9:28 これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。
9:29 祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。
9:30 しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、
9:31 栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。
9:32 ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。
9:33 それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。
9:34 彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。
9:35 すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした。
9:36 この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。
アニメや映画に「変身ヒーロー」というジャンルがあります。スーパーマンやウルトラマンがそうです。地球以外の星からきたヒーローがふだんは新聞記者であったり、地球警備隊員であったりするのですが、いざというときに変身して敵と戦い人々を守るというストーリーです。女の子向けのアニメでは、セーラームーンなどがありますね。私の知っているのはそんなところですが、最近はどんなのがあるのでしょうか。こどもたちのほうが良く知っていそうです。
きょうの箇所にはイエスが姿替わりしたことが書かれています。私たちはこの出来事を「キリストの変貌」(The Transfiguration)と呼んでいますが、イエスは「変身ヒーロー」のように変身して敵と戦ったわけではありません。モーセとエリヤと話し合っただけです。しばらくしてイエスはふだんの姿に戻り、弟子たちといっしょに山から降りてこられました。この山は、ガリラヤ湖から西南に10マイルほどにあるタボル山のことではないかと思われ、タボル山は「変貌の山」と呼ばれています。この「変貌の山」で起こった出来事は、イエス・キリストについて何を教えているのでしょうか。また、それは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。そのことをご一緒に考えてみましょう。
一、イエスは神の御子
第一に、「変貌の山」でイエスはご自分が神の御子であることが示されてました。イエスは栄光の姿に変わることによって、ご自分が神の御子であることを弟子たちにあかしされたのです。
山の上でキリストのお姿が変わったとき、雲が起こりましたが、聖書では雲は神の栄光の象徴です。エジプトから脱出したイスラエルの人々が荒野を進んでいく間、神は雲の柱を起こし、人々の行く手を示しました。雲の柱は、神がイスラエルの人々とともにおられることのしるしでした。神は荒野でテント式の神殿、「幕屋」を作るように命じられ、それが完成したとき、それを雲で包み、そこに神の栄光を現されました。聖書に「雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた」(出エジプト40:34)とあるとおりです。後にソロモン王が恒久的な神殿を建てましたが、その時も、雲が神殿をおおいました。「雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである」(列王記第一8:10-11)と聖書にあります。このように「雲」は神の栄光を表わしています。「変貌の山」で「雲がわき起こって」その場を覆ったのは、神の栄光の現れを意味します。弟子たちは雲に包まれ、恐れを感じましたが、それは、旧約時代に神の栄光に触れた人々が恐れをいだいたのと同じことでした。
イスラエルの人々は、毎年秋に「仮庵の祭り」を祝います。定住の土地を与えられたのちも、かつて荒野でテントぐらしをしたことを覚えるためでした。それぞれが家の庭先に仮小屋を作ってそこで数日を過ごします。そして、かつて、神が幕屋を栄光で満たしてくださったように、神がその栄光を再び神の民に現してくださるようにと祈りました。ペテロが、「小屋を三つ建てましょう」と言ったのは、仮庵の祭りのときに建てる小屋のことをさしていると思われます。神が再び神の民を訪れ、その栄光を現してくださるという約束が、「変貌の山」で実現したのです。
ペテロは、変貌の山での体験を、のちにこう書いています。「この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。キリストが父なる神から誉と栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。『これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。』私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」(ペテロ第二1:16-18)ペテロははっきりと、イエスの栄光、威光を目撃したと語っています。イエスは「変貌の山」でご自分が神の御子、栄光の主であることを示されました。
二、イエスの最期
第二に、「変貌の山」でイエスの最期が語られています。それは、ふたりの人、モーセとエリヤがイエスと話し合っていたことから分かります。
しかし、弟子たちはどうして、このふたりがモーセとエリヤだと分かったのでしょうか。私はモーセやエリヤが、それぞれ特徴ある姿をしていたからだと思います。モーセの特徴的な姿とは、「杖」を持っていることですね。モーセはエジプトで、その杖を使って数々の不思議を行い、その杖で紅海を分けて、イスラエルの人々をエジプト軍から救いました。モーセはきっとその杖を手にして現れたのでしょう。では、エリヤの特徴的な姿とは、何でしょうか。それは、「毛衣と皮の帯」です。列王記第一1章に、アハズヤ王が家来に「このことばを伝えた預言者はどんな姿をしていたか」と尋ねたことが書かれています。家来が「毛衣を着て、腰に皮帯を締めた人でした」と答えると、アハズヤ王は即座に「それはエリヤだ」と分かりました。「毛衣と皮の帯」はエリヤの「トレードマーク」だったのです。変貌の山でもエリヤはそういう服装で現れたのかもしれません。
