを語る言葉」です。イエス・キリストは神の御子、人類の救い主であるということを告げる言葉が福音です。聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書があり、これらは、イエス・キリストがなさったことや語られたことを忠実に記録しています。しかし、それとともに、福音書は、その記録を通して、イエス・キリストを伝えようとしています。
マルコによる福音書の最初に「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」とあることから、この福音書が、イエス・キリストが神の子であることを伝えようとしていることが分かります。ヨハネ20:31にこうあります。「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」この言葉から、福音書が、イエスが語られたことやなさったことを記録するとともに、そうすることによって、これを読む人が、イエスを神の御子、キリストであることを知り、信じることができるために書かれたことが分かります。
ですから、福音書は、イエス・キリストの言葉を伝えるという意味でも、それによってイエス・キリストを伝えるという意味でも、「福音」なのです。聖書を読み、学ぶと、イエス・キリストが語られた「福音」と、イエス・キリストを伝える「福音」の両方が矛盾のない、ひとつの救いのメッセージであることが分かるようになります。
二、福音が語られた時と場所
さて、マルコ1:14には、この福音が、いつ、どこで、はじめて語られたかが書かれています。時はバプテスマの「ヨハネが捕えられた後」、場所は「ガリラヤ」です。これらは、何を意味しているのでしょうか。
ユダヤの国には、マラキ以来、何百年と預言者が起こりませんでした。人は神の言葉によって生きるのに、その神の言葉が途絶えていたのです。そんなとき、バプテスマのヨハネが現われました。バプテスマのヨハネは皮の毛衣を身にまとっていましたが、それは預言者エリヤと同じいでたちでした。人々は、ヨハネを旧約の偉大な預言者エリヤの再来と見なし、長い沈黙を破って語られた預言の言葉を喜びました。バプテスマのヨハネは善悪をまっすぐに教え、相手がガリラヤの領主ヘロデであっても、その悪事を非難しました。民衆は、それを聞いて、バプテスマのヨハネの勇気を賞賛しました。人々は、かつて、預言者エリヤがアハブ王と戦って、王に勝ったように、ヨハネが領主ヘロデに勝つことを願いました。神の言葉が横暴な政治に勝利することを期待したのです。
ところが、結果は逆でした。ヨハネは、ヘロデに捕えられ、牢屋に入れられ、やがて、首をはねられるのです。バプテスマのヨハネに期待していた人たちは失望しました。そしてその失望は、なぜ、神は奇蹟を起こしてくださらなかったのか、神の言葉に力があるのだろうかないのではという疑いや不信仰の心を起こさせたことでしょう。もし、バプテスマのヨハネの死で神の言葉が消えてしまっていたら、世界は再び暗闇に戻ってしまったことでしょう。しかし、神の言葉の光は消えませんでした。神の言葉のたいまつは、バプテスマのヨハネからイエスに引き継がれ、神の言葉はバプテスマのヨハネが語った以上に、力強く宣べ伝えられました。バプテスマのヨハネが語ることのできなかった、イエス・キリストによる救いのメッセージ、「福音」があきらかにされ、御言葉の光はより一層輝いたのです。
多くの著名な指導者たちが、今の時代が「主の言葉を聞くことのききん」(アモス8:11)の時代であると言っています。神の言葉が神の言葉として語られ、聞かれることが少なくなっていると、口を揃えて警告しています。しかし、そんな時代でも、神の言葉がまったく取り去られたわけではありません。神の言葉の力は変わることなく、それは世の終わりまでこの世にとどまり、世界の果てまで届けられます。たとえ、それを聞く人が少なくなったとしても、神の言葉自体は変わることがないことに、希望を持ちたいと思います。
また、わたしたちの人生には、「最悪だ」と思えるような時があります。しかし、そのような時にも、神の言葉が語られている、イエスが福音を宣言し続けておられることを忘れないでいたいと思います。思ってもみなかったことが起こるとき、わたしたちはパニックになって、神の言葉が聞こえなくなってしまったり、分かっていたはずのことが分からなくなってしまうことがあるでしょう。しかし、神は、わたしたちから神の言葉を取り去ることはありません。神は、いったん消えてしまったと思えるような消し炭からでも、再び火を起こし、神の言葉でわたしたちを照らし、あたためることがおできになるのです。
マルコ1:14は、次に、福音が最初に語られた場所について、それは「ガリラヤ」だと告げています。日本では、他の県の人口が減っているのに、東京とその近辺では人口が増えています。それは、大都市ではさまざまな恩恵を受けられるからです。地震や水害などがあっても、都市部では復旧が早いのに、地方ではなかなかはかどらないというのが、現状です。当時のユダヤにも、そのような地域格差がありました。ガリラヤはユダヤの都エルサレムからはるかに遠い辺境の地で、人々から低く見られ、忘れられた地域でした。
また、ガリラヤには、地域的な差別とともに、宗教的な差別もありました。ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」また「暗黒の地」(マタイ4:15-16)と呼ばれました。それは、ガリラヤ地方は、フェニキアの人たちが住む地域と隣接しており、通商路が数多くあって、外国との交流が盛んでした。それで、ガリラヤの人たちは異邦人の汚れを受けていると考えられたのです。ガリラヤは神から最も遠い地域だと思われていました。
