1:1 宣告。マラキを通してイスラエルにあった主のことば。
1:2 「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。──主の御告げ。──わたしはヤコブを愛した。
1:3 わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」
1:4 たといエドムが、「私たちは打ち砕かれた。だが、廃墟を建て直そう。」と言っても、万軍の主はこう仰せられる。「彼らは建てるが、わたしは打ちこわす。彼らは、悪の国と言われ、主のとこしえにのろう民と呼ばれる。」
1:5 あなたがたの目はこれを見て言おう。「主はイスラエルの地境を越えて偉大な方だ。」と。
一、66巻の聖書
聖書は、ひとりの人が初めから終わりまで書いた一冊の書物ではありません。およそ1500年もの長い間に、大勢の人の手によって書かれた様々な書物が集められたものです。聖書には、キリスト以前に、ユダヤの人々によって書かれた「創世記」から「マラキ書」までの39の「旧約」の書物と、キリストの弟子たちによって書かれた「マタイの福音書」から「ヨハネの黙示録」までの27の「新約」の書物があります。旧約の書物の数と、新約の書物の数は「3×9=27」と覚えると良いでしょう。
「旧約」「新約」の「約」は「契約」あるいは「約束」の「約」です。その「契約」とは、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」(出エジプト6:7、レビ26:12、エレミヤ30:22、エゼキエル36:28など)という、神と人との契約です。神は、アブラハムを選び、その子イサクを選び、またその子のヤコブを選び、ヤコブの子孫をエジプトの奴隷から救い出し、モーセを通して彼らと契約を結び、彼らをご自分の民としてくださったのです。
ところが、ユダヤの人々は一方的に神との契約から離れてしまいました。けれども神は、ご自分の契約を破棄しませんでした。それを保ち続け、モーセによって結ばれた古い契約(旧約)をイエス・キリストによって更新し、新しい契約(新約)としてくださったのです。新約ではユダヤの人々ばかりでなく、イエス・キリストを信じる者は、誰でも「神の子ども」また「神の民」とされるのです。
聖書の「約束」とはひとことで言えば、「救い主キリスト」です。旧約は救い主が来られることを預言するもので、新約は預言の通りに、キリストが来られ、救いが成就したことを告げるものです。そういう意味では、旧約は「約束篇」、新約は「成就篇」です。物語でいうなら、旧約は「予告編」、新約は「完結編」です。アウグスティヌスは「新約は旧約の中に隠されており、旧約は新約の中に表されている」と言いました。旧約なしに新約を正しく読むことはできませんし、新約なしには旧約は意味を持ちません。
旧約は新約の三倍以上もの分量があるので、敬遠されがちですが、順を追って読み進んでいくことをお勧めします。その時、旧約のそれぞれの書物の主な出来事や人物を覚えておく良いでしょう。たとえば「創世記」なら天地創造、アダムとエバ、カインとアベル、ノアと洪水、アブラハムとイサク、ヤコブとヨセフ、「出エジプト記」なら、モーセ、過越、十戒、幕屋などです。モーセ以後では、ヨシュア、サムエル、ダビデ、ソロモン、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤといった人々、そしてバビロン捕囚と神殿再建といった出来事が大切です。こうした聖書の大きな流れについては、別に学ぶ機会があればと願っています。
二、マラキの時代
さて、きょうは、旧約の最後の書物、「マラキ書」の初めの部分を読みました。預言者マラキその人については、詳しいことは知られていませんが、彼が預言した時代は、マラキ書の内容から特定することができます。それはエルサレムの城壁を再建した総督ネヘミヤや人々に律法を教えた学者エズラと同じころでした。
ネヘミヤは城壁の再建を果たしたあと、いちどペルシャに帰り、再びエルサレムにやってきました(ネヘミヤ13:6-7)。すると、城壁の再建をさんざん妨害したアモン人トビヤに、こともあろうに、聖なる神殿の部屋のひとつがあてがわれていたのです。トビヤはユダヤの人々に親族の娘たちを嫁がせ、姻戚関係を築いてユダヤの人々の中に入り込んできました。それは友好関係を持つためではなく、自分の影響力を強めて、エルサレムを手に入れようとするためでした。ユダヤの人々の中には、そうした地元の有力者と結びつき、妻を離縁し、彼らの娘たちと結婚する者もありました。エズラやネヘミヤはこの問題と取り組みました。マラキもまた、「あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。『わたしは、離婚を憎む』とイスラエルの神、主は仰せられる」(マラキ2:15-16)と預言しています。