この箇所で注目したいのは31節です。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話しておられたのである」とあります。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期」、それが何であるかを私たちは知っています。イエスがエルサレムでユダヤの宗教指導者に捕まえられ、ローマの総督に引き渡され、十字架につけられ、苦しみのはてに死んでいくということです。イエスが栄光の姿に輝いておられるそのときに、イエスが人々から傷めつけられ、辱められ、ボロボロにされて十字架の上にさらしものとなるということが話し合われていたのです。栄光の姿に変わられたイエスが、その栄光についてではなく、その苦しみや、辱め、そして、その死について語っておられるのは、なんともちぐはぐなことだと思いませんか。確かにちぐはぐです。しかし、このちぐはぐさの中に、イエスがこれからなそうとしておられることがどんなに大切なことかが物語られているのです。
31節で「最期」と訳されていることばは、実は、ギリシャ語で「脱出」を意味する「エクソドス」です。英語で "Exodus" は「出エジプト記」のことです。「出エジプト」の「出」は「脱出」の「出」なのです。モーセはイスラエルをエジプトの奴隷から救い出しましたが、イエスは第二のモーセとなって人々を罪の奴隷から解放してくださるのです。出エジプトのとき、過越の小羊が屠られ、その血が流されましたが、イエスは、過越の小羊にもなって、十字架の上で血を流し、死んで行かれるのです。それは私たちを罪から救い、神の栄光に導くためでした。イエスのあの悲惨な「最期」は私たちの栄光への「脱出」のためだったのです。
十字架にかかられたイエスに人々は「おまえが神の子ならそこからおりてみろ」と罵りました。イエスはそのときこそ、栄光の姿に変身して、自分を苦しめた人々と戦っても良かったのです。しかし、イエスはそうなさいませんでした。人々を救うために十字架に留まりました。「キリストの変貌」と言いますが、タボル山での栄光のお姿がイエスの本来のお姿した。イザヤ書52:14に「その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」というキリストについての預言があります。映画 "The Passion of the Christ" でご覧になったように、キリストの受難の姿、人類の罪のために、苦しめられ、卑しめられ、傷つけられた、惨めな姿こそ、キリストの「変貌」された姿だったのです。キリストは、私たちを罪から救うために、ご自分の栄光を捨て、姿形が変わるほどに鞭打たれ、「変貌」なさったのです。たしかにイエスはその死から三日目に復活され、栄光に入られますが、イエスの栄光は、十字架を通っての栄光だったのです。
三、栄光への道
第三に、「変貌の山」での出来事は、弟子たちに苦難への準備をさせるためのものでした。
イエスが変貌の山に来られたのは、ガリラヤでの伝道を終えられ、エルサレムに向かう途中でした。ガリラヤ伝道の最後にイエスは弟子たちに「あなたがたはわたしを誰だと言いますか」と問いかけ、ペテロは「神のキリストです」(ルカ9:20-21)と答えています。「変貌の山」で、イエスはご自分が、ペテロが答えた通り、神の御子、キリストであることを示されました。
弟子たちが「神のキリスト」と告白したとき、イエスは「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです」と言って弟子たちに十字架と復活を予告されました。そして、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言って、弟子たちにイエスとともに苦しむ覚悟をするように言われました(ルカ9:22-23)。弟子たちはイエスがエルサレムに行くのはユダヤの王となるためだと思っていました。イエスが王になれば、自分たちはその右、左に座ってユダヤを治めるようになるという期待も持っていました。しかし、イエスが弟子たちに約束された栄光はそんな地上の栄光ではありませんでした。イエスが受けられる栄光は復活の栄光でした。復活の栄光は苦難を通してしか与えられません。そのように、弟子たちも復活の栄光にあずかるためにはイエスとともに苦しむ覚悟が必要でした。イエスは「変貌の山」でモーセとエリヤを証人に呼び寄せて、ご自分が受けようとしている苦しみを弟子たちに教え、これから起こることに備えさせようとされたのです。
私たちも、二千年前の弟子と同じように、イエスがどのようなお方であるか、イエスが何を成し遂げるためにおいでになったかを、教えられたいと思います。聖なる山で、イエスのほんとうの姿に触れた弟子たちのように、イエスの栄光を仰ぎみたいと思います。この栄光の主が、私たちの罪の身代わりとなって死ぬために人となり、世に来てくださったことを覚えたいと思います。今週からレントが始まります。十字架を目指して進んでいかれる主イエスと共に、私たちも苦難や恥を恐れずに進みましょう。栄光は苦難を通して来るからです。苦難ののちにかならず栄光は来ます。イエスとともに苦しむ者はかならずイエスとともに栄光にあずかることができます。「イエスの変貌」はそんなメッセージを私たちに語りかけています。
聖書は言います。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い栄光をもたらすからです。」苦しんでいるとき、それを「軽い」と感じることは難しいことです。客観的に見れば小さなことであっても、苦難に直面している本人には、重く、大きく、動かしがたいほどのものに感じられます。しかし、イエスとともに苦しみを背負うなら、それは軽くなります。イエスが示してくださる栄光を見るなら、その重荷から「脱出」することができます。イエスは私たちが罪と重荷から「脱出」し、栄光に向かうことができるために自らを投げ出し、罪人の姿に変貌してくださったお方です。このお方が、私たちに「脱出」へと導いてくださらないはずがありません。私たちを栄光から栄光へと変えてくださるのです。そのことを想い見ながら、イエスとともに、この週を歩み出そうではありませんか。
(祈り)
父なる神さま、あなたは「変貌の山」で弟子たちに「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」と声をかけられ、私たちに、誰を信じ、誰に頼り、誰に聞き、誰に従うべきかを教えてくださいました。あなたの御子イエス・キリストこそ、私たちが信じ、頼り、聞き、従うべきお方です。私たちはこのお方に従います。主が歩まれた道を歩みます。それこそが栄光に至る道だからです。どうぞ、私たちの歩みを導き助けてください。生ける神の御子、イエス・キリストのお名前で祈ります。
2/19/2012