イエスがガリラヤを「福音のはじめ」の地に選ばれたのは、神から最も遠いと思われていた人々にこそ、まず福音が伝えられるべきだと考えられたからだと思います。イエスは迷った一匹の羊を探しだしてくださる羊飼です。イエスは、エリコの町の嫌われ者、取税人ザアカイを、名指しで呼び、彼の家に泊まり、「人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19:10)と宣言された、罪びとの友です。イエスは、神に一番遠いところにいる人、一番困難なところにいる人、どん底にいる人に心を向け、そういう人から順に手を差し伸べてくださるのです。
もし、あなたが、「わたしは今、一番神から遠いところにいる」と感じていても、大丈夫です。今、こうして、あなたは福音を聞いています。神の呼びかけを受けているのです。「ヨハネが捕えられた後」という失望の時に、宗教の中心地エルサレムから最も遠い「ガリラヤ」で、福音が宣べ伝えられたのです。今、あなたがどこにいたとしても、どんな状態であっても、福音に耳を傾け、それにこたえることができるのです。
三、福音が告げ、求めていること
最後に、福音が告げ、求めていることについて学びましょう。イエスは言われました。「時は満ちた、神の国は近づいた。」イエスの福音は「神の国」がやってきたことを宣言するものでした。イエスが言われた「神の国」とは、世の終わりに現われる、「死も、悲しみも、叫びも、痛みもない」(黙示録21:4)、「義の住む新しい天と新しい地」(ペテロ第一3:13)のことです。しかし、イエスは、この「神の国」が、何千年も後にやっと実現するのでなく、今、すでに、ここにやってきていると、宣言されたのです。
「神の国」は、神の国の基準からほど遠い生活をしている者にとっては、手の届かない存在です。どんなに努力しても、修業を積み重ねたとしても、そこに到達できないからです。ところが、イエスは、わたしたちが神の国に到達するのでなく、神の国のほうがわたしたちのところにやってきたというのです。しかも、立派な人々のところにではなく、みずからの罪に苦しむ人々の只中にです。
「神の国」の「国」は、「支配」と訳すことができ、イエスはそのようなものとしてこの言葉を使っておられます。人間は、神によって生かされており、神に愛され、神を愛するときいちばん幸せなのですが、そのことを忘れ、神の愛の支配を嫌って、自分勝手な生き方をしてきました。その結果、惨めさを味わい、やっと、神の愛に気付き、立ち返ろうとしても、神の愛を確信できなくて、神のふところに飛び込むことができないでいるのです。イエスは、そんな人々に、神の国、つまり、神の愛の支配が今、ここにやってきたと宣言されたのです。
なぜ、イエスはそう言うことができたのでしょう。イエスは神の国の王だからです。王が、この地に降りてこられ、人々の只中に住まわれたのなら、王とともに、神の国は、この地に、人々の中にやってきたのです。イエスは神の国の王でありながら、罪びとの友となってくださいました。しかし、神の国は聖なるところです。神の国に罪はなく、罪あるものは神の国に入ることはできません。それでイエスは、人の罪をご自分の身に負われ、罪の刑罰を人に代わって負うことによって、この問題を解決してくださいました。人はイエスの十字架の門をくぐってはじめて神の国に入るのです。
神の国の完全な姿を見るのはまだ先のことでしょうが、十字架のドアから神の国に入った者は、神の国の義と平和と喜びを、今から味わうことができます。イエスを受け入れる者は、神の国を受け入れ、その神の国に、今から生きはじめます。
イエスは神の国の宣言に続いて言われました。「悔い改めて福音を信ぜよ。」イエスが言われたように、神の国は、今、ここに、わたしたちの身近にあります。しかし、だからと言って、神の国が、この世のものと変わらないもの、日常の延長というのではありません。神の国は神の国であって、この世とは違います。そこでは、今までの物の考え方、人生観、世界観は通用しません。自分が一番という考え方から神を第一にすること、物事の判断の基準が、人々の意見でなく神の言葉となること、自己実現ではなく神の栄光を求めることなど、神の国を受け入れるには大きな変化が必要です。イエスはそれを「悔い改め」という言葉で言い表わしておられます。「悔い改め」とは、たんに懺悔をするとか、過去を悔やむということではありません。それも必要なことですが、目指すところは、神の国に向かって生きるということです。いままでの古い生き方に背を向け、イエスに向かって、まわれ右をするということです。
また、イエスは「福音を信ぜよ」と言われました。福音は神の国を教えるだけでなく、神の国、つまり、神の愛の支配をわたしたちにもたらすものなのです。神の国は、福音の宣言によってわたしたちのうちにもたらされます。神の国は、わたしたちの耳から、福音の形で、わたしたちの内面に、生活に、また人生に入ってきます。
わたしたちは神の国の宣言を、いたるところで聞きます。ひとりで聖書を読むとき、誰かといっしょに聖書を学ぶとき、礼拝でメッセージに耳を傾けるとき、聖書や信仰の書物を読むときなど、イエスはわたしたちに今も、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と語り続けておられます。そうです、時は満ちているのです。いったい、これ以上何を待つというのでしょう。「悔い改めて福音を信ぜよ。」この言葉に従順でありましょう。
(祈り)
父なる神さま、あなたはわたしたちに、あらゆる機会を通して、福音を語っていてくださいます。あなたの御国は、御子イエス・キリストによって到来し、御子は神の国の到来を宣言してくださいました。ひとりひとりの心を開いて、イエスの力強い宣言を受け入れさせてください。この日、多くの人が神の国に生きる者となることができますように。イエスのお名前で祈ります。
2/4/2018