いつの時代でも、平穏で生活が安定すると信仰が生ぬるくなるものです。マラキの時代には、祭司たちでさえ律法の規定にかなわないものを捧げ(1:8)、人々も神への捧げものを惜しんでいました(3:8)。神への信仰が軽んじられるとき、決まって、社会に不正がはびこるのですが、この時代にも、労働者に正当な賃金が払われなかったり、やもめ、みなしご、在留異国人が苦しめられたりしていました(マラキ3:5)。イスラエルの国は、そうしたことのために滅びたのに、またもや同じことを繰り返しているのです。エルサレムの人々は神の恵み、あわれみによってバビロンから帰り、苦労を重ねて神殿を立て直し、城壁を修理し終えました。しかし、神殿が再建され神殿での礼拝が再開されていても、人々の信仰はまだ建て直されておらず、神への礼拝の心は養われていなかったのです。目に見える城壁は修理されても、信仰の生活を守る心の城壁は、破れ、壊れたままだったのです。
私は教会堂の建築や改築に何度か関わったことがあります。教会堂の建築や増改築は簡単なことではありません。建築委員会で何度も会合を重ね、会員総会に諮り、市の許可を受け、ファンドレイズンのため奔走しなければなりませんでした。また、背後でどれほどの祈りが積み重ねられたことでしょう。そうした労苦が実ってやっと教会堂が出来上がるのですが、じつは、もっと労苦の大きいのは、目に見えない「教会」の霊的な建設です。神の民、キリストのからだ、また、聖霊の宮としての「教会」を建て上げることは、「教会堂」を建てるよりも、もっと難しいのです。「使徒の働き」には「教会堂」建築のことは書かれていません。資産家の信者から邸宅の一部を提供してもらったり、大きな家を借りたりして、それを教会堂としていました。聖書に書かれている使徒たちの味わった苦しみは、会堂を建てるためではなく、「キリストのからだ」である教会を建て上げるための苦しみでした(コロサイ1:24)。
マラキもまた、神殿があることを誇り、城壁があることに安心している人々に、その思いを神殿からその中で行われる礼拝へ、その目を城壁からその中での生活の営みへと向けるようにと教えています。
三、愛の問いかけ
マラキの預言はとても特徴的で、神の問いかけと人々の返答が組み合わされています。それが1章で2回、2章で1回、3章で3回、合計6回出てきます。1:6では「どこに、わたしへの恐れがあるのか」という神の問いと「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」という人々の返答があります。2:17には「あなたがたは、あなたがたのことばで主を煩わした」という言葉と「どのようにして、私たちは煩わしたのか」という返答、3:7では「わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう」という呼びかけと「どのようにして、私たちは帰ろうか」という返答、3:8には「あなたがたはわたしのものを盗んでいる」という叱責と「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」という答えがあります。
神が人々の罪を指摘されるのは、人々がそれを悔い改めて、その罪を赦され、そこからきよめられるためです。それは大きな神の恵みであるのに、人々はこんなふうに返答したのです。「どのようにして、あなたの名をさげすみましたか。十分敬っているではありませんか。どのようにしてあなたを煩わせましたか。神様、あなたが勝手にいきり立っているだけではありませんか。私たちはもう神のもとに帰っています。なのに、なぜまだ『帰れ』と言われるのですか。」人々は、ことごとく神の語りかけを突き返しています。じつに固い心のままです。それで神が「あなたがたはわたしにかたくななことを言う」と言われると、人々は「私たちはあなたに対して、何を言いましたか」と平気な顔で言うのです(3:14)。これ以上のかたくなで頑固な返答はないでしょう。
こうした箇所は、客観的に読むだけなら、「この人たちはなんと頑固で、愚かなのだろう」と、他人事で済ませられます。しかし、それが、自分に向けられたものであれば、私たちは、それにどう答えるでしょうか。いや、実際、神は、罪を犯したアダムに「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9)と呼びかけて以来、私たちひとりびとりに、日毎に呼びかけ、語りかけてくださっているのです。私たちは、それにどう答えてきたでしょうか。
「わたしはあなたがたを愛している」(1:2)という神の呼びかけは、神の人への呼びかけの要約です。聖書は「神の言葉」、神から人への呼びかけですから、「わたしはあなたを愛している」というのは、聖書の要約であると言ってもよいでしょう。アメリカでは “I love you.” は挨拶のように頻繁に使われます。しかし、人間の愛には偽りの愛もありますし、「あなたがこうしてくれたら愛してあげましょう」という条件つきの愛がほとんどです。たとえ真実なものであっても、人間の真実には限界があります。しかし、神の愛は人間の愛とは違います。それは永遠に変わらない力強い愛です。きょうの箇所で、神は、ご自分の愛を伝えるために、「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と言われました。これは、エサウが長子であったのに、弟のヤコブがイスラエルの先祖となったという、ユダヤの人なら誰でも知っていることを言っています。ここでは、神が兄が家督を継ぐという「条件」に従ってではなく、無条件に、弟という、あえて劣ったものを選んだということが強調されています。神の民は、神の無条件の愛によって選ばれ、愛されてきたのです。そうであるのに、ヤコブの子孫が「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と答えているのはいったいどうしたことでしょうか。神は言われます。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:2-4)「たとえ火の中、水の中」という言葉がありますが、神はそれほどに、神の民を愛してこられた。なのに、神の民は、その愛に全く答えなかったのです。
今日の神の民、キリストを信じる者には、神がご自分のひとり子、イエス・キリストを賜ったほどの愛が注がれています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(ヨハネ第一4:10)「ここに愛がある。」どこに?「十字架の上に」です。人間の愛はハートの形で表わされますが、神の愛は十字架の形で表されているのです。十字架以上に神の愛を物語るものはありません。
こんな話があります。ある人が夢を見ました。その人はあることがらでたいへん苦しみ、神の愛を信じられなくなっていました。そんな時、夢の中にイエスが現われ、「わたしはあなたを愛している」とその人に語りかけました。その人は、夢の中で「イエスさま。あなたが私を愛しておられることが分かりません。いったいどれくらい私を愛しておられるというのですか」とイエスに言いました。すると、イエスは、両手をいっぱいに広げて、「これくらいだよ」と言い、そのまま、その両手に釘を受けて十字架にかかられました。その人はそこで目覚め、イエスの十字架の愛を受け入れたということです。
私たちも、この愛によって救われます。自分は誰からも愛されていないと感じている人は決して他の人を愛することはできません。子どものころ十分な愛を受けなかった人や偽りの愛に裏切られてきた人は特にそうです。けれども、そのような人も、神の愛を受けるとき、過去の傷がいやされます。神と人とに愛され、神と人を愛する、幸いな人生に導かれます。
「わたしはあなたを愛している。」旧約の締めくくりにこの言葉があるのは意味深いことです。私たちは、神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」(エペソ3:18)を、さらに教えられ、その愛に答えていきたいと思います。
(祈り)
愛の神さま。あなたは、聖書によって「わたしはあなたがたを愛している」とおおやけに宣言し、聖霊によって「わたしはあなたを愛している」と、ひとりひとりに個人的に語りかけてくださっています。私たちがその愛の呼びかけをかき消すことがないように、あなたの愛の呼びかけに、精一杯の愛を込めて、応答することができるよう、助けてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/23/2020